多文化研HAIKU会

講評:貫隆夫(多文化研顧問「俳句連中・まだん」会員)

プロフィール:1940年鹿児島市生まれ。慶應義塾大学大学院商学研究科博士課程単位取得。専攻は経営学。武蔵大学教授、大東文化大学教授を経て、現在、武蔵大学名誉教授。

    

講評:坂内泰子(日本語教師、自治体国際化協会 地域国際化推進アドバイザー)
2021年4月~2022年3月

プロフィール:日本文学研究が出発点ですので、芭蕉や蕪村の授業を持ったこともありますが、そんなことをしているうちに詩心(うたごころ)を失ってしまいました。多文化研HAIKU会で、詩心を取り戻し、世界じゅうの人とともにうたう体験を楽しみたいと思います。

        

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3月 投句まとめ
兼題「ぶらんこ」

今年度最後の3月の句です。
兼題は「ぶらんこ」でした。ぶらんこに季があることに驚かれるかたもおられるかもしれません。なぜ?と思われたかたはどうぞこちらをごらんください。
https://japanknowledge.com/articles/kkotoba/43.html

ぶらんこに乗る子等はなし嗚呼キエフ      
貫隆夫

ウクライナの辛い状況はキエフに限りませんが、生命の危険にさらされて子供たちは公園のぶらんこで遊ぶどころではない事でしょう。いったん「ぶらんこに乗る子等消えてキエフかな」と作ってみて、軽薄な言葉遊びになりそうなので掲句のように改めました。

木の芽張る人類いまだ戦争す        
貫隆夫

自然は木の芽が吹いてくる春だというのに、21世紀になっても国家間の問題解決の手段として戦争という暴力が行使されることに慄然とします。

ぶらんこの 背を押す春や 孫の声
増田隆一

驚くほど慎重な2歳の孫も、ぶらんこだけは臆せず乗ろうとします。僕が背中を押すと声をあげて笑います。『この感触は久しぶりだな』と過ぐる自分の年を、手のひらに感じました。

花の下 ぶらんこ揺する マスク顔
増田隆一

公園のぶらんこは、以前に比べ遊ぶ子供たちの数も少なく、外出の手控えがまだ続いているようです。付き添いの親たちもマスクをしていない人は皆無に近く、コロナ禍が去ることを祈らずにはいられませんでした。

わか竹に 木の芽散らして 冬しまう
増田隆一

ようやく最高気温が15度を超え、空気の肌触りが春めいてきました。季節を感じる献立を工夫しましたが、香りのサンショウを見て「あ、冬は終わりだ」と改めて思います。

元宵や千年越しの月近し
陳 康

旧暦の一月の十五夜は、中国の元宵節です。新暦ですと2月後半となります。廟会が開催されたり、恋人同士が面会したり、家族団らんして月を鑑賞したりして、新しい一年間を祈願し、本格的に動き出す為の祭日です。これら伝統的な祭日は、過去数十年間も疎かにされてきましたが、この十何年間程で少しずつ重視され、復活するようになりました。清明・端午・中秋などは、国の指定祭日として追加されましたので、喜ばしい事です。

人去りしぶらんこの下草起きる
陳 康

「ぶらんこ」の兼題で大変に苦労致しました。まったく切口を見つかりませんでした。
ひねりにひねって、何とか上句に仕上げて、一応草の生命力を詠むような句にしてみました。

事情により、私が多文化HAIKU会のお世話をさせていただくのは、今回が最後となります。会の興隆には何のお役にも立てませんでした。ご寛容なみなさまに深謝申し上げます。引き続き、どうぞ俳句と言う名の短詩を楽しまれますように。   (坂内)

(河津桜・横浜永谷川緑道:撮影・増田隆一)

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2月投句まとめ (投句順) 
兼題「春浅し」・自由題

寒桜 コロナ忘れる メジロかな
川村千鶴子

健気にも 浅春伝え カンザクラ
川村千鶴子

2月の寒さに負けず、しっかりと開花している寒桜(かんざくら)を初めて見ました。その淡い紅色がとても健気です。寒桜に、留鳥 が遊んでいて、世界の紛争もコロナ禍もしばし忘れました。
2022年2月2日2時、清水門から北の丸公園を歩いて田安門に抜ける散歩道です。

建売に 並ぶ幟(のぼり)や 春浅し  
貫 隆夫
    
私が住んでいる清瀬市は東京都としては地価が安いせいか、これまで畑だった所や駐車場をつぶして建売の一戸建てがよく売られています。売り出し中の建売には幟が立てられています。3月の転勤など移動の多い月を控えて近所には幟が立っているところが何か所か見られます。

落椿(おちつばき) 花の姿を 掃かれけり  
貫 隆夫
 
花弁がばらばらに散る山茶花(さざんか)とちがって、椿は花の形を保ったままポトリと落下します。まだ十分に花として美しい姿のまま、さっさと掃かれてしまうのは何かもったいないような気もします。

雪積もる 花の蕾や 春浅し
増田隆一

節分を過ぎれば春のはずが、首都圏が一面の雪景色になりました。緑道の桜並木には、蕾がたくさん吹き出していて、春の準備は進められていると見えます。蕾に積もった雪が寒そうでした。

川の鯉 鰓洗いして 浅き春
増田隆一

最近の都市の川は、高度成長期のようにコンクリートで護岸を固めず、自然石や葦の植え込みを作って、自然相を残す工夫がされています。葦の茂みの中で鯉がうごめくさまを「鰓洗い(えらあらい)」と呼び、春の兆しです。「あと少し」という気配があります。

店先に 桜餅見ゆ 去るか冬
増田隆一

最高気温が10度に届かない日々が続いていても、節分・建国記念日・バレンタインデーと、カレンダーの行事欄は、着々と春に近づいています。スーパーの和菓子コーナーには「桜餅と草餅」のパックが並んでいました。

枯れ野原 雨後の薫りや 春浅し
陳 康

枯れ果てた野原でも、春がまだ本格的に来ていなくても、一回の春雨だけで命の息吹を感じさせてくれます。

青くして 落ちる葉の先 春浅し
陳 康

同じく生命の季節ですが、何かの原因で、春が来る直前に去ってゆくものもあります。無常を詠んでみました。

(横浜・永谷川の葦群 :撮影・増田隆一)

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2022年・1月投句まとめ

兼題 : 初何、または 何始め
今回から、事情により、句と作者の自注のみを掲出することになりました。(坂内)

初富士を拝む吾なり日本人
貫 隆夫

1月3-5日、娘が会員になっている山中湖畔のログハウスの施設で過ごし、快晴に恵まれ初富士を仰ぐことができました。富士山を眺めていると自然に掌を合わせ拝む気持ちになるのは自分が神道の流れをくむ日本人であるからなのか、世界各地に見られる普遍的な山岳信仰の一形態なのか、よくわかりません。ヒマラヤの「神の山」は神の住む山として山とは別に神がいるのか、山そのものが神なのか、ネパールのご出身のラビ・マハルザンさんに伺ってみたいところです。
 
過ちは過去に去るもの年新(としあらた)
貫 隆夫

これまで生きてきて、また昨年1年間だけでも数多くの過ちを犯しました。しかし、幸いなことに過ち(あやまち)は過ぎ去る(すぎさる)の過と同じ字です。過ぎる→行き過ぎる、がその理由です。新年を迎え、いつまでも過去の過ちを引きずることなく、今年は今年の自分を精一杯生きましょう!

初詣 宮(みや)の近くに 和紙の店
川村千鶴子

隣にあるのですが、素晴らしいです。

そびえ立つ ビルの外壁 初清掃
川村千鶴子

雪が降る中、屋上から降りながら、ビルの外壁清掃に精を出す人がいました。

「こっちだよ」 孫のあと追う 初詣
増田 隆一

ようやく小走りができるようになった孫は、両親よりも束縛がゆるい祖父母のほうが自由を謳歌できると知っていて、好き放題に動き回ります。今年の初詣は昨年よりも人混みが濃いようで、見失わないようにするのが大変でした。

初物は 全てと見たり 節の重
増田 隆一

昨年はネット通販のコピーに負けて取り寄せてしまった「おせち料理」でしたが、内容がやはり故郷の習慣とは違っていて、なんだか正月らしい気分になりませんでした。今年は品数が少ないものの、自作で整えました。その年の最初に食べるものが初物ですが、正月のおせちは全てがそれに相当するんでしょうか。

あと何度 拝められるや 初日の出
増田 隆一

高校生の時、井上陽水の「人生が二度あれば」が流行りました。老いた両親の様子を見て、息子がその労苦をねぎらう歌詞ですが、「父は今年2月で65」となっています。自分がその年齢を超えていることに戦慄しました。

今日よりは 仕事始めよ 紅い靴
原田壽子

花鉢を 車庫に並べて 初雪か
原田 壽子

寒い日が続いています。雪もどっさりふりました。

稚児の歌眩しき冬の日差しかな
陳 康

澄み切った冬の日差しを浴びながら、童謡を歌うチビっ子の澄み切った声が聞こえてきました。
眩しく感じたのは冬日であり、チビッ子の純粋さであり、遠く昔の記憶でもあります。
一瞬恍惚とした気持ちを俳句に致しました。

初刈りや肩を縮めて職探し
陳 康

中国に「初〇〇」の様な発想や言い方があまりないので、この句で苦労致しました。
男性ならよく分かると思いますが、この季節だから髪を切ると、頭はかなり寒いです(笑)。
そして厳しい経済情勢の中で職を探すなら、さらに寒意を覚えるものでしょう。とはいえ、新年ですから、頭をさっぱりして、気持ちも新たにして、頑張って頂きたいものです。精一杯努力している全ての方々に、祝意を申し上げます。

(撮影:貫真英)

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12月15日〆投句まとめ
もう2021年も残りわずかとなりました。更新が遅くなって申し訳ありません。今回の兼題(共通してみんなが考える題)は「冬至」でした。

以下、句は投句のまま、投句順、カッコ内は作者の自注、その他は、お世話係坂内が書いたものです。

訳ありの男訪い来る冬至かな 
貫 隆夫

(冬至になって作った句ではないので実景ではありませんが、卒業生のなかには離婚や子供の病気など様々な経験を重ねている人もいます。離婚を訳ありと言うのはオーバーかも知れませんが、たいていの人はそれぞれなんらかの事情(訳)を抱えながら生きています。)

冬至のお客さん、艶めいたかたのご登場というわけにはまいりませんね。人間、多少翳があるほうが光の射す希望もあるというもので、よろしくはないでしょうか。

湯豆腐の湯気温かき独居かな 
貫 隆夫

(これも実景ではありませんが、一人暮らしをされている方、伴侶が入院中の方などが湯豆腐を食べる情景はこうなるのではないか、と想像した句です。)

湯気の温かい湯豆腐ですから、お連れ合いの退院も近そうな、喜びが漂います。独居生活も終わりが見えてくれば、お気楽で楽しいものになるからかもしれません。人の気配を感じさせる食べ物の筆頭は鍋物ですが、外国にもそんな食べ物があるのか気になるところです。

明け空の 中の朝餉や 冬至る
増田 隆一

(朝6時といえば、真夏の7月はカンカン照りの朝日が窓からあふれていました。今日の横浜の日の出は6時42分。老夫婦の朝食の時間はまだ真っ暗です。夜を楽しむ文化が少ない日本の冬は、なんとかならないものかと思います)

私はこの句で、結露する窓の向こう側の白んでいく空模様を楽しみながら、暖かいコーヒーなんぞを召し上がるさまを想像いたしました。召し上がり終わるころにはお日様が出てくるに違いありません。

かぼちゃ食べ ゆず湯は粉の 冬至かな
増田 隆一

(冬至の1週間前。かぼちゃはトンガ産でも煮物として食べられますが、風呂の湯船に沢山いれられるほどの柚子は、なかなか安価に手に入りません。バスクリンで我慢することにしました。)

お店の柚子を柚子湯に調達しようと思うと、確かになかなか値段の折り合いがつきません。道端の無人販売で巡り合えるなり、隣の庭のを頂戴するなりできればいいのですが…。海を越えてくるかぼちゃを使うにしても、かぼちゃだけでも伝統を受け継げることを、まずは喜ばなくてはいけない世の中になったのでしょう。

紋付で 挨拶回りや ジョウビタキ
増田 隆一

(俳句の季語としては秋だそうですが、ジョウビタキの姿を見るのは圧倒的に初冬です。オレンジが美しい体に真っ黒の翼があり、翼の真ん中にかわいい白い模様があります。なんだか商家の若旦那が暮れの挨拶回りをしているように見えました)

ジョウビタキの若旦那とは面白いお見立てです。そういわれるとそのように見えてきます。メスが大人しい紋付を着ているのも、また一興です。うちにも挨拶回りに来てほしいのですが、なかなか忙しいようで立ち寄ってくれません。

もう冬至見舞い帰りの空暗し
病む友に寄り添うてはや冬至なり
坂内 泰子

(長年の友人が体調不良です。そういう年齢なんだな、としみじみ思いながら、励ますことしかできません。)

かぼちゃ煮て一陽来復柚子もあり
坂内 泰子

(かぼちゃも柚子も、明るい色の食べ物で、まさに一陽来復を祈るにふさわしいです。祖母が早稲田の穴八幡にお札をもらいにいっていたことを思い出しました。今度私も行ってみようかと思います。)

ほんのりと 白い月あり 冬至朝
人去りて 暗き街 冬至かな
原田 壽子

(冬至という言葉は何となく暗い世界をイメージします。   明日から日が伸びていくうれしさが、なかなか感じられません。)

冬至の遅い夜明け、その空に浮かぶ月、幻想的な一幅の絵のように感じました。
2句目は人が通り過ぎて行った街角を見下ろす視角でしょうか。人一人去っただけで、動きも音も失った暗い街に戻るという発見も、映画の1シーンのようです。

神殿の前や微かな虫の声
陳  康

(秋ごろの試作で、今になって、なんとか終わらせました。人の為の神殿ですが、人から生命価値が弱いとされる虫たちの声も、神様にちゃんと届けて聴かれるのかと、思ったりします。また権力者の耳に、それぞれの国に生息する弱い庶民たちの声も、ちゃんと届けて聴かれるのかと、思ったりします。)

最初、日本の神さびた神社を想像しました。「神殿」はちょっとそぐわない単語のように感じていたのですが、素直に「神殿」と理解すると、どんな神殿だろう?エジプトみたいな石の巨大なもの?東南アジアにあるようなタイプ?極彩色?屋根は?などと、いろいろ想像して楽しめました。虫の声は作者のいうように、弱い者の声かもしれませんが、神を賛美する声かもしれませんし、転生した死者の声かもしれません。俳句という文芸は「言わなくてもわかる」ような共通認識の地盤から立ち上がったようなところがあります。短詩型文芸は世界に多くあると思いますが、日本語の五七五音で、どこまで世界に羽ばたけるか、多様な認識のもとで、日本語にどんな可能性があるか、興味が湧いてきます。

国際ニュース見終えて求む冬至の陽
陳  康

(毎日の国際ニュース番組を見ていますと、暗い話ばかりです。限られた経験の中では、今の国際状況が最も深刻な時期に入っているかと感じて、まさに陽だまりが欲しくなる「冬至」の様です。自然界の冬至なら、日照時間が最も短く、夜が一番長いとの事ですが、冬至が過ぎたら、日照時間がまた少し長くなって春に向かっていきますが、政治の世界はどうでしょうか。)

本当にその通りです。私もまた、冬至から少しずつ日が伸びて、明るくなること、暖かくなることを切に望みます。陳さんのお国とも、春の日ざしの中、ぼんやりと日向ぼっこをしているような関係だとうれしいです。

子の笑みも団子も円き冬至の夜
陳  康

(すこし暖かい雰囲気の句も作ってみました。中国の南方の風習ですと、冬至の日には蝋燭を灯して、丸い蜜柑を飾りながら、親子一緒に「湯円」という団子を手作りします。一部はその日に茹でて食べますが、また一部は新年の中元節までに残します。家族団らんと豊作を祈念する為のものだと思います。)

湯円は台湾で食べたことがあります。甘くておいしかったです。ろうそくの炎の揺らぐ中、蜜柑と手作りのお団子で冬至を迎える風習には、心惹かれます。「全部食べちゃったら、中元節が来なくなるよ」などと制されつつも、ほかほかの湯団に思わず笑みがこぼれる子ども・・・なんて幸せな風景でしょう。

柚子香る 令和三年の 冬至かな
川村 千鶴子

 (今日は、ヨガ教室で、身体に向き合いました。ヨガは、身体と心に労わりを与えてくれます。そのあと、柚子湯に浸かって一年を振り返りました。令和3年は、私にとって特別な一年でした。)

冬至の晩、令和三年の残された日を数えながら、心地よい疲れを、柚子湯で癒しつつ、一年を振り返っておられる句ですね。特別すぎたこともおありだったかと拝察いたしますが、柚子の香りがわずかでも心身の助けになったことと存じます。

(戸塚駅付近:撮影・増田隆一)

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11月15日〆 投句のまとめ
兼題「新米」 稲やお米についての秋の句、および自由題。 
(以下、投句は原文のまま、投稿順に掲載)

稲刈り機に男一人の田んぼかな        
貫 隆夫

(*かつては田植えと稲刈りは家族総出、村総出の作業でしたが、今は田植え機や稲刈り機を使ってやるようになりました。機械化で効率は良くなりましたが、機械一台、男一人、あとは田んぼだけというのは農の風景としてなにか寂しさを感じます。)

確かにその通り、と思います。「結」なんて言葉もありましたが、結び目がほぐれていったのでしょうね。かつて高度経済成長の時代、農業も新しく力強いものを目指すどころか、世の中全体で、農業の未来を放置していたように感じます。一人で稲を刈る風景が、効率的で生産性のある形として、頼もしく思える時代が到来しないものでしょうか。若い担い手、新規就農者が頑張れる環境でありますように。
  
鍋囲む和食も確(しか)と文化の日      
貫 隆夫

(*文芸や音楽などに加え、食文化も文化の大切な項目です。鍋料理は世界各地にありますが、すき焼きや河豚(ふぐ)ちりなど食材の種類が豊富な日本には様々な鍋料理があります。)

鍋の具材や味やら、しきたりは家庭ごとに異なり、ちゃんこ鍋も部屋ごとに特徴があるとか聞きますし、おもわぬプチ異文化交流が繰り広げられる場でもあります。鍋奉行などという仕切屋さんも出現します。料理人部門でなく、素人部門、みんながつくる和食文化として、鍋物はぜひ継承していきたい和食ですね。

秋高し お米が香る 茶きん鮨    
川村 千鶴子

(*食欲の秋、海鮮丼とかウナギ鮨などお米がベースの美味しいものがいっぱいありますね。確かに今の時期、お米が美味しい。用心しないと。)

茶巾鮨、わたしも大好きです。秋の空の気持ちよさは、食欲を刺激しますね。紅葉狩りのおともが茶巾鮨だったりすると、青・赤・黄と色もまたきれいです。

花びらや枯れ葉と共に焚かれけり
陳 康

(*初冬とは言え、南国では木綿の花がまだ咲き乱れます。落ちてくるピンクの花びらが、みずみずしく、いかにも可憐に見えます。この花びらが、枯れ葉と一緒に集められて焚かれるのを見て、なんとかわいそう!と一瞬、心に痛みが走る程でした。 しかし、後によく考えますと、もし落花を同情の観点から見るなら、同じく役目を終えて同じ木から落ちてきた枯れ葉は、外見が枯れてしまっただけで、もう同情に値しないのか?外見だけで両者を差別してしまった自分に、反省をさせられました。)

陳さんの優しさをしみじみと感じました。木綿の花は、ほんわかとした花びらが素敵です。さて、花びらも、枯れ葉も、地に落ちたら、同じ扱いになることに、ひとたび気づくと、「だから何?」などとは居直り切れません。人が決める価値・無価値の勝手さを改めて感じさせられました。とはいえ、執着は、どこかで断ち切らない限り、庭も家もまるごと「ごみ屋敷」へと向かいかないことも確かで、難しいものです。陳さんの哲学の一句でした。

ぎごちなき稲刈りの子も泥笑顔
陳 康

(*小さい頃に、両親と一緒に稲刈りに出かけた事を思い出しました。農業の仕事をあまりさせてもらえなかった為、遊び半分の気持ちでした。)

こどものころから親の仕事を手伝って技を身につけるという習慣が近代になって失われていきました。農業をするより、現金収入を得ること、そのためには勉強を、と親世代が考えたことは当然だったと思います。もちろん、親の心子知らずで、無邪気に「お手伝い」をする子どもを見て、親たちは、むしろほっとできたのかもしれません。

稲刈りの父の背中や朝日差す
陳 康

(*前掲句と同じ場面です。なにごとにつけ、子どもを庇った世の中の全ての親たちに感謝します。)

子どもは親の忙しさにつられて、気まぐれな早起き。どうやら、お父さんは夜明け前から田に出ておられたようです。そのとき目に映った記憶は、長い年月を経て、親への感謝に変わりました。

新米の 横に並ぶや 鍋パック
増田 隆一

(*スーパーのお米コーナーには「新米届きました」のワゴンが出来ました。買おうかどうか、決めかねている思案顔のお客も、横に並んだ「お鍋の出汁パック」を見ると、決心がつきやすいようです。市場戦略といえばそれまでですが、お米と鍋パックがコンビとなる違和感は、現代ならではのように思いました。)

おっしゃるように、鍋料理と白飯は同時進行しませんね。とりわけお酒を召し上がるかたには違和感が生まれそうです。でも、現実hは、鍋パックを見て、今晩のおかずが簡単に決まり、じゃ、ご飯を炊こうか、お米も買いましょ、となるのでしょう。お子様は汁かけ飯状態で、おじや風。安く簡単に済んでいいかもしれませんよ。

稲架(はさ)掛けも 稲木も見えず 里の秋
増田 隆一

(*60年前に「秋の田圃」と言えば、刈り取ったイネを乾燥させる稲架掛けの稲木や、積み上げられた稲藁を思い浮かべました。今はコンバインが刈り取りと同時に脱穀まで行い、乾燥サイロで強制的に水分を抜くそうです。昔なら工芸品になった稲藁は邪魔者扱いで、堆肥にするには場所が必要なため、ほとんどが燃やされると聞きました。風景は文化とともに変わるものですが、環境保全とのバランスが気にかかります。)

最近見た新潟の田にも、稲架や稲木はありませんでした。コンバインに乗れると楽なのだそうです。乗り損なうと、コンバインの入れないところを刈る役になり、大変なんだとか。里の秋の風景も変わっていきますが、間違っても田んぼがなくなるような農業にはしてほしくありません。

COP終わり 空の涙か 流星雨
増田 隆一

(*国連気候変動枠組み条約UNFCCCの締結国会合COPが今年も「なんとなく」終わりました。気候変動も海洋プラスチック汚染も、途上国の食糧危機問題すら解決合意に至りませんでした。天体だけは物理法則通りの日常を、何億年も前から続けています。人間の絶滅が地球を救う解決策ではないことを祈らずにはいられません。)

COPまさに「なんとなく」終わりましたね、「開催した」というアリバイが残るのみです。久遠の宇宙の物理的な営みにさえ、気持ちを反映させる私たち人間ですが、そこをこらえて、淡々とクールに解決策を模索しつづけたいものです。涙するのは星ではなく人間なんですよね。

秋惜しみ 新米炊いて 塩むすび  
原田壽子

 
新米に 塩かけにぎり 友思う    
原田壽子

(*北の国に住む友から今年も新米がとどきました。新米のおいしさを味わうにはお塩で食べることと教えてくれた友、炊いて熱いご飯を早速おむすびにしてほおばりました。甘いごはんが口中に広がります。友に感謝して食べました。)

お友達から届く新米、素敵ですね。新米のシールが張られた袋詰めの新米とは、食べる前から一味違いそうです。今年も届いたと思うときには、秋も終わり。さまざまなことを思い出しながら、塩むすびを握られたのでしょう。私も断然塩むすび派です。

新米はぴかぴかあつあつ塩むすび
坂内 泰子

(*新米の炊き立ての塩むすびに勝る料理はありません。子どものとき、祖母がにぎってくれました。)

新米にほのかに香る日の名残り
坂内 泰子

(*自家用米をおすそ分けしてもらいました。炊きたてをいただくと、天日干しのせいか、お日さまの香りがいたします。)

光受け苅田のひこばえなお青し
坂内 泰子

(*今月初め、新潟へ行った際、田んぼが青々としていて、まるで田植えを終えたばかりのようでした。聞けば、刈った株が再生する「ひこばえ」とのこと。冬になる前に、田にすき込む農家と、春になってからそうする農家があるのだそうです。)

(文責 坂内)

(南足柄の苅田稲積:撮影・坂内泰子)

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多文化研HAIKU 9月のまとめ
兼題「夜長」、および自由題  (投句順)

寒いと思えばまた暑くなり、なかなか兼題の気持ちになれない毎日でした。地球温暖化は行きつく先もさりながら、そこに至る過程にも怖いものを感じます。
講評:坂内康子

亡き歌手の演歌に更ける夜長かな
貫隆夫
 
(*私が聴きたいと思う昭和演歌はたいていすでに亡くなった歌手の歌が多くなりました。)

歌はそのときどきの記憶と強く結びつきますね。昭和演歌を聞きながら、ときどき思いにふけっておられるご様子を想像しました。若い時は封建的だの古いのと批判していた演歌も、今になれば、あれはあれで心をえぐるような、土着の響きが体に沁みます。

詫びて捨て謝しては捨ての秋の暮
貫隆夫

(*断捨離で捨てる名刺や葉書、手紙、資料など、詫びたり感謝しながらの作業なのでなかなか捗りません。)

捨てるのは難しいですね。わずかな断片からも、相手の顔が浮かんだり、声が聞こえたりいたします。えいやっと廃棄のほうに回すにしても、詫びたり、謝したり、ずばりそのとおりの的を射たご高吟。

大汗の 日でも涼しき 夜長かな
増田隆一

(*気候変動の証でもあるかのように、お彼岸を過ぎても真夏日が続出しています。それでも、不思議なことに深夜になると上着がいるほど涼しくなるのは、やはり秋だから…でしょうか。)

日中は大汗をかくほど暑い日でも、夜になれば涼風が吹き、お風呂上りにはいつまでも夏と同じわけには参りません。秋は日暮れから忍びよるのでしょう。

住み替えの 迎えの花や 曼珠沙華
増田隆一

(*転居を念頭に思い切って家を買いました。すぐ近くに池があって外周が散歩道として整備されています。そこここに彼岸花が咲いていて、なんだか「ようこそ」と言ってくれているような気がしました。)

曼殊沙華は繊細な顔立ちの花でありながら、力強い赤です。曼殊沙華の歓迎はさぞや心強かったことでしょう。毎年、「祝お引越し〇周年」とばかりに咲いてくれるでしょうから、贅沢でうらやましくなります。

どんぐりを 手に幼な子の 説諭聞き
増田隆一

(*ようやく発語し始めた孫は、どんぐりや小石を拾っては、何やら盛んに弁論しながら説明してくれます。ところどころ演説口調なのは、何か強く伝えたい思いがあるのでしょう。目を見て、一生懸命に聞く必要があります)

社長訓示などより、よほどありがたみをお感じになったご様子。幼子はウソをいいませんし、繕いもしません。「どんぐり説諭」どんな内容だったんでしょうね、私も講筵にお邪魔したかったです。

捨てるには 惜しいとしまう 夜長なり
原田壽子

(*衣服を出してはしまい、出してはしまいを繰り返し、結局しまっている私。長い夜は更けていきます。)

捨てる句があれば、捨てない句も登場する「夜長」です。お気持ちよくわかります。もう着ない、と、まだ着られる、のせめぎ合い。おおいに共感できる、秋の夜長の箪笥の前の情景です。

これまでを 謝して生きよう 夜長なり
原田壽子

(*これまでいろいろなことがあった人生、感謝してさらに生きなければと思う、
秋の夜長は考える時間がいっぱいです。)

ここで詠まれた「謝して」の言葉の中には、きっと、あのときのこと、あのかたのこと、あそこでああしたこと、などと、一杯の思い出が込められているのでしょうね。ありがたいと思い出せることが、幸せを生み出す力なのだと聞いたことがあります。携帯の画面にアンテナが立つように、心の中に幸せアンテナが3本しっかり立った夜長、いい時間をお過ごしです。

おしゃべりの果てに優しい夜長あり
坂内泰子

(*夜が明けるまでおしゃべりができたのは、若いときの話。 今や、しゃべり疲れて、さあ寝ようというとき、夜長のおかげで、まだ何時間か夜が残っている、というのが嬉しいです。)

波の音夜長揺らして島の宿
坂内泰子

(*島の民宿、質素な宿の床に入れば、波の音で眠りに誘われます。)

電チャリが峠を越えて秋の海
坂内泰子

(*島では、電動アシスト自転車(電チャリ)が活躍します。初めて乗ってみたのですが、まあ、楽なこと、楽なこと、とても峠越えとは思えませんでした。)

雨音に旅愁はびこる夜長かな
陳 康

雨で閉じ込められる宿の夜、雨音を聞くにつけ、旅のわびしさがしみじみと感じられるということですね。旅愁は古来、旅の詩情の一つでした。旅の憂いを受け止めつつも、なお愛おしむような気持で好まれてきたかと思います。それに照らしあわすと、もう少し、雨の旅愁を優しくとらえた言葉にしてはいかがでしょう。「はびこる」でなく「染(し)む」「染み入る」などをすぐに思いつきますが、もっといい表現もありそうです。

アルバムの黄ばむや父の里夜長
陳 康

お父さんのお里で見つけた古いアルバム。昔の写真をずっと大事にされてきた、おじいさま、おばあさま、あるいはもっと前のかたの存在がうかがえます。アルバムを紐解きながら、両親祖父母の足跡をたどる夜、同じ年齢のご自分と比べたりしながら、夜が更けていきます。

母料理チャット向こうの夜長し
陳 康

どなたかがお母様に料理の作り方を聞いておられるのでしょうか。「夜長し」とありますから、簡単な手料理ではなく、媽祖廟のお祭りやお正月のような、伝統料理やしきたりのお尋ねでしょうか。伝統が「チャット」を介して新しい世代に伝えられるのが、いかにも今風で面白いです。ついでにあれもこれも、と話が尽きませんね。そういえば、中国の人に、お正月の紅包を携帯で送ると聞いたことがあります。

♰ 安らかに 天に召されて 往きました ♰
川村千鶴子

金婚式を目前にして、召されてしまわれただんなさま、先生の率直なつぶやきに、ひとしお心打たれます。ご冥福をお祈りするばかりです。

(中秋の名月:多文化研の会員が撮影)

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多文化研HAIKU  8月のまとめ 
兼題は「秋風」ですが、特に拘らないで心のままに。
(投句順)

いにしえもかくや聴くらむ秋の風
貫隆夫

(*秋の風は奈良平安の頃から歌に詠まれてきました。遠い時代の人々も秋の風に耳を澄ませる時の気持ちは現代のわれわれと変わらなかったのではないでしょうか。)

秋の風は本当に格別だと思います。百人一首の歌にも「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」(藤原敏行)、「夕されば門田の稲葉音づれて芦のまろやに秋風ぞ吹く」(藤原経信)があることを、思い出されるかたがおられるでしょう。夏の風鈴ではなく、秋風の音に耳を澄ませば、そこに時空を超えた世界が広がりますね。

追分や道それぞれに秋の風
貫隆夫

(*軽井沢近くの追分宿から中山道と北國街道が分岐します。どちらの街道にも秋の風が吹いているだろうと外出自粛の中で想像しました。)

中山道と北國街道の追分の秋風ならば、ことのほか別れたその先への想像が広がります。街道沿いの村のたたずまい、旅人の人生、色づいて落ち始める木々・・・それぞれの里、それぞれの暮らし、通り過ぎる人と留まる人、・・・外出自粛でこれだけの風景を感じさせてくれる句の奥行に感服です。

墓碑の名は楷書に決めて秋の風
貫隆夫

(*お墓をどうするか迷いましたが、霊園近くの石屋さんと打ち合わせを済ませて帰り道の秋風を詠みました。)
寿墓をご用意されたのでしょうか。ご自分のお墓のことをお決めになるのは、どことなく落ち着かないことと思います。ひどく真剣になっては、ご家族ともども暗くなりかねませんし、きっと、まるで日常的な買い物であるかの風に、明るくお決めになったのではと拝察いたします。とはいえ、やはり生死を間近に感じる瞬間の一つです。石材店の外に出たときには、秋風を覚えられるに違いありません。寿墓に刻まれる楷書の朱が色あせるほどのご長寿をお祈りいたします。

白杖の先に初秋の気配あり
芹沢健介

(*昨日からパラリンピックということで、なんとなく詠んでみました。)

降参!白は確かに秋の色ですが、白杖と秋の組み合わせにはっといたしました。目の不自由なかたは、杖で地面を確かめながら、季節の音を聞かれるのでしょうね。秋はどんな音を立てるのでしょうか。白杖の先の秋、どんななのか、知りたくて、あこがれてしまいます。

満月や鉛筆削り便り書く
ちぇ よんそん

満月にちなむ特別の便り、受け取れたら嬉しいです。しかも大人にとっては非日常感のある鉛筆書きの文字。古来、洋の東西を問わず、満月は人を特別な気分にさせます。狼男もかぐや姫も満月、満月を背景に自転車が空を駆けるETのシーンも思い出されます。そんな満月の晩に、鉛筆の素朴な文字で書かれる便りは誰に宛ててでしょうね。

秋風に ならぬ野分けの 天気図や
増田隆一

(*今年は台風が少ないなあ、と思っていたら、お盆を過ぎてから立て続けに台風が天気予報に出始めました。五輪・パラリンピックと猛暑の中での話題に暑さを忘れることができ、お盆の過ごし方も例年と違います。ようやく秋の気配を感じ取れる季節になったのに、と台風の進路にぶつかる豪雨被害の地域を思いました。)

ご投句をいただくころ、東京の気温は季節外れに低くなり、空は雨模様。残暑がない分、爽やかな秋風が待ち遠しいという気分にもなりませんでした。そして天気図には台風。気候変動の災害が多いだけに、台風と聞くと、野分の風情どころか、土砂崩れや洪水など大きな被害が心配になります。

子らの声 ぞめくや朝の 秋の風
増田隆一

(*新学期が始まり、朝の時間に小学生の笑い声が響くようになりました。マスク姿が可哀想ですが、1分が大人の1時間にも匹敵した小学生のころを思い出すと、彼らにとってのコロナの2年間がどれほどつまらないものだったか、と想像に余りあります。楽しそうな笑い声が、せめてもの救いです。)
 
子どもたちは、通勤の大人のように無言・足早ではありません。朝から元気におしゃべりやら、ちょっかいやらで、騒々しいものです。通りは学校に近くなるほど、沢山の子どもがあふれます。その声が一層賑やかに聞こえる今朝は、爽やかな秋風が吹いているからでしょうか。子どもの騒がしさが「ぞめく」と表現されたところに、うるささを厭うのではなく、愛おしみ、また懐かしむ気持ちを感じました。

高値でも 焼き魚よし スダチ買う
増田隆一

(*昨今はサンマもスルメイカも、国際的な漁獲競争に巻き込まれたようで、飛んでもない値段がついています。魚屋さんに聞いたところ、「一番の高級魚は大羽のイワシ」と聞いて絶句しました。主治医の指導で和食の回数を増やすよう命じられているため、刺身よりも安い干物のサンマにしました。せめてもの贅沢でスダチを添えます。)

「焼き魚よし」という勢いが魅力的な句です。いまやお魚は高級品、かつ、健康志向の人の食べ物となりました。いい加減な薬味ではお魚さまに申し訳ありません。どうぞスダチ同伴でお帰りください。

秋風に さるすべり揺れ 紅いまま
原田壽子

(*夏の花の百日紅がまだまだ咲いています。窓からいつも見て楽しんでいます。)
 
夏の日ざしにも萎びることなく、きれいな花を咲かせる百日紅、長い間お目を楽しませてくれるのは、幸いですね。でも、それが秋風に揺れるのは、あら、季節大丈夫?です。実は近所にも、そんな百日紅があり、微妙なちぐはぐさを感じました。「紅いまま」が、いじらしいような、切ないような、いろんな余韻を残します。

彼岸花 天上に向かい 母探す
原田壽子

(*広い公園墓地には彼岸花があちこちで一斉に天に向かって咲き競っています。お彼岸でお参りする人たちの家族を探しているようです。)

なるほど、ヒガンバナがまっすぐ上を向いて、パラポラアンテナのように花弁を広げている様は、この世とあの世の交信のためだったんですね!複雑な装置がついた高機能タイプに思われます。これまであのお花は、鮮やかすぎて、今一つだったのですが、この句のおかげで見方を変えることができました。ありがとうございます。

烈日や畑に向かう鋤寂し
陳康

(*猛暑日で皆が空調の室内に閉じこもっている中に、烈日に向かってそれぞれの仕事に取り組む方々へ敬意を表したいです。)

夏の農家の仕事は大変です。強い日差しの中、一人鋤を肩に担いで畑に向かうこともあるでしょう。「寂し」と詠まれた後ろ姿は、きっと年配のかたのものだったのでしょうね。烈日に挑むような勇ましさではありませんでした。どうしてこんな日に、畑に出ないといけないのか、と後ろ姿に驚きながらも、その黙々とした歩みに、懈怠を許さず、一途に仕事に励む人間の姿を見出した句のように感じられます。

長袖の箪笥に遠き秋の風
陳康

(*秋になっても猛暑日が続き、長袖や長ズボンを着る機会がまだまだないことを詠んでみました。遠回りすぎて、意味が分かりづらいでしょうか。)

目のつけどころ、おもしろいです!ただ、箪笥の中身まで説明的になるから、おっしゃるような遠回り感が出てしまうのだと思います。箪笥が秋風から遠いのではなく、箪笥の中で秋風を待ちかねているような仕立てにしてはいかがでしょうか。東京はようやく秋めいてきて、箪笥から長袖や上着が姿を現しました。

荒道に吹く秋風や一人旅
陳康

(*想像に任せてつくってみた句です。)

秋の風が吹く中、一人孤独に険しい道を歩いていく姿、映画のラストシーンを彷彿とさせます。かっこいいことは確かなのですが、俳句的には「お兄さん、そう肩ひじ張らないでさ」と、寅さんの声が聞こえてきそうです。カッコいい風景をカッコよく歩くのは高倉健に任せ、思うようにはならないもんだねえ、と旅を続ける人のほうが伝統的な俳句らしさのように感じますが、あえてカッコよさを描くことに、革新への道があるのかもしれません。楽しみにしています。

木犀の香が染む風に祖父しのぶ
坂内泰子

(*半世紀以上前に、祖父母に連れられ、お墓参りに行ったとき、境内の片隅に金木犀が咲いていました。いい匂い!と驚く私に、「あれは金木犀」と名前を教えてくれた祖父。祖父に花の名を教わったことが、幼な心にとても意外で、以来、金木犀は祖父を思い出す香りです。)

(撮影:増田隆一 横浜市港南区・永谷川緑道)

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多文化研HAIKU 7月のまとめ
(投句順)

遠き日や父が手を引く夏まつり     
貫隆夫

(*私が幼い頃、花火大会や夏祭りに連れて行ってくれるのはいつも父親でした。母は家で家事をしていたように思います。封建的な家風だったかもしれません。)

お祭りは地域社会こぞっての神事ですから、きっとお父様が息子を連れるのが、氏子として当然の臨みかただったのではないでしょうか。今の祭礼はあちこちで神事が後景と化しているか、まるごと観光の対象ですから、お祭りの父子連れが珍しいもののように感じられもします。でも「遠き日」にはそれが正統だったんですね。しみじみさせていただきました。

是非もなし一人稽古の祭笛       
貫隆夫

(*祭の囃子(はやし)には音合わせや拍子合わせなど一人ではできないことも多いのですが、今年はコロナ禍でそれができない囃子方も多いはずです。)

ひとりで篠笛をぴーひゃらぴーひゃら吹いても、ただ風が通り過ぎていくだけかもしれません。そもそもソロで聴かせるような曲ではないでしょうし・・・。「みんな」で賑やかに稽古する祭囃子は、近所の人に祭が近いことを伝え、名手などいなくとも、住民のDNAに刻まれた記憶を目覚めさせます。祭囃子でコロナ明けを祝える日が早く到来しますように。

義母(はは)逝きて うから集いし 熱帯夜
増田隆一

(*大阪で寡婦の一人暮らしを30年以上続けてきた義母が、自宅で倒れているところを、翌日に発見されました。青森で大学教授をしている長男の義兄が名誉教授になったため、当分は帰阪できないことを残念そうにしていた顔を思い出します。うから(身内)の夜伽はコロナ禍の久しぶりの再会となりました。)

まずはお母様のご冥福をお祈りいたします。親世代の死を迎える年ごろの人間には、誰かの不幸が旧知の人との再会の機会になりがちです。お一人住まいのお母様が逝かれたことについて、覚悟をお持ちだったとしても、奥様をはじめ、ご遺族の思いは複雑でいらっしゃったに違いありません。さまざまな感情が静かにうずまく「熱帯夜」だったことでしょう。
ただ、亡き後に子どもたち、兄弟たち、さまざまな縁のあるかたが集まることは、そのまま故人が残してくださった愛の証ではないでしょうか。お母様はきっと天国で喜んでくださっていることと思います。

疫病と 雨で吹き飛ぶ 夏祭り
増田隆一

(*祇園祭の山鉾巡行が2年連続で行われないのは、歴史上でも例がないそうです。豪雨や台風などでお祭りが日延になっても、10日以上予定が飛ぶことはごくまれです。異常な日々がいつまで続くのかと、ため息がでます。)

祇園祭は確か疫病退散で始まったものでしたよね。その祇園祭ができなくては、やはりまだコロナ終息というわけにはいかないのでしょうが、困ったことです。雨も毎年どこかで川を溢れさせたり、土石流で家を押し流したり、あげく人の命を奪うようなことになっていて、まさに未曾有の大ピンチ。こんなときこそ、人知を結集して打開策を求めなくてはなりませんが、・・・。

ひぐらしも 啜り泣くかや 時早し
増田隆一

(*アブラゼミやミンミンゼミの暑苦しい鳴き声にくらべ、ヒグラシはなんだか物悲しげに聞こえます。「え?もう夏が終わり?」とすすり泣いているように感じました。)

私も早々ヒグラシを聞きました。こんなご時世、ヒグラシだって遠くの仲間を思えば啜り泣くかもしれません。

夏祭り 背負われ急ぐ 綿菓子よ 
原田壽子

お祭りといえば綿菓子です。淡いピンクや水色で、雲のようにふわふわとした綿菓子は、まるで夢が形になったようでした。その夢は、ただ甘くて、指にべとべとして、食べきれないまま、翌朝、貧弱な形で果てるのが常です。それでも綿菓子の夢に浸る子どもを背に、お母さんは屋台へ急いだのですね。

太鼓なり 花笠かぶり せみしぐれ
原田壽子

(*幼い娘はお祭り大好き、たいこがなるとうれしくて祭り支度をして急ぎました。)

気がはやる、とはこういう気分をいうのでしょう。男の子も女の子も始まる前から集って、祭り衣装でスタンバイ。子どもの頃のお祭りの華やぎを思い出しました。ディズニーランドのキャラクターが全員集合しても、あの興奮は作れません。オリンピック開会式なんて目じゃありません。

祭りの夜誇らしげに負う初の孫
坂内泰子

孫おんぶ祭囃子に揺れる背や
坂内泰子

(*コロナの前年ですから2019年、故郷の祭りで小学校の同級生に会いました。背中に赤ちゃんがいる同級生は、堂々と無敵モード。背中にコブのない私はただの観光客で、ちょっと肩身が狭かったです。)

祭なき夏に香具師(やし)逝くひとり逝く
坂内泰子

夏の初めに小学校の同級生がコロナで亡くなりました。やんちゃを重ねて香具師(やし)になり、シャツの袖口から彫物が見えても、憎めない人でした。子どもを連れて金魚すくいに連れていったら、偶然、彼の露店で「やっこちゃんの子かぁ」といって、数匹オマケしてくれたことを思い出します。

梅雨明けや高飛ぶ翼抑えつつ
陳康

(*コロナ情勢をこのまま詠んでみたものです。)
はい、本当に。翼がうずうずしています。旅行好きなら、どなたもきっと同じ思いですね。

教科書に落ちるまつりの音ほのか
陳 康

(*祭り好きの子供なら、祭りの音が遠くからかすかに聞こえただけで、恐らくもう勉強に集中できないんじゃないかと、はやる気持ちを詠んでみましたが、分かりづらいでしょうか。)

音が落ちてくるという捉え方、面白いです。教科書に突然、音が調子よく転がり落ちてくる感じでしょうか。でも「ほのか」だと、ほのかにしか聞こえない集中力たっぷりの優等生さんのようです。祭り好きには「ほのか」では物足りないですよね。「ほのか」を「浮かれ」に代えたらどうでしょう。楽し気な音に誘われ、祭り好きの子どもが段々そわそわと落ち着かなくなってくる情景につながるように思います。

時運ぶまつりや父の肩車
陳 康

(*毎年のまつりを通じて、祖父から父へ、父から子供へと、歴史と文化が伝承されます。この過程において、「父の肩車」というのも独特の風景のはずで、親子間の愛情もこれらを通じて、代々と伝承されるでしょう。
もしかして、まつりそのものより、人によってはより記憶に深く残るのは、親子間の親密な1コマの時間だったかもしれません。)

今月最初に句をお寄せくださった貫さんの句と相通じるものがあります。肩車で運ばれるのは、子どもだけでなく、祭りという時間、それに寄せた父、祖父、曾祖父ら、遠い昔の先祖たちの心もともに運ばれるのでしょう。祭りという時間の持つ深さを覚えます。

素麺の白肌に落ちる祭り音
ちぇよんそん

(*まだこつが掴めません。以前、素麺を食べていた時に、暗い夜に、白い素麺がはえていて、丁度近所で開かれる祭りの音がロマンチックに感じられたのです。)

ちぇよんそんさん、初投句、ありがとうございます。ロマンチックな感じ、艶っぽさも間違いなく祭りの一面ですね。先ほどの陳さんの句では、「落ちる」が面白いなあ、と思いましたが、ここは「流れる」が素麺との相性がよいと思います。古典的に「流る」にして音を減らし、下五のほうは、音を増やして祭の音(まつりのね)でいかがでしょう。そしてこの句の魅力が集約された「白肌」、お肌は隠すほうが想像の余地があってよろしいかも。「素麺の白きに流る祭の音」ではどうでしょう。

流浪から パラリンピックの 輝きに
川村千鶴子

(*シリア難民が、3人、アフガニスタン難民が1人などなど。難民選手団が、パラリンピックに出ることは更にすごいと思います。)

「祭り」でどなたかオリ・パラを詠まれないかな、と思っていたところに、川村先生がパラリンピックで詠んでくださいました。時好性も俳句の世界では好まれますから、何となくほっといたしました。晴れの舞台に立てる人の向こう側にいる人たちを力づけられるような、見事なパフォーマンスをお祈りしたいと思います。

           ***

改めて、みなさまご投句ありがとうございました。「祭り」の持つ力や意味を深く考える機会となりました。古くからの「祭り」を守ってきた地域社会は、今やコロナで大ピンチです。担い手として重要な子どもにとっての1年は大人の比ではありません。つくづく新型コロナ感染症というのは人のつながりを断つ病だと思います。 
(坂内)

(撮影:増田隆一)

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多文化研HAIKU  6月のまとめ
(投句順)

人生の昼寝できぬか中年怠さ
陳康

お気持ち、よくわかります。
日本の会社には、20年ほど勤めると「リフレッシュ休暇」なんてものがあります。たとえ、1週間かそこらであっても、「昼寝」になれば、いいのですが、実際はどうなんでしょうね。「中年怠さ」を、何とか5文字に収められると、それだけで疲労回復できるかもしれません。

出掛けての雷や我が干し布団
陳康

干したお布団、悲劇の茹で布団と化してしまったのではないでしょうか。どうぞこれからは取りこんでからお出かけください。

鳴神や山河のシャワー呼ぶ父(かぞ)
陳康

まずは陳康さんのボキャブラリーに脱帽です。この句で、風神雷神図の雷神のような鳴神のおとっつぁんが、山河と化して横たわり、「おい、風呂!」と呼び掛けているような場面を想像してしまいました。うふっ。

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電車待つ 良さそう浴衣 暑い日に
チョウチョウソー

おじさん、と呼ばれる年齢のかたが、軽く浴衣をまとって、電車を待っているシーンを思いました。着こなしが粋だったんでしょうね、「浴衣、よさそうだな」、とチョウチョウソーさんに感じさせてしまう自然さ。そんな人の姿を見つけられてラッキーでした。最近、浴衣というと、女の子たちが、花火大会の日に、着慣れない浴衣を着て、暑そうにしている様子を思い出してしまいますが、「よさそう」と思わせる浴衣の人とすれ違いたいものです。
「よさそう ゆかた」の音も揺れるようで、やさしい心地よい響きです。

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幼な児の 「なあに?」の顔や 稲光
増田隆一

(*孫とのひとときに夕立ちがきて、雷鳴と雷光が窓の外から部屋に入りました。生まれて初めての経験とは、こういうものなのだ…と孫の顔を見て感じました。)

そうなんですね。やわらかい心で、感じたものを、そっくりそのまま保存できたらどんなに素敵でしょうか。文化の継承とは、そうしたものに名前や知識を与えて、おさな子の「なあに?」を記憶の底に沈めてしまうことなのかも、と思ったりもします。

猛暑日に 冷やしアメにて 里帰り
増田隆一

(*昭和30年代には”冷やしアメ”が駄菓子屋のメニューでした。昨今は、甘味処でもメニューにありません。麦芽糖は日本書紀にも記述がある日本古来の(もちろん本家本元は中国でしょう)パティスリーだったはずです。ショウガが効いた”冷やしアメ”の味は、両親の庇護の元で暮らしていた青年時代を想い出します。)

懐かしの食べ物からの里帰り、素敵です。夏ですものね。口福を味わいながら、広がっていくお里の思い出。この句を読んだかたは、どなたもご自分も口福経由でお里へ向かわれるのではないでしょうか。

青空に 祇園囃子の 街思う
増田隆一

(*7月1日は、京都人にとっては「祇園祭の吉符入り」の日です。サウナどころではない猛烈な湿度と猛暑が祇園祭の時期の京都ですが、青空と入道雲も同じく祇園祭の背景でもあります。もくもくと湧き上がる積乱雲と青い空を見ると、長刀鉾と四条通りを思い出すのは、「やっぱり京都人なんだなあ」と自分を再認識します。)

ほら、冷やしアメから、広がりました!京都のかたでしたものね。「コンチキチン」の音色とともに、暑さに加わるあの熱気、増田さんのDNAの奥までしみ込んでいそうです。それを思うと、もうちょっと思う気持ちに熱がこもってもいいのかしら、なんて生意気を言いたくなるのは、祇園祭に比肩できるような、夏の記憶を持たないものの僻みかもしれません。

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迅雷か 振り返らずに 子ら下校
原田壽子

(*激しい雷鳴に追われるように帰宅を急ぐ子どもたち。雨も降ってきました。「迅雷か」の「か」は「や」がいいのかわからずいます。教えてください。)

いきいきとした情景が切り取られました。今の世の生意気な(?)子どもたちをも、怖がらせてしまう雷は、やはり神の域ですね。急に湿度が高まって、薄暗くなった空の下を子どもたちがいっさんに駆けていく、といったところでしょうか。

わたしに「か」か「や」か、なんて秘伝に類するようなお尋ねは困ります・・・理屈っぽいことを申しますと、雷が鳴ったのが聞こえたか、聞こえないかに拠るのではないでしょうか。「迅雷」は普通激しいもののようですから、聞こえないとすれば、窓のきっちりしまった建物の中から、外の子どもの様子を眺めるような状況で、「か」でしょうし、外にいたり、通常の日本の家だったりするなら、迅雷が聞こえないはずもありませんので、「や」。「や」で捉える世界が自然な流れなのでしょうが、子どもたちの有様を目で見てから、それに続く音を察するというのも、現代的で面白いな、と思います。ですから「か」も捨てがたいです。以上、何の答えにもなっておりません。

山崩れ 夢も砕けて 白い空
原田壽子

(*思いがけない強烈な災害が身に起こり、戸惑う被災者の気持ちはいかばかりか。)

白い空は被災された人、現場の近くに折られた人の心象風景でしょうか。あれほどの山崩れが、昔から開けた町で起きるとは思いませんでした。自然の前に人は無力とはいえ、ゴミまで混ぜて土を積み上げて、無理な地形をつくったのが原因のようです。やりきれません。やはり見上げる空は、白いことと思います。
「山崩れ」は昨今、夏の季語として定着しているようですね。

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道端に 気品を放つ アガパンサス
川村千鶴子

(*紫君子蘭とも言われているそうですね。初夏を写真に撮りました。)

グローバル化は季語の世界にも押し寄せ、まず現実が先行していきますが、このアフリカ生まれのアガパンサスもその一つのようです。夏の花として定着するのももはや時間の問題でしょう。茎をのばして花がすくっと立つ姿が、確かに背筋を伸ばした貴婦人のようです。色合いも何ともいえない品のよさですね。

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雷鳴に子等の集まる蚊帳の中      
貫隆夫

(*子供のころ、雷が鳴ると「蚊帳の中に入れば安心よ」と母親に言われて兄弟で蚊帳の中に固まって雷鳴が終わるのを待ったものでした。今は蚊帳もなくなり、雷が大気の帯電現象であることが子供たちに周知されていて、そんなこともなくなりました。そういえば、相談事から外されることを「蚊帳の外に置かれる」と言いますが、蚊帳が消えた昨今、この表現も居心地が悪そうですね。)

雷で蚊帳に入るなんて、映画のワンシーンのようです。子どもたちはもちろん寝間着、薄暗い寝間に稲妻が光ると、蚊帳の緑色が一瞬鮮やかに目に映る、そしてそのあと、ごろごろごろ、いいえ、子どもたちが身を寄せるくらいですから、どんがらどーん!と響くのでしょう。怖い、怖い。私は頭から布団をかぶります。

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雷鳴に犬縮まりて震えおり
坂内泰子

(*以前、犬を飼っていました。駄犬のくせに怖がりで、雷が近づくと、ただただ人の足元で縮まって震えていました。)

稲妻に数を数えて鳴るを待つ
坂内泰子

(*「光ってから、1,2,3と数えて、音が聞こえなければ大丈夫」と母に教えられました(真偽不明)。いい年をして、今でも数えます。雷は嫌いです。怖いです。)

(アガパンサス:撮影・川村千鶴子)

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多文化研HAIKU  5月のまとめ
(投句順)

蟻穴の土より黒く三つ四つ
貫隆夫

雨が降らない日は近くの公園に集まって健康体操をするのですが、身を屈めると蟻の巣穴から蟻たちが盛んに出入りしています。内部の奥行きの闇が巣穴を周りの地面より黒く見せています。

巣穴の周りに小さな土くれが掘り出されている場面を捉えた一句と存じます。ご発見の順序からいうと、土くれ→巣穴→あり、でしょうか。蟻の巣の中は闇だ、ということに今更ながら気付きました。これまで、キリギリスとは違って「はたらきもの」と蟻をのどかに捉えていましたが、闇より出でるという深遠な一面・・・ちょっと怖くもなりました。  (yb)

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病棟の壁登る蟻下る蟻  
芹沢健介

作者の注なしで、句だけが示す蟻の姿も、やはり考えさせられます。蟻は壁の上り下りですが、病院の玄関を出入りする人のありさまが、そこから連想されます。入っても必ず戻ってこられるとが、わかっていれば、蟻の上り下りと大差なく思われます。しかし、行き来する人の胸中は、不安や悩み、苦しみであったり、逆に、安心、希望、喜びなどであったりもします。それぞれの思いとともに、出る人も、入る人も、黙々とすれ違うのです。 病棟の壁の蟻に目をとめた作者の胸中には安堵がありますように、と祈ります。 (yb)

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蚯蚓(きゅういん)に 蟻むらがりし 夏日かな  
増田隆一

駅からの帰り道、歩道のミミズに蟻が群がっていました。地面の下の温度が高くなり、ミミズが苦しがって出てきたのでしょう。横浜郊外で最高気温が30度を超えたとニュースが伝えていました。

この光景、よく目にします。土から出てきたは、いいけれど、ちょいと移動すると、街はコンクリートです。土に帰る前に、じりじりと日に照らされて、力を失い、蟻の攻撃を受けるがままの蚯蚓の姿。嫌な光景ですけれど、こうして命が引き継がれていく、と見るべきなのでしょうね。土の露出部分がもっとあれば、幸いなのですが。  (yb)

ワクチンの 列で汗拭く 夏至まぢか 
増田隆一

大手町の自衛隊大規模接種センターで、1回目のワクチン接種を受けました。入り口の列に並んでいると、さすがに汗が噴き出します。次回は午前中早い時間に予約しました。

今月はワクチンの句が盛況です。3.11の後に絶賛された「並ぶ日本人」の風景がまた一つ増えました。次回の接種が、どうぞ梅雨の大雨の日に当たりませんように。 (yb)

通販で 梅酢を待つや 生姜干し 
増田隆一

以前は自分で梅干しを漬けていたので、梅酢などいくらでも出来たのですが、高血圧で「梅干し・漬物・味噌などの制限」を医師から厳命されてしまいました。紅生姜を作る季節なので、通販で梅酢を発注してしまいました。

伝統の自然食と手作り志向を、予防医学とEコマースの現代にどう引き継いでいくか、悩ましいところです。俳諧の本質はこうした生真面目さと向き合って、苦笑とともに肩の力を抜くところにあるのかもしれません。先のワクチンの句にも、同様の笑いを覚えました。 (yb)

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夏に向け蟻さん噛みます市民ホール   
川村千鶴子

ミャンマー人の医療通訳さんが言いました。注射をする時、「チクッとしますよ」は、分かりずらいので、「蟻さんが噛みますよ」と訳すそうです。ミャンマーの蟻は、大きくて、チクッと痛いそうです。
市民ホールで、1回目のワクチン接種を終えました。

これもワクチンです。10年後には、注なしでは解釈が難しくなりそうですが、是非そうあって欲しいものです。「チクッとしますよ」は、ミャンマー語にすると蟻の一噛みにたとえられるのですね、なるほどです。集団予防接種は、子どもの頃以来の何十年ぶりかだったのでしょう、おさな心が顔を出した一句です。(投句にはここに蟻の絵文字も入っていましたが、そこまで入れると前衛的になりすぎるかと思い、掲載は文字だけにさせていただきました。)  (yb)

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モニターを羽蟻横切る夜更けかな
坂内泰子

「蟻」の題も難しくて困ったな、というときに、救いの羽蟻の降臨です。網戸の隙間から侵入したのでしょう。勝手に這わせておきました。

象倒す蟻を拳(こぶし)に彫りて立つ
坂内泰子

日本語教室に来たカンボジアの男性の手に、黒々と大きく蟻の入れ墨があるのを見つけました。由来を尋ねたら、「蟻は小さいけれど象を倒すから」とのことでした。彼は「日本、入れ墨、だめでしょ」と隠すように照れていましたが、内乱の時代を生き、難民として日本に上陸した人の気概を感じました。

ねじ花や一面に咲くも荒れた庭
坂内泰子

庭一面にねじ花が咲き、大変愛らしいのですが、庭自体は荒れています。手入れをしないから、野草が生えます。きれいな庭なら自慢できるのですが。

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蟻ならび 傘も進んで 接種待つ  
原田壽子

多くの人がまさに「蟻ならび」で、並ぶ文化を体現しつつ、蟻のように黙々と前に進んで、順番を待ちます。増田さんの句にもありましたが、この真面目さが切ないですね。愚痴でも嘆きでもなく、「何だかねえ」と、矛盾を感じつつも、静かに現実を眺めるクールさも、また俳句の味わいです。今月はワクチンの句が盛況でした。皆さんの関心事だったということですね。  (yb)

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梅雨時や水溜り踏む子の歓呼  
陳康

福建省では、梅雨入りして一か月間ぐらい経ちました。しめじめの季節にもかかわらず、子供達は楽しく水遊びしています。

この句に妙にほっとしました。福建のお子さんがたも、傘を振り回したり、先を深みに突っ込んだりして、あげくに傘を壊して叱られるのでしょうか。長靴を履いていても、水たまりにわざと足を踏み入れて、靴の中を水浸しにする楽しげな声が聞こえて来そうです。子どもっていいですね。 (yb)

体重計をさまよう蟻の重さかな
陳康

蟻が登ってきても、体重計は全く反応しませんし、もし弾かれたり潰されたりすると、命が一瞬にして無くなります。しかし、同じ時空に出会った生命として、その重さはどうして測る事ができるのでしょうか。

こちらの句は禅問答のような気分で拝読しました。「蟻の重さはありやなしや?」と。確かに体重計の上をさまよっていて、命はあるのに、針は動きません(デジタルなら00.0のまま)。小さな蟻の実存はどこで確認できるのでしょう。う~ん、むずかしい!
なお「重さかな」とすると、重さがあるような誤解をするので、ここは重さがないような表現にしたほうが、読み手へのインパクトが強そうです。(yb)

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多文化HAIKU 5月 (投句順)   兼題 夏めく + 自由

夏めくや北海道の地図開く     貫隆夫

*北海道には学会などで何度か行っておりますが、開催地が札幌や小樽なので、それ以外の例えば釧路や根室、稚内などに行っておりません。コロナ騒ぎでどうなるかわかりませんが、せめて夏旅のプランなど地図を見ながらあれこれ考えてみようと思います。

(コメント) 北海道の広い空、緑の大地、旅心がうずきます。旅は地図から!
 
青梅雨の訪れ早き今年かな     貫隆夫

(コメント) 青梅雨、きれいなことばですね。若葉のしげる木々、その青さに雨がふりかかり、さらに青々と、みずみずしく、洗い立てます。「もう梅雨なの・・・」と落ち込む気持ちが転換できました。

薄ぎぬの 肌着に変えし 立夏かな     増田隆一

(コメント) 肌着を変える習慣、なじみのない外国のかたも散見されますが、先祖代々の日本人は夏の肌着に変える時期です。

枝豆と ビールが合わぬ MLB     増田隆一

(コメント) 「ショウヘイ オゥタニ! ホウムラン~~」の声の前には、ホットドッグとビールでしょうか。いえ、そこは一つ、枝豆に踏ん張ってもらいましょう。

夏めいて たそがれ長く 落ちぬ日や     増田隆一

(コメント) 御意! 窓の外を見て、まだ明るいとわかると、かつては何をしようかと気持ちが上向いたものですが、このところ、どうもそうではなくなりました。いけない、いけない。

夏めくや 襟元目立つ 記者会見     原田壽子

*いつの間にか夏になり夏用の洋装になっていました。

(コメント) ステイホーム、外出自粛の声にけおされて、外へ出づらくなった今日この頃です。この句に読まれた襟元の爽やかさはもちろんですが、どことなく切なさも覚えて心に沁みます。

夏めくや裏も隣もBBQ    坂内泰子

*昔はうちでもBBQでした。今、シニア二人じゃすぐに焼き終わり、準備の手間に値しません。

まわり道葉ずれ木漏れ日夏めきて     坂内泰子

*遠回りでも雑木林の中を抜けられる幸せ!

ごきぶりの潜む気配か夏めきぬ     坂内泰子

*ゴキブリの気配を察知できる能力は何の役に立つのでしょう?

窓開けて餃子にビール夏めいて     芹沢健介
 
(コメント) 「これがうまい季節になったなあ」というところですね。最近はべらぼうに風が強かったりもしますし、窓が開けてビールを楽しむことができるのは、年に何日もないぜいたくなのかもしれません。

夏めいて緑と白のヤマボウシ     川村千鶴子

*ヤマボウシの並木道を歩きました。白いヤマボウシの花が緑の中で光り輝いています。

(コメント) ヤマボウシの花はハナミズキに似ていますが、花弁(実は総苞片)の形が少し違って先端が尖り、全体に小ぶりです。ハナミズキが終わってから咲きますから、それだけに夏めく印象を与えます。ヤマボウシ、可愛いですよね。

桑の風祖母の味して過ぎにけり     陳 康

*幼い頃に、田舎の祖母の家によく遊びに行きました。桑の大木に登ったり、実を摘まんで食べていたことが、深く記憶に残っております。桑を言えば、私には、とっくに他界した祖母と、すぐに結びます。この句は、平凡ながら祖母を記念するものです。

(コメント) 吹く風が運ぶ桑の香りにおばあさまの思い出の味がよみがえったという一瞬を捉えた句です。その一瞬の贈り物を残して、何事もないように風は吹き抜けていったのでしょう。香りの記憶は、心の中にしまわれている貴重な思い出を開く鍵になりますね。

枝惜しむ夏めくごろの花萎み     陳 康

*これから盛んに綻んでいくべき蕾花が、季節の前に萎んでしまった事へ、哀れみを詠んでみました。

(コメント) せっかくついた花の蕾が蕾のままで終わりそうだと気づいたときが、枝葉の勢いがさらに増すころであれば、哀れさはひとしおです。花の咲かない枝を残念に思う作者とともに、枝もまた蕾との別れを悲しんでいるのかもしれません。

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HAIKU会3周年記念清瀬句会

日時:2021年3月7日 

清瀬にて人参料理に風光る       川村千鶴子

清瀬市はかつて清瀬村と言われた東京郊外に立地するだけあって、今でも畑が多いところです。様々な種類の野菜が作られますが、なかでも人参は名産品となっています。句会でも妻が人参ベースの料理を作ってくれました。風光る三月初旬の季節に皆さんと人参料理を楽しめて幸せでした。

飼ひ猫の首輪の褪せて風光る      芹澤健介

首輪が「褪せて」いるということで、その猫を長く飼っていることがわかります。明るい春の陽光のなかで首輪の褪せていることがよく見えるわけですが、飼い猫の方は暖かくなってきた日差しと飼い主の愛情に包まれて十分に幸せな気分でいることでしょう。

人参をトランクに詰めバスに乗り    芹澤健介

句会が終わったあと、近所の農家から分けて頂いた人参を差し上げました。作者は帰路の情景を予め句に詠まれました。拙宅は駅から少し遠くバスを使います。少し多めの人参の量と都心からやや遠い拙宅の立地がさりげなく詠みこまれて、句会当日の様子が的確にわかる句です。

風光る果ては海あり生命あり      坂内泰子

日本はどこに進んでも結局は海に出る島国です。その海にはプランクトンや魚など様々な生命が活動しています。時間の果ては未来、個人的には死がありますが、空間の果てには海や宇宙、なんとなく楽しいですね。

軽やかに囀る声や光る風        坂内泰子

「囀り」、「囀る」は春の季語として春の訪れを聴覚的に示す言葉となっています。風景もまた陽光のなかで輝きを増してきますので、「風光る」も春を表す言葉ですが、ここでは聴覚と視覚の両方で春の季節感が示されています。

曇天の坂道の先風光る         貫真英

調布の自宅から一時間をかけて自転車でやって来た作者は途中に坂道を通ったのでしょう。曇天とは言え風光る春の季節、坂道を上ることもさほど苦にならなかったことでしょう。

風光る山も子供も自転車も       貫真英

春の陽光の中で山も子供も、子供が乗る自転車も輝いている。陽の光は風や山という自然、そして子供という人間、自転車という人工物、全てに輝きを与えてくれます。

風光る巷を若い僕が行く        貫隆夫

コロナ禍で外出が少なくなった街に出かけるという夢想、そこを歩いている自分が青春時代の自分であるという、二重の夢想です。 

                             (文責:貫隆夫)

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【2021年4月15日〆投句のまとめ】

定年の人去り明けて入社式     貫隆夫

(説明) 定年が制度化されている国は多くないようですが(年齢差別になるので)、日本では3月末を以て定年という会社(大学もそうですが)が多いようです。もっとも、町工場を経営する友人は「入社式は定期採用をする大企業のイベント。我々には関係ない」と言っています。雇用制度も変化の過程にあり、いずれ大企業でも入社式は無くなるのかも知れません。

(コメント)  機械的な産業社会のようにも思える反面、ともに人生の節目を祝ってくれるようにも思えて不思議です。ちなみに今年定年だった私の退職式は、コロナのため分散開催で簡素なものでした。

 若葉してサラリーマンの手に上衣     貫隆夫

(サラリーマンは和製英語ですが、若葉の輝く季節、4月からの新入社員を含めて
ビジネス・スーツの上着を手に持ち、暖かくなったオフィス街を歩く「会社員」たち。サラリーマンは正社員の事務系職員を指し非正規の人は含まない、という説明がありました。うーん。)

(コメント)上衣を脱ぐ暑さ、今やクールビズが始まるまでの短い間とはいえ、サラリーマンのお昼時です。腕にかければ品よく、寅さんのように片手で肩にひっかければ、ちょい悪で、絵になる都心の光景です。

幼な子が 指差す先の 若葉かな    増田隆一

*まだ言葉が出てこない孫ですが、目についた何かが気になると指差します。「あれは何?」という意味なのでしょうか?いったい、花が終わって緑だけになった木立のどこが気になったのか、そちらのほうが気になります。

(コメント)「はっぱだってきれいなのに、じいじ、不思議そうにしてる。見てよってば!」(お孫さんの代弁)

風やさし 川辺の道の 若葉萌ゆ    増田隆一

*近くの川沿いに整備された緑道があります。河津桜とソメイヨシノが植えられていましたが、いずれも緑の葉っぱばかりになりました。ようやく風が春らしくなった…と感じられました。

(コメント) これはきっとお気に入りの道で生まれた句なんでしょうね。有名どころでなくても、川辺の緑道が一本あることで、自然とつながれるような気がします。

若葉萌え 家をでられぬ 日々続く   増田隆一

*これから外出が楽しくなる陽気が続くはずの時期ですが、またもや「不要不急の外出は控えるように」と号令がかかりました。風光を愛でることは、疑いなく”不要不急”でしょう。今年の春もどうやら”あってなきが如く”になりそうです。

(コメント) 若葉の季節だけに、一層うんざりしますよね。でも、ステイホームで生き延びるために、近くの木々で風光をめでることは、免疫力アップのために要にして急だ!と私は屁理屈をこねます。

拭き掃除ウェルビーイングと若葉萌ゆ 川村千鶴子

無心に床を磨いたり、拭き掃除が大好きです。

(コメント)御意にて候!拭き掃除は掃除機をひっぱりまわすより、はるかに爽快です。顔をあげて窓越しに若葉が見えるとき、癒されますね。窓からそよ風のおまけ付きだともっと嬉しいです。

若葉萌え 幸せ運ぶ 亀歩む    川村千鶴子

駅のプラットホームから亀が歩いているのを見つけました。

飼い主と寄り添い見上ぐ若葉かな    芹沢健介

(コメント) 今この犬は若葉の青いにおいで鼻腔を一杯にしているのでしょうね、どんな気分か聞いてみたいものです。

春の埠頭キリンの群も眠りをり     芹沢健介

(コメント) 最初、何かと思いました。その後、ああ、あれのことね、と納得。鉄のキリンたちがせわしく動いているほうが経済順調だとはいえ、あの大きさ、あの形状が静かにたたずむのも独特ののどかさですね。

若葉ゆれランドセルゆれ小さき背    原田壽子

*入学式に向かう新1年生の背中でランドセルがかたかた音をたてて通りすぎていきました。きょうから学校と喜びにあふれています。

(コメント)なんて可愛いんでしょう!ランドセルもまだ「かたかた」と軽い音、楽しい学校生活が始まりますようにと祈らずにはいられません。

公園にばらばらいる人若葉萌え   原田壽子

*曇天の上野公園には人はまばら、でも欅も桜などどの木も若葉で空も見えないほど、つらなっています。こんなに素敵な若葉も見られず家にこもっているのはもったいないと思いました。美術展に行く公園の風景です。

(コメント) あのあたりの様子かな、と思って、お気持ちを共有いたしました。桜が終わって、見るものがないわけではなく、その後の若葉も見逃せません。

春風に舞う蒲公英や泥目指す     陳 康

(コメント) 「あ、そっちいったら泥んこよ、綿毛が台無し!」と綿毛たちの行く手が心配になりますが、春風に身を任せて、舞っていく綿毛たちの姿に、勇敢なものを感じないではいられません。  

墓前(はかまえ)の若葉や蟻の上り下り   陳 康

(コメント)  土の下に眠る人に若葉がみずみずしさを手向ける一方、蟻はあくせくと枝の上り下り、まるで命を削って働くこの世の人間のようです。せめて命ある時間(とき)を愛でながら暮らしたいものです。

おずおずとひらく若葉に日が差して     坂内泰子

*かよわい若葉を励ますような暖かい春の日です。

それなりの形整う若葉かな     坂内泰子

*柏餅の柏の木、豆のような若葉でもあの形です。愛らしいです。プチ柏餅を包んで
みたくなります。

                      (文責 坂内泰子)

(撮影:増田隆一 於:横浜・永谷川緑道)

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【2021年3月15日〆投句のまとめ】

3年にわたり多文化研HAIKU会の「まとめ」を担当いたしましたが、来月からは坂内泰子さまに投句先を統一し、新たなコンセプトでHAIKU会が再スタートします。4月からのHAIKU会の具体的なあり方は、後日、坂内さまから確定情報が配信されますので、よろしくお願いします。来月からは、私も皆さんと同じ資格でこの会に投句し、鑑賞して参ります。この3年間の皆さまのご協力を深謝いたします。
(文責 貫隆夫、以下 投句順)

花束を抱いて帰る風光り          原田壽子

2月、3月は卒業式や転勤など、別れの季節でもああります。胸に抱えるほどの花束を抱えて、花束をくれた人(々)への思いを反芻しながら帰る道すがら、春を迎えた風の輝きは冬の間とは違って光を増しているように感じられます。「風光る」ではなく、「風光り」とした下五は、中七の「帰る」との{る」音の重複を避けようとしたのでしょうか?

巣立ちしてさえずり呼ぶや春北風      原田壽子

春北風(読みは「はるきた」)は、「春になっているのに東北地方なので吹き荒れる雪交じりの北西風」と歳時記にあります。「巣立ち」は雛鳥が親鳥の巣から離れて独立していく晩春から初夏の状景を指します(季語としては夏)。また、「囀り」は春になって繁殖期を迎えた小鳥たちが求愛や縄張りを知らせる鳴き声をさし、春の季語となっています。時間の流れとしては「春北風」も収まり、「さえずり」」による求愛が成功して雛が生まれ、その雛が「巣立ち」していく、ということになります。

雨の音ガラスに滑る春夜かな         陳康

春の夜に降る雨は心なしか柔らかく、水滴がガラスを滑るように流れていく。
雨粒がガラスを滑るのは当たり前ですが、「雨の音」が滑ることによって、ガラスを「打つ」硬い雨音ではなく、ガラスを「滑る」柔らかな音に変わります。冬の雨とは違う春の夜の雨の雰囲気がとても詩的に表現されています。

流れ去る瞳の波や春の水           陳康

すれ違う人はコロナ対策で皆マスクをかけており、瞳だけが春の水のように流れ去っていく。すれ違う人はみなそれぞれ固有の人格を備えた存在であり、「袖触り合うも多生の縁」として、同じ時間に生き、袖が触れ合うほどに空間を共有するという縁(えにし)に思いを致したいところですが、マスクで顔半分が隠れた通行人同士、春の水と同じ無人格の存在として行き過ぎるだけ。コロナが人と人の関係を薄くする切なさが胸を打つように伝わります。

巣ごもりや墓にも行けず春彼岸        増田隆一

春のお彼岸を迎えて墓参に行けないのは、昨年でしたかお父上を亡くされた作者にとって心残りなことでありましょう。巣ごもりのもどかしさを捉えた一句です。

こぶし咲きマスクの子らも花に見え      増田隆一

辛夷の花は桜より一足早くその白い花で春を告げてくれます。子らが着けているマスクの白さがいま目にしたばかりの辛夷の花と重なってしまうのは素敵な連想ですね。プラス志向の句です。

夕時雨虹が跨ぎしベイエリア         増田隆一

ひとしきり時雨が降った後、雨上がりのベイエリアを大きく跨いで虹が懸かったという東京ならではの雄大な光景が詠まれています。時雨が冬の季語、虹が夏の季語という衝突はありますが、ベイエリアにまたがる虹が見えたのなら、そんなこと構っていられませんね。

冬眠から目覚めた亀に風光る         川村千鶴子

亀は3月上旬から下旬にかけて冬眠から覚めるので、亀を飼っている場合は水温や日照を徐々に変化させて自然な目覚めを促す必要があるようです。詠まれた亀が飼われている亀か公園の池などに棲んでいる亀なのかはともかく、動き始めた亀の甲羅に春の光が当たっていると亀を包む風の光りを同時に感じます。

物干しにアロハ一枚花曇り          芹澤健介

花曇りとは桜の咲く頃の曇天のこと。まだ春先なのに、アロハシャツという夏服が物干しに干してある。それも一枚。干してある服と干されている季節のずれがさまざまに想像を掻き立てます。コロナ騒ぎの今どきどこか南国に行って来たとすればどこへ?干してあるアロハシャツは旅先で買って着たものなのか?一枚だけ干してあるということは一人で出かけたのしら?旅先でどんな出会いがあったのだろう?等々。二つの季語の衝突がここでは推量や空想の火花を散らします。

春宵や赤いクルタとすれ違う         坂内泰子

クルタとは膝丈までの長袖の上衣で、男女とも着用するパンジャブ地方の民族衣装とあります。クルタは、桜の花と同じく、着ている服装が少し暖かくなった季節を感じさせてくれます。仕事や観光で様々な国の人々が行き交う今日、クルタを着た人とすれ違うのはインド本国だけではなく、東京でもあり得ることかと思います。春の宵という心浮き立つ季節の時間とクルタという異文化性が自然に重なり合えることは現代に生きる我々の人生を豊かにする素晴らしいことだと思います。

風光る巷を若い吾が行く           貫隆夫

この春は桜満開気分五分           貫隆夫

少子化やお雛様には子がいない        貫隆夫
                              (以上)

(撮影:増田隆一)

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【2021年2月15日〆投句のまとめ】

2月も後半、東京では春の暖かさを感じることも多くなりました。さくらの頃には五輪開催をするかどうかも決まっていることでしょう。日本の内閣にもイギリスと同様、「孤独担当相」が置かれるようになりました。「孤独」は個人の生き方の問題ではなく、政治の課題となっているようです。俳句を作る時、傍から孤独に見えても、頭の中は忙しく自然や人と言葉を交わしています。決して孤独ではありません。(投句順)

梅香る多文化の道登りつつ         川村千鶴子

梅はまだ少し後かと思っていましたら、開花の写真付きで投句して頂きました。梅の花は咲き始めたばかり、多文化社会への道はまだ登り始めたばかり、それでも一歩一歩登っていきましょう。梅の香気が励ましてくれています。

カンツバキ分断の溝から道拓く       川村千鶴子

「アメリカに期待を込めて」と作者の添え書きがありました。分断はアメリカだけのことではありませんが、バイデン新大統領のもと分断の溝が修復に向かうことを世界が望んでいます。寒気の中に咲く椿のように、新大統領の施政が環境厳しい中で美しく花開きますように。

春の日に背を向けzoom痴(おこ)なれば   坂内泰子

ZOOM痴とは「○○キチガイ」が○○にハマって夢中であることを意味するように、ZOOMのパソコン画面に集中していて、せっかくの春の日差しにも背を向けてしまっている、という句意かと思います。機械音痴という時の痴は機械のことに疎くて操作の仕方が良くわからないことを意味しますが、この句での痴(おこ)はハマっている、という方かと思います。たしかに、コロナでリアルの接触が制約される分、ZOOMが急速に普及しています。私も高校の同期会をZOOMを使って頻繁に行うようになり、ハマっている状態です。

気まぐれにマニキュアをぬり冬うらら        原田壽子

「気まぐれに」の上五が情景をよく伝えています。なにか必要や意図があってのことではなく、ちょっと思いついて久しぶりにマニキュアを塗ってみる。
女性ならではの気まぐれですね。男性の自分は、冬晴れの穏やかな日に特に用事もない時間、気まぐれに何をするだろうかと考えます。

こもり居は居眠りばかり春隣             原田壽子

「春隣」という兼題に応えて頂き、ありがとうございます。春が近くなって気温も少し上がってくる時分、外出自粛で閉じこもっていると居眠りを誘われてしまいますね。こもり居のせいで居眠りなのか、春隣りの季節のせいで居眠りなのか、という疑問はありますが、二つの原因が重なってたんに居眠りをするのではなく「居眠りばかり」になってしまう、ということかも知れません。

髪を切り春陽を浴びて銀座ゆく           原田壽子

春になって気持ちが外向きに積極的になる女性の高揚感がよく表現された句だと思います。髪を切る、春陽、銀座へ出かける、前月に投句された侘助の句と違って、今回は明色系の言葉が並んで読んでいて楽しくなります。「春陽」を
「はるひ」と読ませるか、「しゅんよう」と読ませるか。「しゅんよう」と読ませたい場合は「浴びて」の「て」を省略した方が良いと思います。

ひよどりが花粉で化粧寒椿      増田隆一

ひよどりは柑橘類などの果物のほかに、椿など花の蜜を好みます。ひよどりは蜜を吸うことはできず、嘴を花の中に入れ、舌で喉の奥に運びます。その行為の中で花の受粉に貢献します。この句には、ひよどりと椿の共益関係が的確に凝縮されています。作者は嘴が花粉まみれになった鳥の姿を「花粉で化粧」と擬人化して表現していますが、「花粉で」の「で」は説明的な雰囲気になってしまうので、「ひよどりの花粉化粧や寒椿」、あるいは擬人化を避けて、「ひよどりを花粉に染めて寒椿」とすることも選択肢の一つかと思います。

大声を出せぬ豆まき子ら笑顔     増田隆一

今年の豆撒きは閏年の関係で、例年より1日早い2月2日でした。大声を出すのが憚られるコロナ禍のもとでの豆撒きはふだんと勝手が違いました。それでも豆撒きをする行為には非日常の楽しさがあり、子供たちは笑顔になります。

まだ続く目だけの会釈春立ちぬ    増田隆一

昨年2月頃からのコロナ騒ぎなので今年2月はまる1年がコロナで過ぎたという感があり、「まだ続く」という上五は皆さん共感されると思います。マスクのせいで顔全体の表情でコミュニケーションができない中での挨拶は軽く首を垂れて会釈しながら、目で挨拶を交わすという形になります。その場合、どこまで目に気持ちを込められるかということが大切になりますね。口元を隠して限られた露出で、どこまできちんと挨拶ができるのか、それぞれの目力(めじから)が試されます。

春光や担ぐ翁の急ぎ足           陳康

春の光の中で老人が何かを担いで運んでいる。荷車に乗せて運ぶのではなく担いで運ぶ場合は荷物の重量が直接担ぎ手の肉体に掛ってくる。荷物がかなり重いと一歩一歩ゆっくり運ぶしかないが、そこまで重くなければ早く負荷から解放されるために荷を下ろす場所まで急ぎ足になる。老人が荷を担いでいる姿を見る側の心理的な負担感が春光という天候、急ぎ足で運べるほどの重さ、ということで救われる。生活感がリズムよく詠まれて、見事な句になっています。

建売に売約の札(ふだ)春隣       貫隆夫

転勤や新学期などに備えてこれからの季節は引っ越しや不動産の売買が活発になります。近所でも2軒の建売のうちの1軒が売れていました。

(撮影:川村千鶴子)

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【2021年1月15日〆投句のまとめ】

初詣も新年会もないまま「松の内」も終わり(7日)、「鏡開(かがみびらき)」(11日)も過ぎてしまいました。再び緊急事態宣言が出されて、健康のみならず、経済への打撃がさらに心配される事態となっています。俳句を作ることの長所は自分(の内面)を含め俯瞰的に物事を捉えようとすることです。投句された方は皆さん多忙や病気と闘いながら精神の平静さを保っておられることに敬意を覚えます。(投句順)

わびすけは氷雨に濡れて空暗く       原田壽子

椿の一種の侘助(わびすけ)、花は小ぶりで一重、椿よりも簡素なだけ気品があり、その名前とも相俟って、茶人に好まれる、とあります。氷雨(ひさめ)は変わった季語で、①積乱雲から降ってくる氷塊で雹(ひょう)と同義。つまり、氷雨(ひょうう)から転じて雹になったとされ、これは夏の季語。他方で、氷雨(ひさめ)は冬の季語として霙(みぞれ)と同義、雨と雪が同時に入り混じって降るものをいうと、歳時記にあります。同じ読み方で夏と冬の季語になっている珍しい言葉です。s頂いた句の中の氷雨はもちろん冬の季語としての氷雨であり、空も暗く、氷雨に濡れるわびすけは、あたかも体調不良の時の原田さんのようにも思えます。侘び、氷雨、濡れる、暗く、と暗色系の言葉が続きましたので、体調が良くなられた原田さんの明色系の言葉が並ぶ俳句を期待します。

故郷はわが厨なり雑煮椀          坂内泰子

故郷の実家の雑煮は一人娘の作者がその作り方を受け継いでいる。雑煮椀を並べて雑煮を作る時、自宅の台所は父母と暮らした故郷の厨(くりや)になる。

祖父母父母うちの雑煮を召されよと     坂内泰子

作者の説明によると、「うちの雑煮」は切り餅を焼いて、昆布だしのすまし汁に入れ、青菜と里芋、人参各1くらいで、あっさりした雑煮、との由。祖父母や父母、総じてご先祖様方に作者は伝統の雑煮をささげている。

兄嫁の心うれしや里の餅          坂内泰子

心優しい兄嫁が故郷の米屋でついた餅を毎年送ってくださるとの由。餅を通じて故郷に住む人とのつながりが保たれている。

粥炊かぬ家の庭にもナズナ伸び       坂内泰子

薺(なずな)はぺんぺん草とも呼ばれ、我々になじみのある雑草ですが、芹(せり)やはこべらなどと共に正月七日の七種粥(ななくさがゆ)の中に入れて食します。本来は野外に出かけて摘むものでしょうが、最近は季節になると七種をセットにして店で売られています。

雀にも年は明けたかにぎにぎし       坂内泰子

時間を区切って暮らすのは人間世界のこと、雀たちには年が明けるという感覚はないわけですが、雀の群れが今朝はいつもより賑やかな囀りをしているように聞こえる。雀を見る作者の視線の温かさを感じます。

一年を締めくくられず晦日そば       増田隆一

今年はコロナ禍で皆さん予定が狂った方も多いと思います。ことに作者は御父母の介護もあり大変だったことと思います。「いろいろ積み残してしまったなあ」と悔いを残しながらの年越しそば。作者のみならず思いを共にする人は多いはず。

これからはメールにてと書く年賀状     増田隆一
年賀状数が減るかや年ごとに        増田隆一

これだけITメールが普及してくると旧来の年賀状が細っていくのは時の流れと思います。私はまだ年賀状を出していますが、印刷を頼んだなじみの印刷屋さんが「さっぱりです」と嘆いていました。年賀状の数が減るのはITの普及だけでなく、我々の世代にとっては高齢や死去を理由とすることも増えています。「生存証明としての年賀状」と言われますが、確かにそうですね。

七草粥一人残さず健やかに        川村千鶴子

七草粥は無病息災を願って芹やなずなど七種の草を入れ、正月七日に食べる粥のことを指します。作者は自らが健康であるだけでなく、「一人残さず」健康であることを願って七草粥を詠んでいます。「残る」の否定形としての「残らず」、「残す」の否定形としての「残さず」、前者は「残らない」でほしいという願望(祈り)、後者は「残さない」という意志。多文化の実践者としての作者の決意がこの句に託されているのかもしれません。

ミニチュアのおせち料理に舌鼓      川村千鶴子

ミニチュアとはままごとのおせち料理とすれば、ここでの「舌鼓」はおせち料理を食べたつもりの舌鼓なのでしょう。お孫さんとのリアルの遊びなのか、ZOOMでのリモート遊びなのか?想像を膨らませる句です。

寒波行く知らせに母の逆気付け      陳康

寒波襲来に際して母上からの気遣いをお受けになり、自分が老齢の母を気遣う立場なのに逆になってしまった、と恐縮しつつも有難く思う気持ちを詠まれたものと思います。母と子の優しい心根が表れていて読む者の気持ちが暖かくなります。「寒波が来る」と言いますので「寒波行く」は「寒波来る」に替えましょう。「逆」という一字を付けて作者の気持ちを表現するのは漢字発祥の地の中国では通用するかもしれませんが、日本語では硬すぎる造語になりますので、次のような表現を考えました。
   母からの気遣い貰う寒波かな
頂いた気遣いが具体的には心配する電話を貰った、ということであれば、
   気遣いの電話母より寒波来る

新年の経つ程古く五体かな        陳康

新年の訪れはめでたいことですが自分自身は数えで一歳年を加え、そのぶん身体的には老化が進みます。この句はその嘆きを詠んだ句ですが、新年は「経つ」というより、「来る」ないし「迎える」ものなので、「新年を迎えて古く五体かな」としてはどうでしょうか。新年の新と五体の古さを対比させて、「年新た(あらた)五体は古く一年分」としても面白いと思います(「年新た」が季語になります)。。

砲声も年賀も混ざり風続く        陳康

砲声とは新年を祝う祝砲ということもあり得ますが、句の雰囲気としては新年2021年が紛争・戦争の危機を孕む風雲急を感じさせる年である、という憂慮を示しているように感じられます。国会議事堂に州兵が寝泊まりして警戒する米国の分断、台湾やインドとの緊張を含む中国の対外関係等々、分断や緊張という寒風が収まり、年賀の挨拶が心置きなくかわせるような来年になってほしいものです。年賀という祝いの季語を使いながら「風続く」とした下五の簡潔な表現がとても効果的で心打たれます。

さながらに蟄居閉門(ちっきょへいもん)去年今年(こぞことし)  貫隆夫

蟄居閉門は江戸時代、門を閉ざして自宅の一室に謹慎させる刑罰の一種ですが、自粛とは言え外出がままならない昨年から今年にかけて、誇張していえば蟄居閉門に近い状態です。早く赦免となりますように。
                            (文責:貫隆夫)

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【2020年12月15日〆投句のまとめ】

コロナに明け暮れた2020年も師走半ばを過ぎました。今年の予定に影響を受けたというより、人生そのものに影響を受けた方も世の中には多いと思います。この一年を生きた証の一つとして、この投句欄に掲載された俳句が作者の未来につながることを願っています。今回から坂内泰子さんが参加されます。(投句順)

木枯らしに吹かれて目だけ打笑めり        坂内泰子

「打笑めり」の「打」という言葉、久しぶりに目にしました。古典に「カラカラと打笑う(うちわらう)」という表現があったように思います。マスクをかけて歩いているときに、木枯らしの中で誰かとばったり出会い、目だけで笑って挨拶する、という情景が目に浮かびます。あるいは、マスクとは関係なく、風が強いので口元を引き締めて歩いているときに誰かに出会い、目だけで笑って挨拶する、という情景かもしれません。

吸い込まむ木枯らし吹いた青い空         坂内泰子

木枯らしで雲が吹き飛ばされて空が青い。少しマスクをずらして新鮮な冬の冷気を思いっきり吸い込む。マスク越しの呼吸をすることに慣らされた身にも共感を覚えます。

木枯らしの吹いてマスクマフラーニット帽     坂内泰子

マスクやマフラーは冬の季語なので木枯らし(冬)と重なりますが、寒い木枯らしが吹いたのでマスクマフラーニット帽で防寒態勢の服装にしました、という句意からすれば重なるのはやむを得ないことだと思います。ただ、木枯らしは吹くものなので、「花が咲く」とは俳句的には原則言わないのと同様、「木枯らし」と言えば「吹く」は省く場合が多いように思います。「木枯らしやマスクマフラーニット帽」とすることで音数も五七五に収まります。

かぼちゃではウィルス消えぬか冬至近し      増田隆一

日本では、「冬至かぼちゃ」として、冬至にかぼちゃを食することで運気を高め、健康を保とうとする習わしがあります。かぼちゃを食べることで新型コロナが防げれば良いのですが、そうもいかないか、という着眼の面白い句と思います。

冬の空またも涙すはやぶさに           増田隆一

小惑星リュウグウの物質をカプセル容器に入れて、はやぶさ2が約6年の宇宙の旅を終えて無事帰還しました。夜空に大きな流星のように尾を引きながら地球に帰ってくる映像は私たちの心を震わせるものがありました。下五と上五を交換して「はやぶさにまたも涙す冬の夜」とすることも可能です。

はや師走巣ごもり続く旅恋し           増田隆一

外出自粛の雰囲気の中で、気が付けばもう師走、旅行のできなかった今年の終わりは何となく納得できない気分が残ります。芭蕉ならずとも旅が恋しくなります。この句も共感の句です。

幼木の元に掃かれる朽葉かな           陳康

「朽ちた落葉が小さい木の栄養になる事で、自分の生命を変わった形で続ける、との旨を詠みたく」、と作者の説明にありました。木の葉が青葉から落葉になり、やがて朽葉になることで後の世代の糧になっていく、万物流転の中での命の継続を詠まれています。やがて朽葉になっていく年代にとって、己を顧みる味わい深い句です。「掃かれる」となると人間が箒で掃除している公園や庭先の情景になりますので、「幼木の根元に積る朽葉かな」としてはどうでしょうか。

コロナ禍でカメラに語る人権の日         川村千鶴子

人権の日にリモートの講演をされたか、講演の収録をされたのかと思います。社会のインフラとして人権が確保されているという状況ではなく、依然として社会の課題であり続けている現実のなかで、花鳥諷詠ではない俳句に挑戦された姿勢に敬意を表します。ここでは「人権の日」(12月10日)が季節を示す言葉となっています。「コロナ禍で」の「で」は、「コロナ禍なので」という因果関係が強く出すぎるので、「や」という切れ字を使って、「コロナ禍やカメラに語る人権の日」とすることも可能です。

カメラさん人権の重さ伝えたい          川村千鶴子

人権の重さを語る私の話を視聴者の皆さんにしっかり伝えてくださいね、とカメラ担当のスタッフに期待する句意かと思います。無季語俳句の形式で、人権の重さを伝えようとする作者の意図はしっかり表現されていると思います。

稜線の彼方来る年胎動す             貫隆夫

美しい稜線の向う側では、もうすぐ産み月となる来年が胎動を始めています。

                       (文責  貫隆夫)

(富士川付近:撮影 増田隆一)

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【2020年11月15日〆投句のまとめ】

先月からの宿題のようになっていた秋の果物を兼題とする俳句をそれぞれ作句して頂きました。木曜7時からのテレビの人気番組「プレバト」では「写真を見て一句」ということで、お題としての写真が示されますが、兼題として季語など与えられた言葉を詠みこんで短歌や俳句を作るときは、これまで人生で出会った風景や経験をベースにイメージ力を発揮して想像ないし創造することになります。言葉から何をイメージするか、イメージできるか、に詠み手の個性が問われることになります。(投句順)

雲集の独身の日の熱さかな           陳康

11月11日の「独身の日」は日本でもその売上高が毎年ニュースになるほど大きなイベントになっています。今年はセールの期間を11月1日~11日に拡大し、売り上げはアリババグループだけで日本円でいうと7兆9000億円と報道されており、中国のマーケットの巨大さを実感させられます。なぜ11月11日が「独身の日」なのかわからなかったのですが、日付に1が続くこと、1=独り者=独身、という理由付けになっていること今回初めて知りました。中国では「双11=ダブル11」という言い方に変わりつつあることも教えて頂き、ありがとうございました。この日が特別に安くなる日であれば独身でなくても購買するので、たしかに「独身の日」は実態を反映しなくなっているのでしょう。「独身の日」は開催の季節が決まっているので季語としての資格を持っていると思います。雲集という表現は買い手が集中する「独身の日」にふさわしい言葉だと感心しました。「熱さ」は音が「暑さ」(夏の季語)を連想させるので「熱気」」としてはどうでしょう。
参考句: 雲集の独身の日の熱気かな

北風や先週の青今日の黄            陳康

自宅のポトスの一枚の葉の色の変化に心を留める作者の感性に敬意を表します。何が青から黄に変わったのかということを伝えるために黄葉(こうよう)という季語を使ってみます。(紅葉と黄葉はどちらも「こうよう」あるいは「もみじ」と読み、秋の季語です)。ポトスは室内に置かれることが多く屋外で風を受けるイメージがないのと、季重なりを避けて北風(冬の季語)を省きます。
 参考句:気がつけば黄葉のあるポトスかな

初味見 異国の栗や 母国産            陳康

「日本に行ったばかりの頃に、東京の街頭で天津甘栗を初めて食べた事を思い出し」、「自国でまだ食べた事のないものが、他国で食べられるという、グローバルの世界を詠みたい」と作者の説明があります。さすが中国は広い国ですね。”異国の栗や”の””は「」にして「異国の栗」にしましょう。外国からの輸入品ということで日本では「異国の栗」なのだが、中国から来ている自分にとっては母国産という、この句の着眼はとてもユニークなので五七五の定型を超越して、「初めての東京初めての天津甘栗」と自由律俳句とすることも一つの選択と思います。定型俳句としては、「東京の街で母国の栗を食む(はむ)」とすることもできます。でもこれでは「日本に来て初めて天津甘栗なるものを食べた!」というグローバル化への感動が出てこないので、初味見という言葉を活かして、全て漢字になりますが、「初味見天津甘栗母国産」。

柿熟れて鳥ついばみし穴ふたつ            増田隆一

熟れた柿は鳥や獣の好物であることが多く、枝から柿をもぎ取ってみるとついばんだ穴が開いているということは経験された方も多いと思います。この句は「穴二つ」という数字がつくことで句の光景に具体性が生まれ、リアリティが増しています。

食べかけてマスクに気付く関東煮           増田隆一

関東煮は煮込みおでんを指す言葉ですが、わざわざ関東という言葉が付いているように関西から見た表現で、関東炊(かんとうだき、あるいは、かんとだき)とも言われます。マスク常用が習慣化している今年はこの句のようなことが実際にあちこちで起こったのではないでしょうか。関東煮は冬の季語ですが、来年の冬にはマスクなしで外出できるようになってほしいとつくづく思います。もしそうなれば、この句は今年を記念する、今年しか作れない句になりますね。

冬立ちてついに一年マスク顔              増田隆一

今年2月頃からのコロナ騒ぎなので、立冬を迎えてみるとほんとに今年1年はコロナに振り回されてマスクを着けて過ごした一年でした。「マスク顔」という言葉がこの句のポイントとして効いていると思います。コロナ禍がこれからずっと続くと、人間の遺伝子が進化して生まれたときから口や鼻が薄い膜で覆われているようになるのでは、というような妄想さえ抱きます。

家事楽し大掃除やら料理やら            川村千鶴子

日常の時間の大きな割合を占める家事を煩わしく思うのでなく、「楽し」と明確に肯定して行うことは人生そのものの肯定につながります。「楽し」と言わずに楽しさを伝えるのが俳句なのだともよく言われますが、ここではおおらかな肯定の気持ちを率直に伝える言葉として「楽し」が活きています。「~やら~やら」という助詞も「~も~も」と言うより、楽しむ気分にはるかに良く対応しています。ここでは「大掃除」を年末の「煤払(すすはらい)」に準じる冬の季語として受けとめます。

鯛ちり鍋最後の雑炊別料理             川村千鶴子

鯛ちり(たいちり)や鱈ちり(たらちり)は冬にふさわしい鍋料理ですね。最初に入れた白身魚や野菜類を食べた後、残りの汁にご飯を入れて作る雑炊も美味しく頂けます。これを「別料理」と表現することは残り汁を使った雑炊を一人前に扱うことを意味し、食べる側はそのぶん贅沢な気分になれます。「最後の雑炊」というと「雑炊の最後のひと掬い」と誤解されるかもしれないので、「最後の」を「最後は」に変えてみます。
参考句:鯛ちり鍋最後は雑炊別料理

すずなりの柿の実見上げ青い空         川村千鶴子

秋の青空を背景に柿の実がたくさん生っている風景は日本の秋を代表するものの一つです。この句は空の青と柿色の対比が素直にイメージできてすっと入ってくれますが、柿の実がなる頃の晴れた日という設定は、よくある風景であるぶん散文的になりやすいので、語順を工夫する必要があります。鈴なり(すずなり)は里神楽(さとかぐら)を舞う時に鈴を12個または15個結んで柄をつけた神楽鈴(かぐらすず)の形状から、「果実などが多くむらがって房をなすこと」と辞書にあり、柿がたくさん生っていることを表現するのにふさわしい言葉なのですが、ここでは鈴なりとほぼ同じ意味で、枝が撓む(たわむ)ほどに実がなっている状態を表す「たわわ」という3音の言葉を使ってみます。
参考句:見上げれば空青くして柿たわわ

マイバッグに二人の暮らし柿四個          貫隆夫

今年の7月からスーパーやコンビニでのレジ袋が有料になり、マイバッグの使用が増えてきました。柿はそれなりに重いので、柿好きの私は妻の分と合わせ二日分の柿を買ってマイバッグで持ち帰ります。

                       (文責  貫隆夫)

(撮影:川村千鶴子)

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【2020年10月15日〆投句のまとめ】

秋の果物(柿、栗、葡萄(ぶどう)、桃、梨、林檎(りんご)など)を兼題とする俳句は今回頂いた投句になかったので、次回を期待することに致します。
蜜柑(みかん)は冬の季語となっていますが、店頭にはまだ少し青さの残る蜜柑が売られ始めました。今日、石榴(ざくろ)を食べましたが、実の中に種がたくさん詰まっているのを見ると、一本の石榴の木にいくつもの実がなり、その実の中にさらにたくさんの種がひしめいている様子に、生命のひたむきさを感じます。(投句順)

モンゴルの風 空澄みて秋来る        増田隆一

秋になると気温が低くなって湿度も下がり、大陸からの移動性高気圧の影響もあって、空気が澄んできます。そこで、「秋澄む」「空澄む」「澄む秋」「爽秋」などが秋の季語として使われます。句中の「空澄みて」と「秋来たる」は余計な季重なりとして避けるべきでしょう。初秋の移動性高気圧はチベット高原や中国南部からのものが多いので、「モンゴルの風」が秋の澄んだ空気を運んできたというのは専門的には少し無理があるかもしれませんが、チベットやモンゴルは日本人にとっては日本の西ないし西北にある隣接地域なので、これは許してもらいましょう。
 参考句:モンゴルの風の運ぶや秋来たる

名月はマスクもいらず晴れ夜空        増田隆一

今年の仲秋名月は夜空が晴れたせいで東京でもよく見ることができました。一人で眺めるぶんには三密になるわけでもないので、私もマスクなどつけずに眺めました。名月を眺めるのは夜、晴れていないと眺めることはできないので、下五の「晴れ夜空」は別の言葉を探しましょう。
 参考句:名月やマスクのいらぬ独りかな

コスモスや秩序はいずこカオスの世      増田隆一

米中対立など世界の分断が進む中、秩序を求めたくなる気持ちを詠まれた句ですね。
世界の秩序は強権や独裁による秩序ではなく、乱れ咲いてはいてもそこに美しい混沌があるコスモスのように、自由度の高い秩序であってほしいものです。

キンモクセイ香り豊かに気づき愛     川村千鶴子

10月上旬の金木犀(きんもくせい)は黄色(銀木犀は白)の花が素敵な香りを発します。虫や蝶に気づいてもらうために花は美しい色や匂いを発します。人間もまたしかりで、他者を惹きつける容姿や能力を身に着けるために様々な努力をし、我々はそれに気づいて反応します。しかし、私たちの気づきの対象は、美しいものや優れたものに対するだけではなく、他者の痛みや哀しみに対しても向けられています。この句の作者は「気づき合い」を「気づき愛」という造語に変えることで、香り豊かなものに気付いたというより、気づくことが金木犀の花のように香り豊かなのだ、と言っているように思います。

白鷺の飛び立つ姿 艶やかな       川村千鶴子

白鷺は夏の季語ということになっていますが、小型の鷺は留鳥として夏に限らず見られますので、嘱目として秋を詠んだ句として受けとめます。白鷺の白は夏には涼やかな感じを与えますが、秋になって木々が色づいて来たなかでの白は涼やかさより艶やかさ(あでやかさ)を感じさせます。下五の「艶やかな(つややかな)」だと羽の色の光沢に視点を置いた表現になりますので、艶(えん)という言葉に変えたいと思います。
参考句:白鷺の艶(えん)を残して飛び立てり

満月や棲家も墓も照らしたり        陳 康

「10月1日は旧暦の中秋なので」と作者の説明にありました。春節と同じく、中国では今でも旧暦が大きな役割を果たしているようですね。仲秋の晴れた夜空にかかる満月は地上に置かれたあらゆるものを分け隔てなく照らしています。生身の人間が住んでいる家も死者の置かれた墓も等しく満月が照らしている光景が暗示することは、大宇宙から見ると生身の人間も、すでに死者となった人間も変わりはないのだ、ということかもしれません。ただし、「棲む」という字は鳥や獣が巣を作って生活することを言い、人間については「住む」という字を使うのが一般的です(「司馬遼太郎の作品に「世に棲む日々」という題の小説がありますが)。
参考句:満月や人家も墓も照らしおり

栗を食う栗鼠(りす)に近しき心地して     貫隆夫

栗を食べていると自分がリスの同類になったような気分になります。

仲秋の月下に黙す廃炉かな           貫隆夫

福島原発の上に仲秋の名月が掛かっている風景を想像して作った句です。
                           (文責 貫隆夫)

(撮影:川村千鶴子)

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【2020年9月15日〆投句のまとめ】

数十年が経って2020年を振り返る時、「あの年はコロナが流行った年」ということになるのでしょうか。それとも来年もコロナ禍が続いて、「コロナの最初の流行の年」という位置づけになるのでしょうか。人生を狂わされたと思う人も多いのかと思いますが、季節の巡りは確実に仲秋となり、店頭に果物がたくさん並んでいます。このところ投句する方の顔触れが固まってしまった感がありますが、それぞれ秋の季節にふさわしい投句を頂きました。(投句順)

海行かず祭りも知らず秋来る         増田隆一

今年の夏はどこにも行けないでいるうちに秋になってしまいました。「秋来たる(あききたる)」という言葉に無念さも込められ、多くの方々が共感される句だと思います。「三密」対策の一環として今年は神輿(みこし)を皆で「わっしょい、わっしょい」と担ぐのを避けて、軽トラに載せて運ぶスタイルを取るところが多いそうですね。

長月に梨といちじく並べたり         増田隆一

コロナ騒ぎでどこにも行けない鬱憤(うっぷん)をせめて果物をふだんより贅沢に食べて晴らしたくなる気持ちは、果物好きな私にはよくわかります。昨日、私は栗とイチジクを買ってきました。

テロの日に虫の声聞く九月かな        増田隆一

9.11は2001年に同時多発テロが起こり、ニューヨークのツインタワービルが崩壊した日ですが、あれからすでに20年近く経過しました。テロ当日はテレビの画像にくぎ付けになって虫の声を聴くどころではなかったのですが、虫の声を聴く今年は逆にかつてのテロのことを忘れたように思います。さすが増田さんはジャーナリストとして2001年9月の出来事をしっかり刻み込んでおられますね。我々も東北大震災の3.11を忘れることはないでしょうが、外国の出来事は次第に記憶から薄れていきます。しかし、「テロ」という言葉だけで9.11を連想することは、より大きなテロが発生しない限り消えない習慣です。今後は大きなテロがなく、テロといえば9.11 を反射的に思うことが続いてほしいと思います。

猛暑日も顔負け国のバトルかな         陳 康

「顔負け」という適切な表現を良く思いつかれましたね。脱帽します。デカップリング(分断)とは嫌な言葉ですね。同じ主題で「猛暑日や国のバトルにさも涼し」(陳康)という句を頂きましたが、猛暑日の気温と国家間の軋轢の比較なので、「猛暑日や国のバトルはなお暑し」とする方が作者の言いたいことがより明確に伝わると思います。国家と国家の軋轢は政府(政権)と政府(政権)の軋轢であって、国民と国民の軋轢ではないので、「バトル」がはやく解消に向かうことを願っています。

菊日和 世界地図帳 読みふけり      川村千鶴子

落合陽一『2030年の世界地図帳』が注目されているようですね。10年後の世界がどうなっているのか、私にそれを確かめる余命が残されているかどうかわかりませんが興味深いテーマです。地図帳は一般的には読むというより見るというものなので、ここでは単に世界地図帳と言うより著者の名前を付けて読み物としての性格を際立たせた方が良いように思います。上五に落合陽一を持ってくると八音と字余りになるので下五はなるべく五音にしたいと思い、菊日和の代わりに秋日(あきび)としました。
参考句:落合陽一『世界地図帳』読む秋日

ジニ係数幸福格差秋深し        川村千鶴子

所得格差や資産格差を示す統計概念としてジニ係数は最近よく目にする言葉ですね。したがってジニ係数は幸福格差と関連する概念ですが、俳句的にはいわゆる「三段切れ」という上五、中七、下五がつながりなく羅列されているという印象を与えますので、ここではジニ係数をカットします。また「秋深し』は晩秋の季語なので季語として「秋の暮」(あきのくれ)という言葉に変えてみます。(「秋の暮」には秋の末という意味のほかに秋の夕暮れという意味もあります)
参考句:幸福格差思いめぐらす秋の暮

昨日聞き今日は聞こえず秋の蝉          貫隆夫

                   (文責 貫隆夫)

大阪あべのハルカスの夕景:撮影・増田隆一

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【2020年8月15日〆投句のまとめ】

すでに立秋を過ぎていますが「命の危険がある」猛暑続きの昨今です。昔、イギリス滞在の折に聞かされた言葉に、「エリートたるものの条件は常に心に余裕があること。余裕の証として常にユーモアの心を持つことである。どんな苦難の中にあっても、例えば敵に囲まれて明日は総攻撃を受けて全滅するという時でも、兵を率いる将校はユーモアを言えなければならない」。私はユーモアの大切さに賛成しますが、これに詩情を加えたいと思います。コロナ禍のもと先の見通しが立たないときでも、ユーモアと詩情を心に抱いて生きていきましょう。俳句においては「軽み(かろみ)」=ユーモア、そして詩情が重視されます。今回も軽み、あるいは詩情を備えた句を投句して頂きました。(投句順)

初盆や迎え火できず家ごもり       増田隆一

コロナの夏は帰省もままならず、もどかしい思いをされた方が多いと思います。初盆とあれば迎え火を焚いて御霊を招き入れたいところ、家に引き籠っているというのは落ち着かない気分であったことと拝察いたします。
 参考句:迎え火もできず初盆家ごもり

やせがまん鍋でもするか猛暑日に     増田隆一

鍋(ここでは鍋焼(なべやき)または鍋焼饂飩(なべやきうどん))はあったかい料理なのでもちろん冬の季語ですが、猛暑日にわざわざ鍋焼とは確かにやせがまんの構図です。しかし、冷たいものの取りすぎで弱っている胃腸には温かい鍋焼は健康的かも知れませんね。「鍋でもするか」というのは男性の呟きになりますが、「猛暑日になべ焼きをするやせ我慢」とするとなべ焼きをしている人を傍で見ている人(男性あるいは女性)が皮肉っぽく詠んでいる川柳的な句になります。

今日もまた虎は負けかや梅雨終わる    増田隆一

今年の阪神タイガースは負けが込んでいるようですね。阪神ファンのあの熱気に溢れる応援は観客席にリアルにファンがいて初めて成り立つのかもしれません。

猛暑日も亀と白鷺憩いの場      川村千鶴子
炎昼も亀を見守る白鷺の目      川村千鶴子

最初の句は、憩いの場がどんな場なのかが、句からだけではよく読み取れません。人間にとっての憩いの場にたまたま亀と白鷺がいるということかもしれません。亀と白鷺にとっての憩いの場に仲良くいるんだという句意を読み手にわかって貰う工夫が必要です。

2つ目の句にとっては「(白鷺が)見守る」という、なるべく避けた方がいいとされる擬人化が有効かどうかがポイントになります。白鷺が亀を見ていることは事実としても「見守っている」ということにはエビデンスがありません。
エビデンスがないのにあえて「見守る」という作者の主観を入れるのには、主観を入れることに対する読者の共感を得るための、それなりの説得力が必要になります。
参考句:白鷺の白の涼しき真昼かな   (涼しき、が季語になります)
    白鷺と亀をうらやむ炎暑かな(ここでうらやんでいるのは作者=人間 なので、擬人化ではありません)
    炎昼や鷺のそば行く亀の列

讃美歌でともに弔う夏木立       川村千鶴子

あらゆる宗教、民族の人々が共に眠る東京霊園(八王子)を家族全員で訪ねた際に詠んだ句とあります。このままの語順では夏木立を弔っているような印象になりますので次のような参考句を作ってみました。
 参考句:弔いの讃美歌ひびく夏木立

インゲンや日本へ渡る里の味         陳康
インゲンを食えば日本へつなぐ里       陳康
インゲンの里に日本の文字ずらり       陳康

野菜として日本人になじみの深い隠元豆は中国(明)の名僧隠元が日本にもたらしたことから、そのような名前が付いたとされています。私達が隠元あるいは隠元豆という時、豆そのものよりもまだ実が成熟していない若い莢(さや)を莢隠元(さやいんげん)として食材として使う時に使うことが普通です。実として成熟した豆は鶉豆(うずらまめ)とも言われ、餡(あん)や豆きんとんの原料になります。作者の陳康さんの実家は隠元和尚の出身地である福建省福清市だそうです。

最初の句は「里の味」というと一般的な田舎の味ということになってしまい、陳康さんの郷里の味という意味合いが弱くなるので、「里の味」を「郷里の味」として「郷里」に「さと」というふり仮名(ルビ)を付けてはどうでしょうか。
参考句:インゲンや日本に行きし故郷(さと)の味

「インゲンを食えば」の句。正岡子規の句に有名な「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」という句があります。「食えば」という表現は率直ではあってもぶっきらぼうで失礼ということにはなりません。「日本へつなぐ」という中七はとても適切です。「里」を「味」に変えましょう。
参考句:インゲンを食えば日本へつなぐ味

「インゲンの里に」の句。「インゲンの里」では名僧隠元の出身地というより、現在インゲンが盛んに栽培されている地域という意味になりますので、隠元和尚の出身地(里)であることをはっきりさせましょう。しかし、「訪ねて来る日本の方々の名前が壁に記されている」とある陳康さんの説明を見て、それが落書きでないことを祈ります。まさかそんなことではないと思いますが。
参考句:名僧の里に日本の文字ずらり
    名僧の里にあまたの日本文字

被災地のうなぎ屋嘆く土用丑(どよううし)の日        貫隆夫

一昨日7月21日は土用丑の日でした。夏の土用丑の日には鰻(うなぎ)を食べる習慣があります。一昨日の夕方のニュースの時間に、洪水被害地の熊本県人吉市のうなぎ屋の女将さん(おかみさん)が「例年だとこの日は目の色変えて鰻を焼いてる日なんですけど、店が水に浸かった後の復旧作業中でそれどころではないのが本当に残念です」と語っていました。一年の内の一番の稼ぎ時に商売ができない悔しさはよく理解できます。

                         (文責 貫隆夫)

(亀と白鷺 撮影:川村千鶴子)

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【2020年7月15日〆投句のまとめ】

今年は梅雨の降雨量が多く、日本の九州や中国の長江流域などでは洪水被害も出ています。コロナ終息の兆しが見えないまま、今年は夏の予定が立てられない方も多いのではないかと思います。俳句を作る気分になかなかなれない中、下記の投句を頂きました。(投句順)

平和への七夕飾り祈り込め       川村千鶴子

北朝鮮の核開発、日本・中国間の尖閣諸島、中国と台湾、中国とインド、さらに中近東(イラン、イスラエル、サウジアラビア、イエメン、シリア)など、平和を祈りたくなる問題はいくつもありますね。平和への祈りを込めて七夕飾りをする。かつて「祈りで現実が変わると考えるのは観念論だ」と聞いたことがありますが、祈りつつ行動するという生き方まで否定される理由はないように思います。

七夕に人の数ほど悩みあり        川村千鶴子 

七夕の竹に付けられる短冊にはそれぞれ願い事が書かれています。書かれている願い事は裏返せば悩み事でもあるわけですが、「悩み事」より「願い事」とする方が七夕らしい詩情を感じさせます。
参考句:七夕や短冊ごとの願いあり

備後安芸(びんごあき)出水よ来るな半夏雨         増田隆一

半夏(はんげ)は半夏草、すなわち烏柄杓(からすびしゃく)という草のことで、この草が生え始める陽暦7月2日に降る雨を半夏雨(はんげあめ)と言う(と、歳時記にあります)。備後(びんご)は広島県東部、安芸(あき)は広島県の西半分を指す地域名です。2014年夏に広島市北部をはじめこの地域は大規模な洪水被害を受けました。梅雨期の豪雨による河川の氾濫を出水(でみず)と言います。出水は夏の季語、半夏雨も夏の季語ですが、作者は梅雨になって何かのゆかりのあるこの地域の洪水被害を思い出して、そんなことが起こらないように祈る気持ちかと思います。

梅雨晴れや杖をつきつつ母退院         増田隆一

母上のご退院の日が梅雨晴れ間で良かったですね。退院後のリハビリが順調に進み、早く杖なしでも歩けるようになることを願っています。作者のほっとした気持ちが伝わってきます。

夏の夜に疫病(えやみ)怒るか火球見ゆ     増田隆一

昨晩2時過ぎ、火球が見えたという通報がたくさん寄せられたと新聞に出ていました。空が光ったとか(爆発)音が聞えたとも書かれていますが、気象観測では時々見られることのようです。-その後、火球が落下して隕石となったものが発見されたとの由ーなかなか終息が見えない新型コロナの流行は、人間の行いにたいする神の怒りの表れか、それとも疫病に悩む人類に同情して流行そのものへの怒りとして神の怒りが火球の形で表れたと言いたいのか、作者に句の真意を確かめたいところです。

押し進むビーチの波や親追う子            陳康

既に7月半ば、厦門では海水浴もできる気温になっているのでしょう。日本は新型コロナの影響で今年は海水浴場の海の家が休業になるところが多く、例年のような賑わいは望めないようです。頂いた句から浮かんでくるイメージは、海水浴場に出かけた親子が波打ち際で戯れている姿です。その場合、ビーチの波が砂浜に押し寄せてくる時なのか、海側に引いていく時なのかで表現が違ってくるように思います。
波が寄せてきている場合:親追って子も波に退く浜辺かな (退く=ひく)
波が引いている場合:引いてゆく波追う親に子の続く
寄せ、引きの両方の場合:寄せて引く波追いかける親子かな
上の句には季語が無いので、季語を入れるとすれば:親を追う波打ち際の跣(はだし)の子
(跣が夏の季語です。子供が幼児の場合は「裸の子」としても構わないと思います。裸(はだか)も夏の季語です。)
子を追って親も戯(たわむ)る夏の浜
(ここでは親の方が子を追う形になっています(「戯る」は「戯れる」の文語表現です)。

初蝉や季節の巡り遅れなし              貫隆夫

コロナ騒ぎであっという間に過ぎた半年でした。気がつけばもうセミが鳴く季節になっています。

                     (文責 貫隆夫)
 

(撮影:川村千鶴子)

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【2020年6月15日〆投句のまとめ】

梅雨の季節は日本の稲作に欠かせない恵みの雨が降る季節。コロナ対策として手洗いとうがいが推奨されますが、それも水あっての話です。疫病が流行しても季節の巡りに変わりがないことに、ある種の安堵感を覚えます。今回は「梅雨」に関連した季語を使う句を少なくとも1句という条件を踏まえて以下のような句を頂きました。(投句順)

新生姜梅酢に浸す走り梅雨         増田隆一

生姜(しょうが)の収穫期は秋なのですが(したがって生姜の季語は秋)、6月から7月にかけて採った生姜を新生姜と言います。外は梅雨が間近いことを知らせる走り梅雨が降る中、新生姜を刻んで梅酢に漬ける作業をしている。保存食を作る営みにはきちんと生きていこうとする人間の健気さを感じます。

水無月に新学期かや子ら笑顔          増田隆一

陰暦6月の異称としての水無月(みなづき)はもともとは「水の月」すなわち水を田に注ぎ入れる月、という意味でした。水が無いのではなく梅雨のおかげで水が豊かなのです。今年はコロナ禍のために入学式が延期され、6月になってようやく学校が始まり、用意したランドセルを喜び勇んで背中に負って通学する光景が随所にみられました。
「新学期かや」という中七には「今頃になって新学期なのか」という慨嘆が含まれていますが、慨嘆を省けば、「笑顔して子ら水無月の新学期」と下五全体を使った体言止めも可能です。

母倒る報に動けず梅雨に入る          増田隆一

母が倒れたという報せが来たのに諸事情ですぐに駆けつけることができず、焦っているうちに梅雨になってしまった、という情況かと思います。舞台がある役者は親の死に目に会えないと言われますが、一般の人間でも親が倒れたと聞いてもすぐには見舞いに駆け付けられないときがあり得ます。「報」を「ほう」と読むこともできますが、「報せ」(しらせ)という言葉にして、次のような句にすることも可能です。
 参考句:母倒る報せのありて梅雨に入る

新聞に滲む世間や梅雨明けぬ         陳 康

投句の説明に、「コロナなのに世界中の国が情けない中傷合戦になっていること」を憂えての句、とありました。確かに、そんな状況が見られます。ただ、句の言葉からは新聞に世相が現れているという一般論になってしまいますので、例えば以下のようにしてはどうでしょうか。 
 参考句:中傷合戦やまぬコロナ禍梅雨明けぬ

薫風やちゃりんこ飛ばす子の放歌          陳 康

説明に、「大声で合唱しながら、初夏の風を切って自転車を飛ばしていた子供達の生命力に感銘を受けました」とあります。放歌高吟という言葉があるように「放歌」という言葉は日本語として不自然ではありません。「子供達」と複数であるとすれば、陳康さんご提案のように「薫風やちゃりんこ飛ばす子らの唄」とするのが良いと思います。「ちゃりんこの子ら放歌する青葉風」あるいは「薫風を自転車の子ら歌いつつ」(駆け抜けて行く)も俳句として成り立つと思います。

売り家の幟(のぼり)去年(こぞ)より迎え梅雨       貫隆夫

コロナ不況のせいか去年末から売り出されている建売の幟が梅雨の走りの雨に濡れていました。働き方、経済、国際関係など、コロナ禍はさまざまな側面で大きな影響を持ってきます。今年から来年にかけて、世の中がどう変わっていくのか、気になります。
                       (文責  貫隆夫)

(ニューヨークの紫陽花 撮影:山口美智子)

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【2020年5月15日〆投句のまとめ】

立夏を過ぎて少し夏の気配を感じるようになりました。新型コロナの影響は皆さんそれぞれの立場で受けておられると思います。年金生活者には当面、収入減の心配はありませんが、自営やアルバイトの方々は「収入見えず、見えているのは支出だけ」という状態ではないでしょうか。今回も若葉の季節にふさわしい句を投句して頂きました。(投句順)

亀たちに微笑みかける若葉かな         川村千鶴子

冬眠から覚めた亀たちに会いましたと、写真付きで投句を頂きました。若葉の陰を一列に歩く亀たちを良く見つけられたものだと思います。そして、目にした偶然を活かし、しかも兼題を取り込んで俳句を作られたこと、敬意を表します。中七の「微笑みかける」という表現に対して擬人化という批判もあり得ますが、若葉が微笑みかけているようだと感じられたのであれば、原句のままで良いかと思います。念のため、擬人化を避けるとすれば、下記のようになります。
 参考句:一列に亀の歩くや若葉陰

十日ぶり外に出て見しツツジかな       増田隆一

しばらく外出自粛が続いた後、外を歩いてみるとツツジの花が目についたという、
コロナ禍の中の日常を素直に詠んだ句。道路の植栽にもよく使われるツツジはありふれた春の花ではありますが、何気なく見過ごしているツツジも、久しぶりの外出をしてみると、室内とは違う自然の鮮やかさを改めて感じさせてくれます。ツツジを漢字で書くと「躑躅」ですが、俳句では漢字も時々使われますが、多くは「つつじ」とひらがなで書かれることが多いようです。
 
家籠りはや梅雨入りか沖縄は         増田隆一

外出を自粛すると空の様子から梅雨入りが近いことを感じ取る機会も少なくなります。家籠りしながらも感じる季節の変化から沖縄の梅雨入りを作者が推測している句かと思います。「か」という言葉を推測を示すものとすると、推測せざるを得ない原因としての家籠りという状況、この種明かしは最後に持ってくる方が良いと思います。日本列島は東西にも南北にも伸びていますが、桜前線、梅雨前線など季節に関しては南北で想像、推測することが多いようですね。
 参考句:沖縄ははや梅雨入りか家籠り

月齢を忘れて久し月に青葉          増田隆一

久しぶりに月を見ると満月近くなった月に若葉が影さしているという、これもやはり外出自粛に伴う状況を詠んだ句。とすると夜間なので、「青葉」と色彩を言う言葉ではなく、兼題としての「若葉」を使った方が良いのではないでしょうか。若葉も日に輝くさまが似合いますが、若葉ということは夜間でも変わることがありません。新緑としての若葉よりも青葉の方が少し季節が進んだ感がありますが、「目には青葉山ほととぎす初鰹」の句のように青葉は昼間目にするものなので、月=夜間とすると、若葉の方が良いかなと思います。
 参考句:月齢を忘れて久し月に若葉
     月齢を隠し影さす若葉かな

快晴や植木の若葉切り落とす           陳康

天気の良い日に庭木の剪定(せんてい)をする。落ち着いた静かな日常のなかの幸福なひと時を詠まれた句です。「切り落とす」というのは若葉そのものよりも、若葉のついた枝なので下記のようにしてはどうでしょうか。
 参考句:快晴や若葉の小枝剪定す
「切り落とす」という言葉には「剪定」にはないインパクトがあります。切り落とした小枝についている若葉の輝きを見て少しもったいないというか、申し訳ない気持ちになるかもしれませんね。
 参考句:切り落とす小枝の若葉日に眩し
 
お揃いのマスクの親子若葉道            貫隆夫

マスクは本来冬の季語ですが、今年は立夏が過ぎても外出時はマスク着用という非常事態です。時々手作りらしいマスクを見かけます。

                     (文責  貫隆夫)

(亀の行列と小鷺  撮影:川村千鶴子)

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【2020年4月15日〆投句のまとめ】

今年の春はコロナ一色で過ぎようとしています。人間社会には不要不急のことも多いのかもしれませんが、自然に不要不急はなく、動物も植物もそれぞれの営みを休むことなく懸命に続けています。季節の巡りに延期や中止、自粛はありません。今回、初めての試みとして、「桜」という兼題を設定したところ、投句された皆さんは見事に対応してくれました。(投句順)

巣篭もりの窓から見ゆる石楠花や         増田隆一

外出自粛という巣篭りが続くなか、窓から石楠花の花が咲いているのが見える、という句意は誰にも分かるこの春の情景かと思います。下五の「石楠花や」は収まりが悪いので、(字余りになりますが)「石楠花の花」としてはどうでしょうか。石楠花は「花」という字がついていますが、樹種を指す言葉として捉えると、「花」がダブルことにはならないと思います。
 参考句:巣篭もりの窓より見ゆる石楠花の花
      巣篭るや石楠花の美し(はし)窓の外

母倒る知らせも悲し花筏             増田隆一

母上様の病の知らせ、お見舞い申し上げます。花筏は桜の花びらが川や池に落ちて集まり、花で作った筏のように見える様子を指し、単独で「花」というと俳句では「桜」を意味しますので、この句は兼題の「桜」に応えて作句された句です。美しく水面を漂う花筏という季語が取り合わせの言葉として「悲し」と適切に対応しているかは意見が分かれるところかも知れません。ここでは、母という女性が病に伏されることを咲き誇った桜の花が散って、いまだ美しくはあるけれど花筏となって浮遊している景に比喩したものとして受け止めます。

特大の月を愛でし夜春半ば            増田隆一

満月あるいは新月が地球に最接近するスーパームーン。月と言えば秋の季語ですが春の月もいいですね。コロナの脅威を感じて人間世界が逼塞する今年の春、せめて特大の月を愛でて心を楽しませる、というのは日本の美意識に通じる生活の工夫かと思います。

桜蕊降る明け方のブレーキ痕         芹澤健介

桜の花と違って、桜蕊(さくらしべ)は樹にある時はさくらの花弁を支える裏方であり、散るときも花が散るような華やかさはありません。まして明け方という時間帯、桜蕊は人に気付かれることなく散っていきます。そんな明け方の道路に残るブレーキ痕。歩行者に気が付くのが遅く慌ててブレーキを踏んだか、助手席の同乗者との諍いに腹を立てたか、様々な原因が想像されます。いずれにしても、静かな桜蕊という自然、キーッという鋭い音を発したに違いない自動車という人工物、両者の対比が強いインパクトを持つ句です。

八重桜煎り酒かけてお弁当            川村千鶴子

一重の桜が散って、今は八重桜の時ですね。八重桜は花弁の量が多いので
散るときはまるでピンクの絨毯を敷いたような風情となります。煎り酒とは酒に鰹節・梅干・炒塩・醤油などを加えて煮詰め、漉し、刺身や膾(なます)などの味付けに用いる、と辞書にあります。煎り酒で味付けされたおかず付きのお弁当を持って八重桜の花見をする。花見の宴が禁止された今年の春を生きる我々にとって夢の情景です。俳句の世界で夢を楽しませていただきました。

留日の如く車窓の桜かな             陳康

日本語としては「滞日」という言葉が使われますが、「留日」という表現も言われてみるとぴったりはまる言葉です。車窓の桜は車の速度に合わせてサーと流れてゆく、思い返せば日本での生活も車窓から見る桜のように速く過ぎてしまったなー、という感慨が読む側に伝わってきます。
 参考句:留日の疾(と)きこと車窓の桜かな

東瀛の浮かぶ湖畔に桜立つ            陳康

日本を意味する雅称として扶桑(ふそう)、敷島(しきしま)、秋津島(あきつしま)、大和(やまと)、瑞穂の国(みずほのくに)、大八島(おおやしま)などの言葉のほかに東瀛(とうえい)という言葉があるのを陳康さんの俳句で初めて知り、勉強になりました。
東瀛の「浮かぶ」湖畔と言うと日本という国が湖の中に浮いているというように受け取られます。ここでは厦門の湖畔に咲いている桜を見ると日本に滞在したころの記憶が「思い浮かぶ」という句意と理解して、下記の参考句を作ってみました。
 参考句:東瀛を思い浮かべる桜かな
      東瀛の思い出過る(よぎる)桜かな
      東瀛を偲ぶ厦門の桜かな

芽生えるや明日の風雨も問わぬまま        陳康

春の季語として、芽立ち(めだち)、芽吹く(めぶく)、芽組む(めぐむ)という言葉が使われますが、「芽生える」も同種の意味を持つ言葉として使えると思います。芽生えようとする草木の生命力は本当に力強く、まさしく明日に風が吹こうが雨が降ろうが有無を言わせず芽生えてきます。植物の命の力強さが斬新な着眼で詠まれています。

世はコロナ季節はさくら宴(うたげ)なし      貫隆夫

来年の春はコロナを昔話としつつ花見の宴を持ちたいものです。

                    (文責 貫隆夫)

(八重桜 撮影:川村千鶴子)

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【2020年3月15日〆投句のまとめ】

アジア諸国よりもむしろ米国やヨーロッパで新型コロナウイルスの感染が拡大しています。東京オリンピックの開催もおそらく延期になることでしょう。感染の被害だけでなく世界経済にも深刻な影響が現れています。しばらくは非常時の中での作句になりそうです。(投句順)

香りたつ傘寿愛でたし薔薇の花         川村千鶴子
雪降れど傘寿を祝いて桜咲く          川村千鶴子

私(貫)の傘寿に際して2句の挨拶句を頂きました。有難うございます。挨拶句とは訪ねた場所や人、さらには出会った風物や情景に対する一期一会の思いを込めて、敬意、祝意、感謝、哀惜などの気持ちを詠む俳句を意味します。薔薇は本来の花時が初夏なので季語としては夏になりますが、切り花として年中売られています。今年の3月、冬の間にほとんど降らなかった雪が桜の咲く時期になって少し降りました。春になって降るその年最後の雪を「忘れ雪」、「名残り雪」などと言います。

通学路子ら姿なしコブシ咲く           増田隆一

コロナ騒ぎに伴う休校措置で通学路から子供たちの姿が消えました。通学路にかぶさるように季節をたがえず辛夷(こぶし)の花が咲いています。元気に通学する生徒たちの姿が消えた通学路の寂しさを辛夷の白い花が際立たせています。

肘上げて扉開けるか春の朝            増田隆一

建物や部屋に入る際、コロナウイールスの感染を防ぐために手ではなく肘の部分を使って扉を開ける風景を詠まれたものと思います。扉を開けているのが他人なのか作者自身なのか、他人であれば「か」ということばは「そこまでやるか」という慨嘆の気持ち、作者自身であれば「肘で開けるとするか」という自己の意志を示すことになります。米国大統領候補を決める民主党の討論会で、バイデン氏とサンダース氏が素手の濃厚接触を避けるために、握手の代わりに肘を接触させて挨拶したあと討論に入った光景を思いだしました。

風寒く春待ち遠し早さくら            増田隆一

立春を過ぎ早咲きの桜が咲いているとはいえ、まだ風が寒く本格的な春が待ち遠しいという気持ちを詠んだ句かと思います。「早さくら」でも意味は通じると思いますが、
河津桜(かわづざくら)や寒緋桜(かんひざくら)など2月頃に咲く早咲きの桜については、「早咲きの桜」という言い方が一般的かと思います。しかし、この際、寒い中に咲く冬の椿(椿の季語は春)を寒椿(かんつばき)と言うように、早咲きの桜のことを「早さくら」と言う言い方を認めさせても良いかもしれませんね。
 参考句:早咲きの桜や春暖待ち遠し
     風寒し春待ち遠し早さくら   (「し」で韻を踏んでみました)。

蛙声天に轟く静夜かな        陳康
満天の蛙の声や夜のどか       陳康

蛙声も静夜も漢字で読めば意味は通じると思います。蛙の声は、たとえたくさんの蛙が鳴いていても「耳を聾(ろう)する」と言うほどの音量ではないので「轟く」という表現はややオーバーな感じがします。俳句では「蛙」を「かえる」と読むより「かわず」と読むことが多いようです。有名な芭蕉の句「古池や蛙飛び込む水の音」は「かわず飛び込む」と読まれます。日本では蛙の鳴く声はまだ聞こえませんが、厦門近辺ではもう鳴いているのですね。
 参考句:天に星地には蛙の鳴く夜(よ)かな
      満天の星に蛙の鳴く夜かな

マスクする吾に薫るや沈丁花         貫隆夫

有難いことに沈丁花の良い香りはマスクをしていても届きます。マスクは冬の季語、沈丁花は春の季語ですが、花粉症や新型肺炎など、このごろは春になってもマスクを着用することが増えています。はっきりと見えないもの(とくに女性)を美しく感じる(推測する)ことを「夜目遠目笠の内(よめ とおめ かさのうち)」と表現しますが、マスクをしている女性とすれ違う時、私はたいてい美しい女性がマスクをしていると想像してしまいます。

                       (文責 貫隆夫)

(永谷川緑道にて・撮影:増田隆一)

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【2020年2月15日〆投句のまとめ】

新型コロナウイルスの感染が世界規模で拡大し、日本でも種々の集会やイベントが中止・延期されるなど様々な影響が出ています。主として季節の移ろいの中で自然や人生を詠む俳句にとって感染性疾病の流行は句作のしづらい環境ですが、下記のような力作が寄せられました。(投句順)

駅完成 道路拡幅 バレンタイン       川村千鶴子

新大久保の駅完成をまじかに控え、道幅も広くなる。建設に奮闘した作業者の方々にバレンタインの日にはチョコを配って自分の喜びと感謝の気持ちを伝えよう。駅近くに活動の拠点を構える作者の高揚した幸福感が伝わってきます。ただ、俳句では上五、中七、下五が助詞なしで切れてしまうことを「三段切れ」といってなるべく避ける、ということになっています。作者自身が断られているように、意味不明となるリスクが高いからです。17音の中にたくさんの要素を含めようとするとどうしても無理が出てくるので、ここでは道路拡張を句に取り込むことを諦めましょう。バレンタインは直接には人物名なので「バレンタインデー」あるいは「バレンタインの日」としました。
参考句:駅完成バレンタインの日もすぐに

春寒し旧知の笑みにのぼる湯気         陳康

立春が過ぎたとはいえまだまだ寒く、まさに「春寒し」の季節ですね。まだ寒い中にあっても鍋の湯気の向うに見える旧知の人々の笑顔は心温まるものがあります。旧知という言葉が効いています。「旧知」という言葉に「とも」とフリガナを付けて;
参考句:春寒し湯気の向うに旧知(とも)の笑み

廟会や漢服の子も歩く今              陳康

廟会は日本語で「びょうかい」とも「びょうえ」とも読まれるようです。寺院や道廟の総称である廟において旧正月に催される縁日のようなものであると説明があります。様々な屋台や大道芸で賑わうそうですね。豊かになった中国では、七五三の時に日本の子供たちが和服を着るように、漢服を着るようになったとのことです。この句の最後の言葉「今」には文化的伝統に回帰する余裕が持てるようになったことへの作者の感慨が込められていますが、作者自身が心配されているように「歩く今」という下五はややぶっきらぼうな感じがありますので、少し表現を工夫してみましょう。
参考句: 廟会や漢服の子に賑わいぬ
     漢服の子らや廟会豊かなり

年賀よりウイルスニュース手にスマホ         陳康

今年の中国の春節気分は新型ウイルスの騒ぎで完全に吹き飛んでしまいましたね。人々の行き来が制限され親戚や友人と年賀の挨拶をすることもできず自宅に閉じこもった状態で春節が終わってしまったと聞きます。
  参考句:ウィルスニュースに沈む年賀やスマホ見る

ウイルスの禁足令や春うらら              陳康

公的なものであろうと自発的なものであろうと実質的に禁足状態であることは報道される街の様子でも伺うことができます。禁足令とは簡にして要を得た言葉と思います。麗らかな春の日であるのに自由な外出がままならぬとはつらいことです。最近の句会で教えられたのですが、「麗らか(うららか)」あるいは「うらら」という言葉は、それだけで春の季語であり、春らしい温度よりも春らしい光の明るさに力点が置かれた言葉とのことです。晴れた春の日が麗らかなのは当然なので、秋麗や冬麗という言葉はあっても春麗や春うららとは言わない、とのことです。
 参考句:麗らかやなれどウイルス禁足令

立春の花かマスクの人の波       増田隆一

今年の立春は新型コロナ肺炎の騒ぎで華やいだ気分が吹き飛んでしまいました。街にはマスクをかけた人が多くなりました。感染予防のマスクを立春の花と見立てる作者の腹の据わり方に感服します。白の花弁が大きな花として白芙蓉を思い浮かべますが、芙蓉は秋の季語なのでここでは白梅か白椿あたりを思い浮かべることにしましょうか。
 
控えめに誤嚥も怖し恵方巻       増田隆一

恵方巻は「節分の日に、その年の恵方を向いて食う巻きずし」と辞書にあり、コンビニでもその時期になると売られています。作者は誤嚥を恐れるような年齢ではないと思いますが、この頃は餅のほかにも誤嚥に気を付けながら食べるべきものがいろいろあるということなのでしょう。

春来るオーロラの空見ぬままに     増田隆一

オーロラは南北極に近い地域で空中に見られる薄光なので、作者は北欧に出かけて夢幻の光を見たかったのに、諸事情で果たせなかったという句意かと思われます。春の訪れはそれ自体が待たれるものでありますが、冬の間にしておきたいことを積み残したままだと単純に喜べるものではないのかもしれません。
それにしても、オーロラを見ないままに春が来てしまったとは、かなり贅沢な積み残しですね。

わびすけの花ほほえみて春立ちぬ      原田壽子

侘助(わびすけ)の花は冬の季語ではありますが、椿よりも小ぶりな一重咲きの花なので立春とはいっても春の兆しがわずかしか見えない時期を詠むのにふさわしい花だと思います。ただ、花が微笑むという擬人化はよく使われる表現なので既視感が避けられません。侘助という冬の花がまだ咲き残っている中で立春を迎えた、という感じで以下の句はどうでしょうか。
 参考句:わびすけの花を残して春立ちぬ

北壁に挑むがごとき受験子の              芹澤健介

日本の2月は受験シーズン。少子化で昔より広くなっているとは言え、受験生にとって受験は彼らのまだ短い人生経験のなかで最大の挑戦であることに変わりはありません。受験生の心情はまさに切り立った北壁に挑むような緊張を感じていることでしょう。下五を「受験生」とすると単なる比喩になってしまいますが、「受験子の」とすることで受験生の心情を思う余韻が生まれます。

ペトリコール 匂い代わりて 春来たる          貫真英

ペトリコール(Petrichor)とは何ぞや?というのが最初の印象です。調べてみると、「雨が降った時に地面から上ってくる匂いを指す」、「1964年にオーストラリアの鉱物学者が発表した論文の中でギリシャ語のPetra(石)から作られた造語」、とあります。雨が降らない期間が続くと、植物は水分の消費・摂取量を減らすために脂肪酸を出して土や石に付着させ、空気中の湿度が80%以上になると鉄分と反応して脂肪酸が空気中に放出される。その際の匂いなので、どちらかというと雨が降る前の匂いとして、雨上がりに土壌中の細菌が作り出すジオスミン(土Geo+匂いSmell)の働きで生まれる匂い、すなわち雨後の匂いと区別されるようです。雨が降る前か、降る時か、降った後かは別として、水そのものには匂いがないのに、ペトリコール、ジオスミンが雨の匂いを発生させることになります。この句の意味はしばらく雨が降らなかった冬の乾燥の後に春の雨が降ろうとしてこれまでとは違った空気の匂いがする。春が来たのだ!という感動を科学的用語を使って表現したものと思います。上記の説明を前提とすれば、「ペトリコールに匂い代わりて春来る」とするか「ペトリコールの匂い漂い春来る」ということになります。カタカナの専門用語を使わないとすれば、「雨の匂い土より発し春来る」でしょうか。ぺトリコールの後に助詞を付けた方がいいと思いますが、科学用語を俳句に取り入れたチャレンジ精神に敬意を表します。
参考句:春雨やペトリコールの匂いして

冬晴(ふゆばれ)や語らざる絵の数々と      貫隆夫

長野県の上田市の近くにある無言館(むごんかん)を訪ねました。戦没した画学生達が残した絵を展示している建物です。冬木立に囲まれた坂道を登っていくとひっそりと無言館が建っていました。展示してある絵も、絵を見る人も無言。それらの絵を残して若い命を落とした人々を思うと、知覧の特攻記念館を見る時と同質の悲しさを感じます。

                    (文責 貫隆夫)

(撮影:川村千鶴子 @新大久保駅)

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2020115日〆投句のまとめ】

 2020年がスタートし、街はすでに仕事モードの日常に戻りました。日本にとってオリンピック開催の年でもあり、地震や台風の災害が少ないことを祈るばかりです。この冬、東京にはまだ積もるほどの降雪はなく、冬の句材として重要な「雪」という季語を使う場面がありませんが、年末年始のご多忙な中で下記の投句を頂きました。 (投句順)

初日の出 共に創ろう 多文化社会          川村千鶴子

 大晦日に早くも初日の出の句を送って頂き、多文化社会の創出に向けて、年頭から意欲満々にダッシュする作者の勢いを感じます。「ともに創ろう」という呼びかけは、すでに確立したた多数派の文化が少数派の文化の都合のいい部分(許せる部分)を受け入れるというスタンスではなく、時に対立を孕みながら対等にぶつかり合う緊張感の中から多文化社会が生まれるという作者の覚悟が含意されているように思います。

俳句は通常一行で縦書きに表示し、上五と中七、中七と下五の間の間隔を開けずに書かれますので、「共に」をひらがなで書いて読みやすくしました。

  初日の出ともに創ろう多文化社会     


父看取る京都(みやこ)の朝の時雨かな         増田隆一


 ご尊父のご逝去をお悔やみ申し上げます。すでに高齢に達していると分かっていても親が亡くなることはつらいことです。死に対して親という壁があったのに、親が亡くなると死からの風が直接自分に吹き付けてくるような気がします。多事多端ななかで作句されたことに敬意を表します。

 父の命が消えていく冬の朝にさっと降ってくる雨。東京と違い、山が近い京都の冬はさっと降っては止み、また降ってくる時雨(しぐれ)の頻度が高い街です。人が亡くなることの厳粛さ、時雨降る朝の静けさ、都(みやこ)として機能してきた京都の長い歴史、これらの要素がぴったりと組み合わさる中に作者の悲しみが伝わってきます。

初孫の笑顔うれしき年賀かな              増田隆一

 初孫、笑顔、年賀と嬉しくなる要素が揃っていて、「つきすぎ」と言われるかもしれませんが、年の暮れに親が亡くなり、年明けての年賀の席では初孫の笑顔に癒される、まさに哀歓織りなす人生の営みを感じさせられます。

千両と松の艶よし寒の入り               増田隆一

 千両の実の赤、松の葉の緑。寒の入りという身の引き締まる冬の厳寒期を彩ってくれる植物に感謝し、それらを愛でながら今年の冬を乗り切っていくぞ、という作者の決意と精神的余裕の両方を感じさせる佳句になっています。

舞い上がる 後に落ちるや 枯木の葉     陳康

 句の意味は枯葉が風で舞い上がったあとで地に落ちてくるという冬の情景を詠んだもの、あるいは「人は舞い上がると地に落ちてしまいますよ」という人生の教えを詠んだもの、両方に受け取ることができます。風が強い日の冬木立の情景に詩情を感じる作者の繊細な感覚が窺われます。

 ここで枯木(かれき)とは裸木(はだかぎ)とも言い、本当に枯れてしまった木ではなく、落葉を終えて枯れたように見える木を指していう言葉です。もちろん冬の季語です。枯木にはすでに葉はついていないので「枯木の葉」が舞い落ちるというのは少し無理があるとも言えるでしょう。これに対し、枯葉(かれは)は落葉して地上に散り敷いたもの、まだ梢に残っている枯葉の両方を指します。下五の「枯木の葉」は枯葉と3音で表現できます。

参考句:舞い上がる後に落ち行く枯葉かな


ゴミ箱の暦に残る日々のメモ         陳康

 ゴミ箱に捨てられた暦に記されたメモにはその暦の月日を生きた自分の活動の痕跡が残っている。鋭い着眼だと思います。ごみ箱に暦を捨てるのは年末か年の初めに決まっているので季語はなくとも季節が分かりますが、ゴミ箱に暦を捨てるのは歳末いっぱいに暦を使った後の新年になってからなのか、間もなく終わる今年の暦をゴミ墓に捨て新しい暦を壁にかけて大晦日を迎えるのか、人によって違うので、ゴミ箱の暦を詠んでいるのが歳末なのか年明けなのか解釈が分かれ、それに応じて季語の使い方が違ってきます。

 参考句:古暦(ふるごよみ)メモに今年の日々の跡

        (新年用の暦が配られると、現在使っている今年の暦は古暦となります)

      ゴミ箱の暦に残る去年(こぞ)の日々

        (年明けのゴミ箱に去年の暦を見た場合)

冬の夜描くや春の物語り           陳康

 寒気の厳しい冬の夜に来たるべき春の物語を思い描いている。「物語」(「り」は不要です)という言葉の含意がさまざまに想像されて読み手の想念を膨らませます。春になって展開するであろう自分の恋のハッピーな物語、企画中のプロジェクトの大成功、等々。春になってからの物語は期待を込めた明るい楽観性に満ちています。


元旦でお正月待つ逆福字          陳康

<<<説明:「福」字の紙を逆さまに貼る事を、中国語では「福が来る」と同じ発音の為、春節の縁起物として中国の風習となっております。中国では、二つの新年がある事の面白さを表現したかった為、「元旦で 新年を待つ 逆福字」の句から入りましたが、日本の方に伝わりにくいかと思い、結局上句に至りました。>>>

 新旧の2回訪れる中国の新年の風景を教えて頂き、ありがとうございました。「倒福」と「到福」が同じ発音になることに基づく風習のようです。「元旦で」の「で」は説明的な雰囲気になってしまうのと、なるべく濁音を避ける、元旦にお正月を待つというのは説明なしには分かりにくい、等々の理由から下記の参考句を考えてみました。

参考句:元旦や旧正月待つ逆福字

冬麗や白鳥泳ぐ逆さ富士               貫真英

 冬の晴れた日、富士山は日に輝き、穏やかな湖面には逆さ富士が映っている。その逆さ富士を横切るように白鳥が泳いでいる。爽快で平和で、気分の良い風景が詠まれています。白鳥は冬の季語ですが、富士山の麓の山中湖の白鳥は留鳥として1年中見ることができるので、冬麗という冬の季語と重なることは構わないと思います。
 実際の富士山を横切ることはできなくとも、逆さ富士の頂上近くを泳ぐのであれば、白鳥が富士を横切ることは可能かと思います。
 「泳ぐ」を「横切る」(よこぎる)あるいは過る(よぎる)として逆さ富士ならではの動きにしてはどうでしょうか。

参考句:冬麗や白鳥過る(よぎる)逆さ富士
    冬麗やスワン横切(よこぎ)る逆さ富士

キリストの血の色に濃しポインセチア        貫隆夫

寒晴るる関東平野富士真白              貫隆夫

 (かんばるるかんとうへいやふじましろ)

(「寒晴れ」「寒の晴れ」は寒い時期の晴天を指します。「冬晴」、「冬麗(とうれい、ふゆうらら)」、「冬晴(ふゆばれ)」、「冬日和(ふゆびより)」等に近い季語です。「寒晴るる」は「寒晴れる」の文語形ですが、「寒晴れる」でも構いません)。

                                         (文責 貫隆夫)

京都・南区での時雨(撮影:増田隆一)

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 【2019年12月15日〆多文化研俳句まとめ】

映画「ジョーカー」を観て帰宅したところです。格差社会への問題提起として世界的に注目を集め、各地の抗議デモなどにジョーカーのメークアップをして参加する若者の姿をニュースなどで見かけます。銃社会の暴力シーンになじめない部分がありましたが、格差の問題はこれからも大きなテーマになっていくことでしょう。年末ご多忙ななかで会員から以下のような投句を頂きました。

八百万の神も祝福クリスマス           貫真英

一神教ではない我が国の神道には八百万(やおよろず)の神様がいるとされます。神道と仏教、さらにはキリスト教など様々な宗教が共存する日本のクリスマスは仏教などから敵視されることもなく、歳末商戦などのイベントに盛んに活用されています。キャバレーで大騒ぎすることはもはや昔のことになりましたが、クリスマスイブにカップルがデイトして食事することは今でも行われているようです。この句は、クリスマスツリーやイルミネーションに飾られた街を歩く人々の幸せを願う作者の気持ちを反映したものなのでしょう。

空凍てて星の雨降る師走かな         増田隆一

12月15日夜をピークにふたご座流星群が観察されたようです。「氷る」あるいは「凍る」はどちらも「こおる」と読みますが、「凍てる」あるいは「冱てる」はどちらも「いてる」と読みます。「凍てる」には水などの液体が低温によって固体化する現象だけでなく、空気や物が凍ったように冷たく感じられる場合にも使われる言葉です。「凍てる」は冬の季語ですが12月だからと言っていつも空が凍てるわけではないので、師走という冬の季語が重なっても構わないと思います。何かと気忙しい師走なのに流星群を見上げる気持ちの余裕が素晴らしい。

冬至近くポリ袋の口探る指          増田隆一

冬至近い此の頃は日の暮れが早く、ポリ袋に入れた夕食の材料を取り出す、あるいはポリ袋にゴミを入れる作業をする際、それが屋外、あるいは屋内でもまだ明かりをつけていない時間だと、ポリ袋の口を手探りで探すことになります。作者が男性なので、男性である私はその生活感に強い共感を覚えます。(同じことを女性がするのは当たり前の風景で、男性がそれをすると冬の夕方の詩情をもたらす、と言うのは男女差別のそしりを受けることでしょう)。投句のままでも気持ちはよく伝わりますが、次のような詠み方も可能かと思います。
 参考句:ポリ袋の口さぐりいる冬の暮

葉牡丹の姿見て知る年の暮れ        増田隆一

花屋に葉牡丹が並ぶのは日本の歳末を感じさせる風景です。葉牡丹の鉢を玄関先に飾るのは正月を迎える支度として我が家にもなじんだ習慣となっています。「葉牡丹を植えて玄関らしくなる」(村上喜代子)。葉牡丹は冬の季語なので「年の暮」という冬の季語と重なりますが、葉牡丹を見て歳末を感じたという句意なので季語が重なっても構わないと思います。(「年の暮れ」とすると「暮れる」という動詞の雰囲気が強くなるので、「年の暮」ときっちり名詞とする表記が良いです)。ただし、「葉牡丹の姿」の「姿」は余計で、「葉牡丹を見て」で充分です。また葉牡丹を見て年の暮れを知るというのは、事実がそうであっても因果関係の説明を感じさせるので、花屋で葉牡丹を見かけたという状況を想定して次の参考句はどうでしょうか。
 参考句:葉牡丹の花屋に並ぶ年の暮

黄み帯びた葉には無理か青の夢             陳康

すでに黄色に色づいた葉には青葉の頃を夢見ることは無理だろう、という句意かと思います。人間であれば老境に差し掛かった時に青春時代を振り返り、できればそこに立ち返ることを夢見ることはあり得ます。木の葉が夢を見るという擬人法には批判があるかもしれませんが、木の葉に託して自分の感慨を詠んでいるということは良く伝わります。俳句の中七はリズムの関係でできるだけ崩さない方が良いと言われます。中七の「無理か」を「無理かな」あるいは「葉」を「葉っぱ」とすることで中七は維持できます。また、「黄み帯びた葉」は「黄葉(こうよう)」に代えることができ、「黄み帯びた」は「黄に染まる」あるいは「黄を帯びし」と「み」を省くことが可能です。「無理か」を「叶わぬ(かなわぬ)」で置き換えて、
参考句:黄を帯びた葉には叶わぬ青の夢                 あるいは、
    黄を帯びた葉っぱ夢見る青の頃            
    黄に染まる葉にもありけむ青の夢
    (擬人法を避けて)
    枯葉にも青葉の頃の有りにけり

香港のデモが話題の忘年会           貫隆夫

収束の兆しが見えない香港のデモがどのような形で決着するのか、対岸の火事のような気分で話題にするのは申し訳ないと思いつつ、どうしても話題になります。

    (文責  貫隆夫)

横浜・日本大通り(撮影:増田隆一)

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 【2019年11月15日〆多文化研俳句まとめ】

秋の季語として秋の灯(あきのひ)、秋灯(しゅうとう)、秋ともし、など読書の秋を連想させる言葉がありますが、この秋の読書は如何だったでしょうか。読みたい本はたくさんあるのに、早くも歳末が近づいてきました。今回のまとめは以下の通りです。

秋深し優雅にほほ笑む富士の山        川村千鶴子

秋深い中で新幹線の車窓から見る富士山、いいですね!「富士山が微笑む」というのは擬人化なので避けるべきだという批判もあり得ますが、少なくとも作者にとっては富士山が微笑んでいるように見えた、と主張することは可能だと思います。擬人化を避けて「客観写生」にこだわるとすれば;
 参考句: 車窓いっぱい富士の稜線秋深し

木枯らしに多文化の幸せ詠む仲間     川村千鶴子

木枯らしが吹く中でも文化の違いを超えて集える仲間がおり、しかも俳句を詠むという共通の表現形式で気持ちを分かりあえることができたら、本当に幸せですね。
リズムの観点から、中句の7音はなるべく守った方が良いと言われます。そこで;
参考句: 多文化の幸せを詠む冬日和(ふゆびより)

立冬や初孫の手にもみじ見る         増田隆一

初孫のご誕生、誠におめでとうございます! 孫が欲しいのに叶えられない友人はたくさんいます。本当におめでとうございます。
赤ちゃんの手を「もみじのような手」と表現するのはかなり定型的なので、「もみじ見る」という比喩表現に新しさはありませんが、壮年の時期を過ぎて初老となりつつある自分の季節を「立冬」とし、自らの季節は冬に入ったけれども初孫の手が「もみじ」の美しい秋の季節に時間を引き戻してくれる、と解釈すれば「もみじ見る」という比喩も生きてくるように思います。あるいは、「今年の秋は諸事多忙で紅葉を見る暇もなかったけれど、紅葉のような初孫の手を見ることでその欠落を埋めることができる」という解釈も可能かもしれません。
 参考句:初孫の手にもみじ見て冬に入る

もみじ葉は落ちても尚も心打ち         貫真英

晩秋から初冬にかけて紅葉の美しい季節です。ただ、美しいものを美しいと詠むだけでは発想の新鮮さが出てこない憾みがあります。「美しさに目を奪われやすい季語は発想の類型化をもたらす危険性を孕んでいる」(櫂未知子『角川俳句大歳時記』)からです。この句の場合は「美しい」と詠む代わりに「心打ち」と詠まれていますが、「美しさに心を打たれたから句を詠んだのでしょう」との批判があり得ます。たしかに、もみじ葉は枝にある時だけでなく、地に落ちた後も美しいという特徴があり、秋の地上を美しく彩る重要な素材です。「散り落ちてなお心打つもみじかな」と詠むこともできますが、ここまでは常識の範囲内ということなので、散る途中も美しいと紅葉の美を3段階で捉えると先句に類型がない句に仕上がるかもしれません。「美しい」の同義語に口語では使われませんが「美し」(はし)という言葉があります。それを使って;
 参考句:もみじ美し(はし)散るまえ散るとき散りしあと(人生もかくありたし)、
      もみじ葉の散りて残れる光かな

彼岸花 落とした影で 雛じゃれる       陳康

アモイにも彼岸花が咲くのでしょうか。彼岸花は独特の形をした花を頂部に乗せて茎だけがすっと伸びて咲きますので、その花の影に雛がじゃれている光景ははっきりと景(けい)が見えます。彼岸花の影と雛の組み合わせは類句がないと思います。ただ、㈰影を落とした主体は彼岸花、じゃれる主体は雛、と主体が二つ出てくると焦点が曖昧になる、㈪「じゃれる」と言うとじゃれる相手が必要になり、「雛が母鳥にじゃれる」「雛同士がじゃれる」「雛が影とじゃれる」と解釈が分かれてしまうので、彼岸花という強い季語を主体にして;
 参考句:雛あそぶ影を落として彼岸花

南国や 冬風なめて 若芽吐く          陳康

厦門も温帯なので四季はあり、日本と同じく今は冬、したがって吹く風も冬の風なのでしょうが、それでも日本と比べて南に位置する厦門では「冬風」に吹かれる中で芽吹く木や草があるのでしょうね。「芽」(め)あるいは「ものの芽」は春の季語ですが厦門では冬の風と若芽が矛盾なく並立するのでしょう。「冬風なめて」の「なめて」の適否は判断が難しいです。風がなめたので、それが刺激となって芽吹いた、ということを表現するのに適切だとも言えますが、「風に触れて」と言う方が抵抗感がないとも言えます。「若芽吐く」の「吐く」も誰が「吐く」のかという疑問が生じます。(木や草が芽を吐く?)「芽吹く」という定着した表現がありますので「吹く」を使って「若芽吹く」とした方が良いでしょう。
 参考句:南国や冬風のなか若芽吹く
     十一月の厦門の風に若芽萌ゆ(もゆ)

白と黄の二列ほのかに菊まつり            貫隆夫

笠間市にある笠間稲荷神社で菊まつりを見てきました。日が陰ってきた夕方の薄明かりのなかで見る菊の花には風情があります。          

                     (文責 貫隆夫)

(撮影:増田隆一)

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 【2019年10月15日〆多文化研俳句まとめ】
                       講評:貫隆夫
台風19号の被害が甚大です。復旧作業をしている途中にまた雨が降ったりして、被災者の気持ちを考えると本当に胸が痛みます。南から大量の水を運んでくれる台風は水不足の時はありがたい存在でもありますが、河川を氾濫させるほどの雨を降らせるとなると誠に厄介な存在です。今回のまとめは以下の通りです。

人生の 一里塚かや 吾亦紅              増田隆一
「人生の一里塚」とは人生という時間軸の中での一つの区切りを意味します。秋に暗赤色の花をつける吾亦紅を季語に使って「取り合わせ」とすることで作者は自分の心象を表現しようとしています。吾亦紅の花には花弁がなくやや寂しげな風情があります。現状を「人生の一里塚」と捉える作者の心象は何かを達成したという高揚感のある区切りではなく、何かを失ったという諦観をより強く感じさせます。
 
いわし雲 凧が重なる天の海             増田隆一
いわし雲をよく見る季節になりました。天空を鰯(いわし)という魚が泳ぐ海と捉えて、そこに凧(たこ)もいるという風景は、凧(たこ)=蛸(たこ)と捉えれば、おもしろい軽み(かろみ)の句となっています。(凧揚げは新年、たんに凧と言えば俳句では春の季語となっていますが、ここでは問題にする必要はありません)。ただ、いわし雲と凧は「重なる」と言うには大きさが違いすぎるのと、凧が蛸につながることを暗示させるためにも、「重なる」より「泳ぐ」とする方が良いと思います。
 参考句:いわし雲凧も泳ぐや天の海

学び舎に金木犀の香りよし               増田隆一
どこからともなく木犀(もくせい)の香が漂ってくる季節です。校庭の隅に植えられた金木犀の香りが傍を通る生徒たちを包んでいる風情は秋の風景としてとても好もしく感じられます。金木犀の香りは良いに決まっているという批判もあるかもしれませんが、「香りよし」と断じることで季節の移ろいが私たちに呉れる恵みを確認しているとも言えます。

病床へ届く名月暦照らす                陳康
病に伏しているベッドのそばのカレンダーを月の光が照らしている、という月と暦を組み合わせた着想は素晴らしいと思います。病の床にいて夜遅くまで眠れず、白々とした月の光に照らされたカレンダーを見ていると、病み始めてからの日数だけでなく、人生そのものの来し方を振り返ることにもなるでしょう。しみじみとした雰囲気が感じられます。「暦照らす」は「れきてらす」と5音で読むには無理がありますので下記を参考にしてください。
 参考句:病床の暦(こよみ)明るき月夜かな
   (「月夜」は季節を問わずありますが、俳句では秋の季語になります)
     病みおれば月の光の暦(こよみ)かな
   (「月」だけで秋の季語になります)

秋道の君の目尻に笑い皺             貫真英
秋深まるなか、道を行く君が目尻に笑い皺を見せて楽しげに笑う、そんな情景が浮かんできます。ただ、「秋道」は意味は分かるとしても無理のある表現かと思います。「秋道の」ではなく「秋の道」とすれば良いでしょう。ここで「君」とは誰を指すのかが気になりますが、女性(例えば妻)であればたとえ笑い皺であっても皺という言葉を嫌がるかもしれません。下五に「笑い皺」を持ってくるとどうしても皺が強調されてしまうので、笑い皺ができるほど朗らかに笑ったということに主眼を置いてみてはどうでしょうか。その場合、「道」という場所を言う必要はないので、秋の雰囲気を表す「莢か(さやか)」、秋麗(秋うらら)、秋高し=天高し、などを使った方が、朗らかで爽やかな笑いを連想させて読む側も気分よく読めるように思います。
 参考句:笑い皺見せて弾けて天高し

昨日聞き今日は聞こえず秋の蝉           貫隆夫
今年は気温の高い日が遅くまで続き、私の住む地域では10月1日にも蝉の声が聞えました。それでも翌日はもう聞こえませんでした。最後に一匹だけ残って鳴いても、相手を見つけてうまく子を残せたかどうか気になります。

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 【2019年9月15日〆多文化研俳句まとめ】

 9月15日〆の投句のまとめです。香港のデモの様子など気になることがたくさんありますが、実りの秋を迎え皆さんのご健闘を願っています。(投句順)

盆に集い従兄弟の顔や先の叔父             陳康

 盆に親戚が集まるという風習が今も中国で続いていることが分かり、なにかほっとする思いがします。叔父の子供である従兄弟の顔が、成長するにつれ、ますます亡くなった叔父の顔に似てきて、やさしくしてくれた叔父のことが懐かしく思い出されるという句意が伝わってきます。「先の」叔父、という表現は日本語として分かりづらいので、亡き叔父、とした方が良いと思います。
参考句:盆に集い従兄弟の顔は亡き叔父に
     盆に集い従兄弟の顔に偲ぶ叔父
     盂蘭盆会 亡き叔父に似る 従兄弟かな

厦門から俳句を運ぶ秋の海               川村千鶴子

 厦門から俳句が届くのはほんとに嬉しいことですね。グローバルエスノスケープという言葉を実感します。厦門は海外の都市なので「秋の海」という言葉が合っているかもしれませんが、「運ぶ」主体を意識すると「秋の風」のほうが良いかもしれません。俳句を届けるのはインターネットだと気にされる方は、「厦門より俳句の届く秋の夜」とすると、灯火親しむ秋にふさわしい文学的詩情が出てくるように思います。

長月や 海峡超えし 栗を剥く              増田隆一

 東京でこの句が詠まれる場合、この句の「海峡」は日本列島間の海峡なのか海外から運ばれてきたこと(天津栗?)を表す言葉か、読者の想像に任せられているようです。長月(ながつき)は旧暦9月の異称でほぼ新暦の10月に当たります。当然、秋の季語なので栗(秋の季語)と季重なりになるので、ここは避けたいところです。
参考句:男一人海峡越えし栗を剥く
     病む父に海峡越えし栗を剥く

荒野分 千葉よ負けるな ニュース見る        増田隆一

 今回の台風禍は千葉が最もひどかったようですね。停電が何日も続くのは大変つらいことだと思います。野分(のわけ)は現在は台風と呼ばれる秋の暴風を意味します。今度の台風は雨よりも風が猛烈に強く、私の家も庭木が3本吹き倒されました。まさしく荒野分が適切な季語だと思います。

中秋に 汗を拭く夜 月見えず             増田隆一

 今年は涼しくなるのが遅く、最近まで汗を拭く場面がありましたね。暑いし、忙しいし、大変だったことと思います。中秋はもちろん秋、汗は夏の季語、月は秋の季語なので季語を整えましょう。秋だけど汗をかくほど暑いという体感を詠みたいのであれば、秋と汗が同居しても構いませんが、秋の暑さには「秋暑し」という季語がありますので、これを活用することも一つの方法です。
参考句:秋暑し月見ぬままに更けにけり
     月もなく汗拭くほどに秋暑し

墓参り来る人はみな歳をとり            貫真英

 墓参りは季節を問わず行われますが、特にお盆の際に多いので季語としては秋になります。墓参りする人もだんだん年を取って老いてゆく。確かに句の通りの情景が思い浮かびます。芭蕉の句にも、「家はみな杖に白髪の墓参り」というのがあり、歳時記の例句として出ています。
 参考句:集う人みな老いにけり墓参り
      来る人も齢を重ねて墓参り
 関連川柳: 手を合わす人もいつかは合わされる   (作、貫隆夫)

神仏(かみほとけ)仲良きところ花芙蓉(はなふよう)  貫隆夫

 最近、私の属する俳句グループ「まだん」の一泊吟行に参加しました。吟行地は滋賀県(しがけん)の比叡山延暦寺と京都の大原・鞍馬寺でした。延暦寺の麓の坂本には日吉神社があり、近江は神仏が仲良く同居する地です。京都大原では寂光院と三千院を訪ねましたが、寂光院でたまたま院主様のお話を伺う機会がありました。
寂光院も神様と仏様が同居されているお寺だそうで、ある時、寂光院の庭にお地蔵様の像を置いたところ、夢に神様が出てきて「あそこは私の場所だから困る」と言われ、お地蔵様を同じ庭の別の場所にお移し申し上げたそうです。

                        (講評 貫隆夫)

(撮影:川村千鶴子 カナルカフェより)

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 【2019年8月15日〆多文化研俳句まとめ】

 母方の郷里の鹿児島県(薩摩川内市)に墓参に行き、昨日帰宅しました。西郷隆盛を担いだ西南の役では母の一族からも二人戦死者が出ました。第二次大戦末期に特別攻撃隊が飛び立った知覧にも行ってきました。日本の8月は戦争の記憶の月でもあります。         (文責:貫隆夫、投句順)

手のひらの目庇まぶし秋立ちぬ          増田隆一

 秋立つとはいえ、特に今年は、まだ夏の盛りが続いており、手のひらを目庇にしても夏の光がまぶしい、という句意がよく伝わってきます。「秋立ちぬ」とすると、なにかその証拠と言うか、秋の雰囲気を感じさせるものを期待してしまうので、下五の「秋立ちぬ」は「秋立つも」と、秋立つはずであるのに、と詠ませたほうが良いかも知れません。

蟷螂(とうろう)の鎌の早さやセミ叫ぶ      増田隆一

 蟷螂(とうろう、カマキリ)がその鎌を使って目にもとまらぬ速さで蝉を捕まえた、という夏の虫たちの営みが伝わります。「早さ」→「速さ」。セミ叫ぶ、と言うとリアルすぎて詩的ではないので「蝉を捕る」くらいにしてはどうでしょうか。
 参考句:蟷螂の鎌の速さや蝉を捕る

秋立てど 人だらけの海 歌はウソ        増田隆一

 「誰もいない海」という歌の中に、「今はもう秋、誰もいない海」という歌詞がありますね。私の好きな歌です。しかし、歌詞の「秋」は立秋になったばかりの秋ではなく、9月末か10月くらいの、本当に秋らしくなった後の秋なので、「歌はウソ」というのはやや不当な言いがかりに聞こえます。
 参考句:秋立つも人多くして海温し(ぬくし)
      ( 「温し」、は一般的には春の季語です)

二歳児や海取ったよと浪掬い            陳康

 蒸し暑い猛暑の日が続いています。厦門は日本よりもっと南なので東京よりさらに厳しい気候になっているかもしれませんね。
 二歳児の子供さんの発想が新鮮で素敵です。「掴んだ」よりも「取った」の方が読み手に伝わるのではと思います。捕まえた、という意味で「捕った」という文字もあり得ますが、海全体を捕ったわけではないので、ここは「取った」が一番無理がない表現と思います。
「浪掬い」か「浪掬う」かという点は、「浪掬う」が良いと思います。「浪掬い」とするとやや川柳的な下五になります。
 参考句:二歳児や海取ったよと浪掬う
     浪掬い海を取ったと言う二歳

うだる中涼しく語れ温暖化         陳康

 作者の説明にあるようにトランプ氏を連想させるのは無理なので、下記のようにしてはどうでしょうか。
 参考句:温暖化を嘘という説 炎暑かな

まだまだと線香花火応援し               貫真英

 線香花火はパチパチと火花を出す間、いつ玉がポタリと落ちてしまうかハラハラしながら見守ることになります。「応援」という言葉に共感を覚えます。応援の対象が線香花火そのものなのか、線香花火を手に提げている子供なのかは意見が分かれるところかと思います。「応援し」とするとやや川柳っぽい感じになるので、「応援す」としました。
 参考句:まだまだと線香花火応援す
     線香花火ポトリと落ちて闇深し

蝉時雨突破して行く救急車                貫隆夫

揖斐川付近(撮影:増田隆一)

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梅雨の鬱陶しい日が続いておりますがお元気でお過ごしでしょうか。
7月の俳句をお送り頂き有難うございます。皆さんの句を詠ませて頂きました。

今回、皆さんから送られた俳句を見ると主観的表現の句が多く見受けられました。俳句の基本は客観写生と考えております(これはあくまでも一つの見方ですが・・・)。絵を描くときと同じように、写生するポイントをどこに設定するか(焦点は何か、何時、何処で)が重要となります。これは易しいようで実に難しい。いろいろ言いたいことが有っても17文字で表現するには限りがあります。ですから、焦点は一つが良いです。何時は、季節を表す言葉。何処では、場所の設定。3つのことをイメージしながら作句されたら宜しいかと思います。
 
 それでは、以下順番に講評させて頂きます。

多文化研バーチャル句会
2019年7月

六月の葉擦れの軽い国に居る      貫隆夫 ポーツマスにて

→ポーツマスはアメリカと思っていましたが、英国にもあることを知りました。
 風光明媚な処のようで良い思い出となったことでしょう。
 さて、俳句ですが、「葉擦れの軽い国」が、やっかいですね。直感で思ったこ
とは、風が穏やかで葉擦れの音が清々しく感じられるところと読み解いてみました。そう解釈すると景がやや見えてきますね。
なかなか良い句に見えてきましたが、作者のコメントも聞いてみたいです。

異国には異国の花の夏野かな 貫隆夫

→吟行句として、この句は出来上がっています。焦点・季節・場所は、異国の花の夏野。ただ、作者にとっては実景であったであろうが、英国の夏野を知らない読者にはその景が良く見えない。もし、我々も同じ風景を見ていたら大いに共感が得られたことであろうが・・・。
 この句から小生がイメージしたのは、

 異国には異国の花や夏館

 
雨に濡れ輝きを増すバラ一輪      川村千鶴子

→この句はやや主観の強い句に仕上がっています。
 作者の思い入れは理解できますが、作者の思い入れだけでは俳句は成り立ちません。読者の共感が必要です。
このような場合は、場所の設定が欲しいです。例えば、

 小雨ふる出窓に凛とバラ一輪

雨じゃあじゃあ折られし蓮や茎静か   陳康@アモイ

→この句の焦点は、「蓮の茎静か」。季節は夏、場所は蓮池。設定は出来上がっています。後はどのようにしたら俳句的表現になるかです。
 「雨じゃあじゃあ」は、「土砂降り」(どしゃぶり)としたら良いでしょう。

 土砂降りに折れたる蓮の茎静か
 
七夕に星ひとつなし傘の上       増田隆一

→雨降りの七夕を婉曲的に表現された。狙いは面白い。ただ、この句の中で、「星ひとつなし」はいらない。傘があるから説明する必要ありません。ただ、「傘の上」を生かす言葉がなかなか見当たりません。そこで、素直に作ってみました。

 七夕や傘差し見上ぐ庭の子等

蚯蚓が土を探すや濡れ歩道      増田隆一

→何気ない景を俳句にされた。その意気込みは買いたいと思うが、俳句に仕上げるのはなかなか難しい。上五の「蚯蚓が」は「みみずが」と4文字、従ってこの句は破調、やや散文調となっている。狙いはそこにあったとお見受けするが字足らずは否めない。「土を探す」は作者の主観、本当のところは判らない。

 濡れ舗道の蚯蚓くねくね何処目指す

                           以上

                   (講評 まだん 神山 洋

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俳句は共感の文学とも言われており、本来は、お互いが顔を見合わせながら句座を囲んで句会の中で発表し、選句、講評し合うというものです。
今回は、投句を講評するというお互いに顔の見えない一方通行の形で講評となります故、作者の意図とは異なる解釈をすることがあります。その点はご容赦の程お願い申し上げます。
                  神山 洋

多文化研バーチャル句会
2019年6月

分相応の庭の広さやミニトマト    貫隆夫
→この句は、作者の謙虚な人柄が現れた素直な句に仕上がっている。
分相応とミニトマトがマッチして、共感を呼びます。
主観は入らないが主張はしっかりしている。これは俳句の醍醐味です。
 
ラマダンの明くる朝かな夏燕    芹澤健介
→ラマダンは年によって日程が変更する。2019年度は5月5日~6月4日とある。正に熱い月だ。ラマダン明けの朝と言えば、イスラム教徒であれば誰でも清々しい気持ちになるであろうことは、日本人の我々でも想像はつく。
その朝の清々しい気持ちを祝うように夏燕が飛来する姿もやはり清々しく感じられたことであろう。詠嘆の「かな」の使い方が巧い。また、季語として
の「夏燕」がピッタリと合う見事な句に仕上がっている。
この句も主観はないが自己主張はしっかりしている。

純白のスズランの花夢運ぶ    川村千鶴子
→2019年5月1日は皇太子殿下が天皇陛下に即位された日で、令和元年を象徴する日である。一方、欧州では、この5月1日にスズランの花を贈ると幸せが訪れるという言い伝えがあるとのこと。この逸話を懸けてこの句が作られたと思われる。敢えて「純白のスズラン=花嫁衣裳?」を「夢」と繋げたところに作者の意図が垣間見れるが、作者の思いの強いやや判りずらい句になっている。
 
帰りしは去年(こぞ)の番いか燕の巣  陳康
→燕は、春ごろに日本に飛来し、巣作り、卵を産み、子育てをして夏の終わりから初秋にかけて南の国へ子燕と共に帰ってゆく。去年の巣を探して飛来する番も多く、それを楽しみにしている家も多くあると聞く。
その意味で、「燕の巣」は秋の季題となる。やや説明っぽいが、俳句としては一応出来ている。
尚、(こぞ)は要らない。
帰りしは去年の番いか燕の巣

ひなの声母に届くや夏燕    原田壽子
→心温まる句です。視点が良いですね。作者の優しい心根が窺えます。
ただ、敢えて言うと、季語の夏燕が微妙に難しいポジションにある。(他の鳥でも当てはまる) 例えば、 子燕の口空く方に母の顔

梅雨寒やネットカメラの母寂し    増田隆一
→ネットカメラとはネットワークカメラのことで、所謂、監視カメラと了解する。ご自宅におられるお母様を監視カメラを通して仕事場からPCで監視している状態と思われる。そんな時代になったかと、我が身に振り返ってやや辛い気持ちになった。暗い言葉を並べると読者の気持ちも暗くなる。
この句の場合は、例えば、 
梅雨晴れやネットカメラの母寂し
とした方が良いです。

母連れて苗田の脇の父見舞う    増田隆一
→俳句として出来上がっています。良い句ですが、お母様は監視カメラで監視、一方、お父様は、見舞うとある。ご両親ともお体が悪いようにお見受けするが如何ですか。

桜桃の甘さ子供の日の記憶    増田隆一
→この句は二重季語となっているが、問題は無さそうだ。主題はあくまでも桜桃である。「子供の日の記憶」に共感。
桜桃(さくらんぼ)は、最近は身近に手に入るものとなっているが、小生の子供の頃を振り返ると、あまり食べられなかった記憶がある。流通が難しかったのか、値段が高かったのかは知らぬが、そんな時代が長く続いたと思う。
佐藤錦の一粒の甘かったさくらんぼのことがふと蘇った。

スマホ見る人々の上 夏燕    貫 真英
 →この句には場所の設定が必要。どこでスマホを見ているかがカギとなる。
 例えば、
鄙の駅でスマホ見ている夏燕

夜の食愛を溢れるパセリの香      ラビ マハルザン
→パセリは歳時記には無いが、花が夏に咲くことから、夏とします。
パセリは独特の匂いがあり、食べる機会は余り無いが豚カツの付け合わせのパセリは好んで食べる。
この句から感じられるパセリは家庭料理で良く使われているように思われる。それを踏まえて鑑賞したいと思う。この句は一部手直しが必要です。
夜の食→夜食
愛を溢れる→愛の溢るる
パセリの香に愛の溢るる夜食かな
とすると、俳句らしくなる。

以上          講評 神山 洋(まだん)

(父の日の花屋にて)撮影:増田隆一

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【2019年5月15日〆多文化研俳句まとめ】

令和の年号になってはや半月が過ぎました。10連休も過ぎてしまえばあっという間ですね。5月は春から初夏への季節の変わり、風光る(春の季語)から風薫る(夏の季語)へと変わる季節でもあります。薫風(くんぷう)のなかで
今を生きている皆さんから下記の俳句が投句されました。(投句順)

高尾山トリックアートに春惜しむ        川村千鶴子

トリックアートは目の錯覚を利用した画像や動画のこと、高尾山のトリックアート美術館ではきっと普通の美術館とは違う感興を得られたことでしょう。私も行ってみたいです。高尾山は自然豊かな場所なので去り行く晩春の風情も楽しまれたことと思います。

変わり映えしない駅前芥子坊主        芹澤健介

日本のモノづくりは世界に誇るレベルだと思いますが、マチづくりは欧米に比べて見劣りするとかねがね感じています。たいていの駅前でまず目につくのは銀行、パチンコ屋、ファーストフード店、チェーン店の居酒屋、カラオケ店
等、かなりワンパターンです。そこを「変わり映えしない駅前」と詠まれたのには「よくぞ言ってくれた」と強く共感します。芥子は繁殖力の強い草なので、ちょっとした空き地に薄い橙がかった貧弱な赤色の花を咲かせているのをよく見かけます。ありふれたもの同士,変わり映えしないもの同士の組み合わせが、いわゆる「つきすぎ」とはならず、絶妙の組み合わせになっています。

雛の声 母を呼ぶかや つばくらめ         増田隆一

燕(つばめ、つばくろ、つばくらめ)は人家の軒先に巣を作ります。ひな鳥が巣から身を乗り出すように精一杯口を広げて親鳥に餌をせがむ姿を子供の頃はよく見かけたものです。駅のプラットホームの屋根の下に巣をつくる姿も普通に見かける光景でしたが、最近は燕の巣を見かけることが少なくなりました。雛が親を呼んで鳴くのは「呼ぶかや」と疑問するまでもなく「きっとそうでしょう」ということになりそうです。「父親も餌を運んでいるはず」というのは理屈を言いすぎることになる?

蕗炊きて京都想いし凍み豆腐

凍み豆腐(しみどうふ)は高野豆腐(こうやどうふ)とも言われます。歳時記に冬の季語として、「豆腐を小さく切って屋外で凍らせた後、それを天日に乾かして作ったもの。最近は冷凍装置で大量生産する」とあります。蕗は拙宅の庭にも今現在かなり自生して「夕食のおかずに蕗を炊こうか」と話す時期なので、夏の季語ですが、凍み豆腐は保存食なので初夏になって蕗と炊き合わせておかずにすることは十分に考えられます。

首かしげ重ね着さがすリラ冷えかな

「リラ冷え」というロマンチックな言葉をよくご存じですね(私は知りませんでした)。「花冷え」という言葉は桜の花の咲くころに再びうすら寒くなることを言いますが、「リラ冷え」もリラ(春の季語)の咲くころに感じる寒さとして札幌などで使われる季語のようです。「もう春になってかなり経つのに何だこの寒さは?」と首を傾げながら重ね着(かさねぎ)を探している姿が親近感をともなって浮かんできます。(重ね着とは寒さを感じた時にもう一枚重ねて着ること、あるいはその衣類をいいます。冬の季語)。「首かしげ」の上五、「リラ冷えかな」の下五が響き合って素敵な軽味(かろみ)の句に仕上がっています。

見上げみる春もみじ葉や川面にも        原田壽子

種類にもよるでしょうが、4月後半のもみじはすでに美しい新緑(夏の季語)を見せるものがあります。落葉の季節ではないので、「川面にも」の下五は。そんなもみじの木が傍の川面にも枝垂れている光景を詠まれたものと思います。「見上げる」には「見る」という動作が含まれていますので、「見上げみる」の「みる」は取りましょう。「川面にも」と詠むからには目線が下がって川面にも及んでいるはずなので、「見上げみる」という上を見ている目線と「川面にも」の下五は矛盾するのではないでしょうか。
どちらか一つを選ぶとして、川面に行く目線を選択する場合、下記のように詠んではどうでしょうか。
参考句:川面まで枝垂るる春のもみじかな

五月晴れ年少さんも走りゆく          貫真英

「年少さん」とは幼稚園の学年呼称なので、きっと運動会の風景を詠まれたものと思います。運動会はもともと秋に行われるのが普通でしたが、最近は初夏に行われることも多くなりました。年少の児が一生懸命走る姿は、その子の親でなくとも胸が熱くなるものがあります。幼稚園の運動会は年長組や年少組それぞれが走るプログラムがあることは周知のことかと思いますので、中七の「年少さんも」の「も」は避けた方が良いように思います。
参考句:駆けっこの年少さんや五月晴れ

母の日と妻の嬉しい長電話           ラビ・マハルザン

女性は長電話が好き、長電話できる能力がある、とかねがね男性の私は思っています。作者の奥さんは母の日に郷里の母親と、ふだんは節約して控えている長電話ができて喜ばれたことでしょう。「母の日と」の「と」は「母の日であることを理由として」という意味を持ちますので、やや説明的な印象を与えます。「嬉しい」は素直な表現でそのままでもよいかも知れませんが、「嬉しい」を少しオーバーに表現して「嬉々として」という言葉にしてみました。
参考句:母の日や妻嬉々として長電話

蜘蛛の子のかくも小さく独歩かな        貫隆夫

蜘蛛の子(季語は夏)が目を凝らさないとそれとわからぬ大きさで壁伝いに独り歩きをしていました。こんなに小さな体で餌をどうやって確保するんだろうと思いました。歳時記には「袋の中のクモの卵が孵(かえ)ると、袋が破れ、中からいっせいに子グモが出てきて四方に散ってゆく」(角川俳句大歳時記)との説明があります。

(文責  貫隆夫)

ツツジとアゲハチョウ

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【2019年4月15日〆多文化研俳句まとめ】

4月は新しい年号が発表されるなど、花の季節の華やぎの中にも一つの時代が終わり新しい年号の下で新たな時代の始まりを予感させる時代代わりの季節でもありました。今回もみずみずしい感覚の俳句をたくさんいただきました。(投句順)

菜の花や時代を見守る逞しさ        川村千鶴子

菜の花はもともと菜種から油を取ることを主目的としていましたので油菜(あぶらな)とも呼ばれます。しかし、近年は若い茎や葉、蕾を食用としたり切り花とするための栽培が多くなりました。子供の頃は黄色がひろがるいち面の菜の花畑を目にしましたが、最近は畑の脇や市民農園などで見ることが多くなりました。写真にあるように堀の土手などに野花のように咲いていることもありますね。菜の花は確かに逞しい。牡丹(ぼたん)や芍薬(芍薬)のように大切に育てられる花ではありませんが、注目されないぶん、逆に周囲、さらには時代の流れを人知れず眺めているのかも知れません。「見守る」とは単に見ているのではなく、菜の花として咲いている今現在が良き時代であってほしいという菜の花から我々への愛のまなざしを作者が感じているのだと思います。

世事多し我をねぎらう花筏         増田隆一

花筏(はないかだ)とは散った桜の花びらが、あたかも筏のように、池や川面に固まったり連なったりして浮かんだり流れたりする様子を指していう風流な言葉です。作者は世事の処理に追われる慌ただしい日々の労苦を花筏を目にすることで心安らぎ、少しの間、自分がねぎらわれたように感じたのでしょう。
前掲「菜の花や~」の句にある「見守る」も、この句の「ねぎらう」も俳句の世界ではなるべく避けるべきとされる擬人法(客観写生ではないから)が使われていますが、花筏を見ることで「ねぎらわれた」と感じる作者の気持ち(すなわち作者の主観)は世事の多さに耐えている作者の状況を読む側にしっかり伝えていると思います。

幼子の話し言葉か目白聞く          増田隆一

目白が鳴いている様子にまだ修練を積んだ感じがなく、幼児が話し始めた頃のたどたどしさを感じたという句意かと思います。目白は夏の季語ということはさておくとして、鳥の声の幼さを指す言葉に鶯(うぐいす)の笹鳴(ささなき)が挙げられます。実際は鶯は冬にはすべて成鳥となっており、「チャッ、チャッ」という舌打ちに似た地鳴きは冬の鶯のすべて、すなわち親子、雌雄を問わない鳴き方であると歳時記に出ています。笹鳴に関する目白と鶯との混同が読み手に疑問符を抱かせる主原因かと思います。

花冷えや父母を思いて野菜煮る        増田隆一

桜が咲いて、「春になった」「もう冬物はしまい込むか」と油断しているとまた気温が下がって寒さが戻ることを花冷えと言います。故郷に住む父母はこの花冷えの夕方にどんな料理を作ろうとしているのかと思いながら自分は野菜を煮ているという光景、日常の中にあるしみじみとした人生の一コマが伝わってきます。

春雨に照れるのか池霧隠れ        陳 康

水蒸気が地表近くで凝結して煙のように漂い視界を悪くする現象を春は霞(かすみ)と言い、秋は霧(きり)と言います。気象用語で靄(もや)は水平視程が1キロメートル以上の場合に使われ、季語にはなりません。「雨を欲しがるはずの湖が、霧の下に隠れたのが、まるで恋愛中の、はにかむ少女の様に思えました」と作者による説明がありました。「春雨」という春の季語は「霧」という秋の季語と矛盾するのでまず「霧」」を「霞」に変え、「霞」はそれだけで春の季語なので「春雨」とする必要はなく、たんに「雨」で良いとします。
参考句:雨しとど池は霞に隠れけり(「しとど」は雨にひどく濡れるさまを言います)、あるいは、
雨降るや池は霞に隠れけり

清明や墓碑色浅く草深し         陳 康

「毎年の4月5日前後は中国の清明節で、日本のお盆のように、お墓参りの日です」と作者の説明がありました。墓碑の色が「浅い」ということが墓碑が建てられてまだ日が浅く、したがってくすんだ色にはなっていないのに、もう草は丈高く伸びてしまっていることを詠んだ句と受け止めました。「浅く」と「深し」という対比が、安易な対比ではなく、すぐれた漢詩のような味わいを出しています(墓碑という言葉を使うことへのためらいを述べておられましたが、特に避けるべき言葉ではありません)。

号外を敷いて見上げる桜かな       芹澤健介

号外という言葉で今現在の我々が思い浮かべるのは平成の後の元号が令和と決まったことを知らせる最近の号外です。その号外をどこかで受け取ってそのまま公園を歩き、桜の花があまりに見事なので貰ったばかりの号外を敷いて腰を下ろし、見上げている。元号が代わろうとする時代性と桜の花という季節性が見事に統合されていると思います。貰った号外を家に持ち帰って大事にしまっておくという行動もあり得るでしょうが、「(尻に)敷いて」という言葉にモノや権威にとらわれない自由人としての作者の生き方が現れているように思います。

好きな子は別の制服春の道        貫 真英

春は進学のシーズンでもあります。好きな子が「別の制服」ということは自分とは別の学校に進学したということなので、ある意味「別れ」でもあります。軍関係でもない学校の生徒に制服着用が義務付けられるというのはかなり日本特有な現象かと思いますが、偏差値で学校がランク付けされているなかで制服を着なければならないことは下位の学校の生徒にとってつらいものがあり、下位校の生徒の作文にあった「(制服がレインコートで隠れてしまう)雨の日が嬉しい」という文章を思い出してしまいます。「好きな子」が着ている制服が上位校の制服なのか、下位校の制服なのか、それとも単に女子校に進学したからそうなったのか、状況次第でこの句の含意が変わってきます。

葉桜を楽しむ鳥はアトリかな        ラビ・マハルザン

鳥の姿や鳴き声から鳥の種類を特定できる人はそれほど多くありません。葉桜に見え隠れする鳥の姿を眺めるだけでなく鳥の種類を考えようとする作者の姿勢にまず敬服します。私自身はアトリという鳥を見てもそれがアトリだと認識する自信がないだけでなく、「アトリかな」と思う推測の気持ちも湧いてこないのではないかと思います。ただ、「楽しむ」という擬人化は、作者に「楽しんでいるように見える」だけで、鳥にとっては葉桜の中で餌になる虫を懸命に探しているだけかもしれません。

赤よりも赤くなってるチューリップ     ラビ・マハルザン

チューリップには赤、白、黄色など、いろんな色がありますが、なかでも赤は単純でいて深い赤色で我々の目を射抜く鮮やかさがあります。そのチューリップの赤を何とかして俳句に詠みたいという作者の気持ちはよくわかります。
最初の「赤」がなんの「赤」なのか、我々のイメージの中の、たとえば赤鉛筆や赤絵具で書いた「赤」と比べてそうなのか、比較の基準を具体的に示すことができればと思いますが、難しい課題ですね。
参考句:描き切れぬ赤を咲かすやチューリップ

散り初むるさくら昭和17年の戦死者        貫隆夫

今回の私の投句は五七五ではない破調の俳句です。戦死者を桜にたとえるのは戦争美化につながるかもしれませんが、私は散り始めの桜を見ると昭和16年12月8日に始まった「太平洋戦争」における昭和17年の戦死者を連想します。太平洋戦争の最初の1年にももちろん戦死者は出ていましたが、それでも昭和18年以降に比べると圧倒的に少ない比率です。同級生ですでに亡くなった友人たちを思うこともなくはありませんが、私にとってはなぜか太平洋戦争初期の戦死者です。皆さんとの年代の違いが現れていますが、ここは1942年ではなく、昭和17年が私に納得できる表記です。日本固有の年号は時に煩わしく思われ、グローバル化の進展とともに使われる頻度が少なくなるでしょうが、これも日本文化の一つとして残ってほしいと願っています。
(文責 貫隆夫)

目黒川桜祭り
(目黒川 撮影:増田隆一)

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【2019年3月15日〆多文化研俳句まとめ】

3月は年度末や確定申告など、師走12月よりも忙しい月であるようです。それでも日に日に暖かさが増してくる感覚は楽しいものです。お忙しい中、次の投句を頂きました。(投句順)

梅咲いてさび色の芝鳥の声             原田壽子

枯芝のさび色はまだ変わらないが梅が咲き、鳥の声が聞える春がやって来た、という句意は伝わってきますが、「梅咲いて」「さび色の芝」「鳥の声」をつなぐ言葉
がないので、いわゆる”三段切れ”になっており、この点の改善が必要かと思います。花は咲いているから花という(咲いていなければ蕾)との観点に立てば「咲いて」も省略できる言葉かと思います。梅という春のしるしが既にあるなかで過ぎた季節の象徴である「さび色の芝」を持ってくる必要もないように思いますので、盛りだくさんになることを避けて、「梅」「芝」「鳥」のうち「芝」を省きましょう。
参考句:梅香る小庭に届く鳥の声

爺も子も新人入りのお正月             陳 康

今回から俳句会のメンバーになられた陳康氏(中国、厦門市)の作品です。当地では旧暦元日の年始回りでは新しく子供が生まれた家に祝意を表し、二日目は昨年葬儀のあった家を回って弔意を示す、という習慣があるそうです。日本とは異なる習慣を学べるのも多文化研俳句会の魅力です。元日の年始回りは日本でも見られる習慣ですが(但し東京などでは少なくなりました)、二日目のお悔やみは日本にはない習慣です。そういう習慣を知っていないとこの句は理解されないと思いますので、習慣を知らない日本人にも分かる句を考えてみます。(いただいた句は、子供がこの世界に新人として入ってきたということは分かりますが、爺が新人として入って来た、というのは厦門の習慣を知らない人には理解されないと思います)。
参考句:新年や去年(こぞ)逝きし人生まれし児(こ)
(「し」は過去を示す文語体です)
あるいは、
逝きし人生まれし赤子(あかご)いて新年
しかし、上記の句では旧暦正月の厦門の習慣は詠まれていません。
元日と二日目を分けて、
初見えの赤子に出会う年賀かな
去年逝きし人ある家を見舞いけり(「去年(こぞ)」は新年の季語です)

新緑の後ろに過ぎる白髪かな           陳 康

新緑の緑と頭髪の白が対比されている面白い句ですね。今年も新緑は色鮮やかに輝いているのにそれを眺める自分の髪は白髪交じりになってきているという人生の哀歓を感じさせる句の意図が伝わるかどうかは「後ろに過ぎる」という中七の働き次第かと思います。
参考句:新緑の変わらず髪に白きもの
(ここで「の」は主格を示す「は」と同じ意味を持ちます)
樹(き)は新緑(みどり、とフリガナを付けます)吾が黒髪に白きもの
新緑の傍らに立つ白髪(しらが)かな
(白髪、という言葉で白髪頭の人物を表せます)

春彼岸待ちて薫るや沈丁花            増田隆一

沈丁花の花が咲く時期を示した句ですが、年によって多少差があるとはいえ、沈丁花はお彼岸頃に咲く花なので、「それって当たり前でしょ」という批判があり得ます。春彼岸、沈丁花とも春の季語なのでいわゆる季重なりとなっていますが、どうしても季重なりにしないと表現できない内容ではないので、やはり避けるべき季重なりです。
参考句:どこからと知れず薫るや沈丁花

校庭に河津桜の紅がすり             増田隆一

早咲きの種である河津桜が校庭に咲いて紅絣のようだ、という句意は良く伝わります。校庭と桜はよくある取り合わせなので、いわゆる「つきすぎ」になるかもしれません。

新調の長き裾よし一年生         増田隆一

この句には季語がありませんが、句の雰囲気から新一年生(したがって季節は春)が少し大きめの学童服を着ている初々しい感じが良く伝わってきます。
「よし」という短い2音で作者がこの新一年生を愛情をこめて温かく見ている感じが的確に表現されています。

枯れ草の間に芽吹く土筆かな       貫真英

土筆(春の季語)はまだ周りが枯草(冬の季語)である時期に頭を出してくるので、この句はその状況を詠んだものかと思います。土筆が頭を出した写真は春の訪れを表す光景として新聞でも時々見かけます。土筆は周りが緑になる前に生えてくる故に春の先兵たり得るのでしょう。とすると、「土筆って、そういうものでしょ」という反応があり得ます。「見たままを素直に詠む」ことと、そこに何か新鮮な発見を含ませることとの両立は、難しい課題ですね。

春の風こころに届くあたたかさ       ラビ・マハルザン

春風の暖かさが悩みを抱えた自分の心までも暖めてくれる、という季節の感じが素直に表現されています。「暖か(あたたか)」は春の季語なので「春の風」と季重なりですが、ここは春風の暖かさに注目した句なので季重なりで構わないと思います(「梅一輪一輪ほどの暖かさ」(嵐雪)という有名な句も季重なりです)。春風が「こころに届く」とするか「こころを包む」とするかは迷うところですね。

また別の春もありしか鏡見る       芹澤健介

この句には共感を通り越してぐさりと心を刺す力を感じます。「ありし」は過去ではなく「別の春があったかもしれない」という仮定を表していますが、初恋の人と結ばれて、ずっと仲良く暮らして一生を終えるという人でもない限り、この句で詠まれた仮定の問いは、たとえ現在を平穏に暮らしている身にも迫ってくるものがあります。若い時代とは変わってしまった自分の顔を見ながら、華やぐ春の季節のなかで、二度とはない過去を振り返って仮定形の問いを自らに投げかける「鏡見る」という下五が効いています。夏でも、秋でも、冬でもなく、あくまで別の「春」でなければなりません。春という単純な季語がこんなに動かない句は珍しく貴重だと思います。

年寄りが叱られていて木瓜(ぼけ)の花      貫隆夫

認知症になられたご近所のおじいさんが庭に出てきたところを、「そんな足元で外に出てきちゃダメでしょ!」と叱られていました。                    

(文責 貫隆夫)

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【2019年2月15日〆多文化研俳句まとめ】

今年は平成最後の年、それも4月まで。節目の月日を大切に過ごしたいと思いながらも、はや2月後半。雪の少ない冬でしたが、インフルエンザが流行る中で、皆さんそれぞれご多忙に過ごされたかと思います。今回は以下の投句を頂きました。(投句順)

手のひらに未来を託す春の風            川村千鶴子

写真に写っている赤ちゃんの指の先の爪に感動しました。この写真に込められているメッセージをどう受け取めるかは大変大きな課題です。
写真俳句というジャンルがありますが、一枚の写真があり、それに一句を付けるスタイルも現代の俳句のあり方の一つですね。赤ちゃんの小さな手のひらと、これから生きる人生の大きな大きな可能性。様々な命が目覚めていく春の季節の中で赤ちゃんの手を見ている作者の愛情が伝わってきます。

わが道の行く先示せ春立ちぬ           増田隆一

春は誕生と出発の季節ですが、その春がスタートしたのに自分の行く先がまだはっきりしない状況はもどかしいものですね。「行く先示せ」を誰に向かって言っているのか、結局、自分自身に問いかけるほかないわけですが、人生がますます長くなる現代にあって「行き先」を明確にすることは大切でありながら、なかなかはっきりしない課題でもあります。
参考句:行く先の見えぬわが道春立ちぬ

節分の緩む日差しや猫あくび          増田隆一

節分となり日差しが緩んできて猫があくびしているという情景が良くわかる句です。「猫あくび」という下五がのんびりというより川柳的に軽い感じになっているので、下記のような句も考えられます。
参考句:節分や猫のあくびに日の緩む

空港へ急ぐ早朝梅を見る              貫真英

旅立ちの慌ただしい中の投句、敬意を表します。
花は咲くもの、咲けば見るもの、という意味では「梅を見る」という下五は「見る」が余計で、工夫の余地があるように思います。どこで(駅までの道、あるいは車窓から)梅を見たのかということもありますが、まだ梅が満開の季節ではなく、咲き始めの時期ということで、梅一輪という言葉を使うことにします。
参考句:外つ国(とつくに)へ旅立つ朝や梅一輪

帰ってきた猫の話で燗重ね                芹澤健介

燗(かん)とはお酒を温めること、熱くすることを言います。とすると、「燗を重ねる」とは燗酒を注いだ盃を重ねることを意味するので、燗→燗酒→燗酒の盃を重ねる、のうち後の2つのステップを飛ばした表現になるので、少し無理があるように思います。居酒屋で「お燗一本頼むよ」と注文するのはよくあることなので、「燗」を「燗酒の入ったお銚子」とすることは可能です。そこで、やや誇張が入るかもしれませんが、男二人の居酒屋風景として下記の句も可能かと思います。
参考句:帰ってきた猫の話で燗五本

平成の最後の雪の色の無く                芹澤健介

「の」という文字が4つある珍しい詩形です。「平成の最後の雪や」とすることも考えられますが、ここはこの句の大胆な詩形を生かしましょう。この冬に降る雪は確かに平成最後の雪ですね。「色の無く」がなにを意味するか、さまざまな解釈があり得ると思います。
①霙(みぞれ)っぽい雪だったので、雪の白さがよく識別できなかった、②白い雪だったけど、舗道ですぐ溶けてしまったので、白く積もることがなかった、③平成という時代に特別な色がつくほどの特徴がなかった、等々。様々な解釈の余地を残す句はそれだけ奥行きのある良句である証拠とされています。

雪少し光を浴びて消え去った          ラビ・マハルザン

少し降った雪が陽の光を浴びて消え去ってしまった、という情景がすぐに目に浮かびます。分かりやすい句なのですが、分かりやすさは、「雪に日が当たって溶けるのは当たり前でしょう」という批判を呼ぶかもしれません。俳句を詠むときに、「それがどうした」という問いは常に想定する必要があります。
参考句:薄雪の溶けて跡なき日向かな

妻からの小さなチョコは大きいな         ラビ・マハルザン

バレンタインの日に奥さんからチョコをプレゼントされるなんて幸せですね。小さなチョコに込められた愛の大きさに感動する作者の気持ちが良く伝わってきます。
慣れない日本の暮らしの中で妻が買ってくれたチョコを食べる時の切ないまでの甘さが想像されます。チョコだけでは季語にならないので上五をバレンタインとしました。
参考句:バレンタイン甘さ切なき妻のチョコ

さび色に枯れたる芝や春を待つ                   原田壽子

きれいに五七五のリズムで句が構成されています。「や」の使い方も適切と思います。枯芝(かれしば)は冬の季語なので、枯芝が春を待つというのも理にかなっています。ただし、枯芝というと誰でもその色はイメージできるので、わざわざ枯芝の色を説明する必要はありません。(菜の花はそのままで色もイメージでき、わざわざ「黄色い菜の花」という必要はないのと同じです)。また冬の木や草が「春を待つ」というのも自然の摂理そのものなので、わざわざ言葉にする必要性はほとんどないように思います。作者独自の気づき、思い、ストーリーを言葉にして、そこに読む側の共感が成立するところに俳句の妙味があります。
立春を過ぎると、枯芝の色は相変わらず枯れた色のままですが、日の光が春めくとともに同じ枯れ色でも少し明るい雰囲気に変わってきます。枯芝(冬)と春光る(春)とあえて二つの季節の季語を使って冬から春への微妙な季節の変化を詠んでみます。
参考句:枯芝の枯れそのままに春光る

降る雪や鴉そのまま黒一点                   貫韓山

(文責 貫隆夫)

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【2019年1月15日〆多文化研俳句まとめ】

新年になってはや3週間を過ぎ、今は寒の最中。21日の大寒の満月は皓皓(こうこう)としていましたね。それでも冬至を過ぎてひと月余、日暮れの時間がはっきり遅くなってきました。人間世界に起こるさまざまなことを尻目に季節は確実に春に向かっています。暮れから新年にかけて頂いた投句は下記の通りです。(投句順)

そりに乗り俳句を運ぶサンタさん          川村千鶴子

「俳句を運ぶサンタさん」、素晴らしい発想に脱帽します。「私にも俳句の神様がサンタの姿になって名句を運んでくれますように」と祈りたくなります。投句に付された「五・七・五という容器に花を活ける気分」という比喩も実に素敵です。

七草がゆ  家族揃って  健やかに        川村千鶴子

正月七日は万病を防ぎ、一年の邪気を払うとされる七草がゆを食べる風習がある日ですが、我が家ではパスでした。七草がゆはもともと健康を願って食すものなので、とても素直な俳句なのですが、「家族揃って健やかに」というのはややキャッチコピー的な感じになってしまいます。七草がゆの味の付け方は家それぞれで違うでしょうから、母上が亡くなられた川村家では下記の句も可能かと思います。
参考句:七草がゆ母亡き後の母の味

初泳ぎ温水プールで富士望む          川村千鶴子

東京の今年の冬は晴れた日が多く、富士山がびっくりするほど近くはっきり見える日が多いですね。温水プールから富士山を眺めるなんて、現代の優雅な東京暮らしの見本みたいな情景です。頂いた句は何も訂正しなくても情景がよくわかります。ただし、「で」という助詞は音が濁るのと、説明的な感じになってしまうので、避ける人も多い助詞です。以下の句も参考にしてください。
参考句: 富士見えて温水プールの初泳ぎ

星さゆる指先冷たし鐘の音          原田壽子

「冴ゆる」(さゆる)も「冷たし」も冬の季語なので、どちらか一つに絞りましょう。
「冴える」「冴ゆる」とは冬の寒さが進んで澄明な感じを持つまでになった状態を指します。そんな夜に冴え冴えと鳴る鐘の音が冷たい私の指先にまで届いてくるという情景は冬の風情を感じさせて、狙いはとてもいいと思います。
参考句:鐘の音の冴えの届くや指の先


凍てる庭わびすけ咲けりお茶立てる     原田壽子

この句も「凍てる(いてる)」(冬)と侘助=わびすけ(冬)が重なります。侘助は椿の一種だと思いますが、椿に比べてシンプルな気品があり、茶席の花としても好まれるようですね。ここでは茶席に活けられた花ではなく、庭に咲いている侘助を見ながらひとり茶を立てる状況かと思います。優雅な感じがいいですね。
参考句: 茶を立てる庭の静寂(しじま)や侘助の花

祝い鯛赤白扇で身を飾り           原田壽子

祝いの鯛は結婚式その他の祝いの席で出される鯛なので季語にはなりません。この句には季語がないことになります。ここでは新年の料理、すなわち「お節料理」の一部としての祝い鯛として鯛を捉えることにします。
赤白は紅白と言い換えた方が皆になじんだ言葉になるかと思います。「身を飾り」という下五はやや川柳的な表現になるので下記の参考句を考えました。
参考句:紅白の扇の鯛や節料理(せちりょうり)

なまはげの去りし後にや藁一本         芹澤健介

地域の伝統芸能・文化が過疎化や少子化の影響を受けて存続の危機にさらされていますが、なまはげはユネスコの世界無形文化遺産に登録されることになりました。仮面の訪問神がおどろおどろしく子供たちを怖がらせ去った後に腰蓑(こしみの)に使う藁一本が残っていた、という情景のイメージが素晴らしい。神の訪れという非日常のハレが去って日常(ケ)に戻った時、ハレの名残り(なごり)が藁一本という対置がとても良く効いています。「に」に「や」が続く原句が良いか、「なまはげの去りにし後や藁一本」という表現の方が良いか、議論が分かれるところかと思います。

「平成」と 書くのも最後 年賀状          郭潔蓉

年賀状に平成の年号を使うのは今年が最後になりますね。めんどくさい、西暦だけでいいではないか、という気も少しありますが、昭和生まれの我々世代は、年号が代わると、新しい年号に生まれた世代からは「2代前の年号に生まれた世代」ということで、昭和の時代に我々が明治生まれの世代に感じた隔絶感を持たれることになるのでしょう。若い郭さんも私と同じ「昭和生まれ」という一括りのグループになってしまう、というのはご迷惑な話かと思います。

お正月 御馳走の後は 太田胃散          郭潔蓉

正月の御馳走をつい食べ過ぎて胃がもたれてしまい、太田胃散の世話になる、という図が良くわかる軽みの俳句です。俳句は通常、上五、中七、下五が切れ目なく一行で表示されますので、漢字とひらがなの組み合わせを工夫して読みやすくしましょう。
参考句:お正月ご馳走のあと太田胃散
おしまいに胃薬を飲む節料理(せちりょうり)

月面にいても見えるや初日の出       増田隆一

増田さんの句は宇宙的なスケールの大きさを感じさせることが多く、この句にもその特徴が表れています。ここで「や」は感嘆の切れ字というより疑問の「や」だと思いますが、月と日の出の対比は江戸時代の俳人・与謝蕪村が詠んだ「菜の花や月は東に日は西に」を想起させる雄大さがあります。月面から初日の出が見えるかどうかは天文学的にはすぐ答えが示される質問かもしれませんが、素朴な疑問として共感します。

初春の祝詞も指でスマホかな          増田隆一

俳句の重要な要素として「軽み(かろみ)」がありますが、この句はスマホが普及した現代の一面を切り取った軽みの句かと思います。スマホの操作を指で行うことは想定済みなので、下記の句も可能かと思います。
参考句:初春やスマホに絵文字のある祝詞

消えにけり炬燵の猫と箱みかん        増田隆一

エアコンが普及した生活では炬燵は消えつつありますし、木箱に入ったミカンも段ボールにとって替わられました。炬燵もみかんも冬の季語ですが、ここでは消えたものの列挙なので季重なりではありません。私の学生時代は火鉢や湯たんぽ、練炭、足温器などを使っていました。消えたものはいろいろありますね。現在のエアコンの方がずっと便利で快適ですが、「消えにけり」と詠嘆を伴って懐かしむ気分はよくわかります。

正月の思い出になる 抱負だけ        マハルザン ラビ

倒置の文章として理解すると、「抱負を持ったことが今年の正月の思い出だ」、つまり「今年の正月は忙しくて特に何をしたわけではないけど、自分の未来に向けての抱負だけはしっかり心に描くことができた。そのことが今年の正月の収穫だ」と読みました。「元旦の計」という言葉がありますが、計(計画)=抱負=志(こころざし)とすると、志をしっかり持って新年をスタートできたことはとても素晴らしいことと思います。
参考句:正月を抱負新たに迎えけり

往来も雪に消えゆく人の跡       貫真英

「往来も」の「も」がなぜ使われているのか、判断が難しい。雪が薄く降って、そこを人が歩くと足跡が残る、その足跡も降り続く雪によって消されてしまう、という意味で
受け止めました。
参考句:足跡をたちまち消して雪やまず

フランスの友の訃報や松の内           貫隆夫

昨晩、昔フランス滞在中にお世話になったパリ大学(ナンテール)の教授が1月3日に亡くなったという知らせがご家族から届きました(76歳)。家族ぐるみで付き合い、1980年に日本に帰国した後も何度も会って親しくしていましたので悲しい気分でいます。松の内であろうと人は消えていくのだという思いを改めて持ちました。

(文責 貫隆夫)

後楽園2
2019年元旦の小石川後楽園(撮影:川村千鶴子)

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【2018年12月15日〆多文化研俳句まとめ】

今年も残るところ1週間。今年を振り返っての反省や後悔、来年への期待と怖れ、様々な思いが交錯する時期です。ともかく健康で、体のどこにも痛みがない、それだけでも有り難く感謝すべきことと思います。今回も晩秋から初冬、仲冬にかけての力作を頂きました。(以下、投句順)

凭(もた)れたる車窓に冬の気配あり    芹澤健介

電車のドアのところにもたれかかるようにしていると、触れているドアの窓の冷たさが伝わってきて、暖房されている車内とちがって外は寒いんだろうなと感じる、その瞬間の感覚を句にされたのかと思います。ドアの窓ではなく、座席に座って窓側に身を傾けて感じた感覚かもしれませんね。

日常の中のわずかな感覚を俳句の核にして一句をものする腕前に敬意を表します。

旅の句であれば、「冷たい」という冬の季語を使って下記の句も考えられます。

参考句:凭れたる窓の冷たき夜汽車かな

花束を抱いて帰る秋の夜       原田壽子

花束は「抱いて(いだいて)」より「抱える(かかえる)」という方が感じが出ます。花束を抱えて帰る状況は秋に限らず、様々な季節であり得るので。「秋の夜」でも「春の夜」でも俳句としては成り立つことになり、「季語が動く」という問題が生じます。たんに秋というより、少し雰囲気を出しましょう。

参考句:花束を抱えて月の家路かな     (月はそれだけで秋の季語です)

しおれても赤まんまゆれている秋の昼  原田壽子

犬蓼(いぬたで)の別称である「赤まんま」を季語に使われたのはさすがですね。赤まんまはそこらに見かける雑草ですが、米粒のような小さな赤い花はかわいいですね。ただ赤まんまは秋の季語なので「秋の昼」と言うと完全に季重なりになります。

草が揺れるのはほとんど当たり前なので(当たり前だと「それがどうした」という批判を受けます)、しおれていることに重点を置いてみます。

参考句:しおれても赤はそのまま赤まんま

鳥の声のんびりするな冬近し     原田壽子

「のんびりするな」という中七はやや散文的というか子供っぽい感じになるので、語順を少し変えました。

参考句:冬近しのんびりと聞く鳥の声

指広げ紅い葉のせて秋惜しむ     原田壽子

「指広げ」というと指と指の間隔をあける感じになりますので、「掌(て)を広げ」とした方が良いと思います。「紅の葉」は紅葉を思わせ、紅葉は秋の季語なので「秋惜しむ」と季重なりとなりますが、この場合は紅葉を眺めながら秋を惜しんだという気持ちを詠んだものなので、季重なりで構わないと思います。

参考句:紅い葉を掌(て)にのせ秋を惜しみけり

参道に溢る光や年の暮れ         増田隆一

冬のある時期からイルミネーションで樹木を飾るなどしますが、特に原宿の表参道は有名ですね。イルミネーションでなくとも酉の市など暮れのイベントでは夜店の光が冬の寒さを補って賑やかな雰囲気になります。口語(溢れる)あるいは文語(溢るる)とすると、中七は「溢れる光」あるいは「溢るる光」となって語数的には「や」を外した方がよくなります。

霜月を過ぎて残せしことばかり       増田隆一

霜月(十一月)が終わって昨日から師走になりました。「もう師走だ」と思うと、し残していることがあれこれ浮かんできて、焦る気持ちになります。その焦りが良く伝わる句になっています。「師走になって」ではなく「霜月を過ぎて」と言われたところが良いと思います。この句を読むと。私など人生の霜月を過ぎてるのにし残したことばかり、と読んでしまいます。

道見えずこころ波打つ師走かな       増田隆一

「道見えず」とは「自分の進む道が見えてこない」ということなので、「日暮れて道遠し」よりもむしろつらい状況です。人々が忙しく動く師走は、みんな道は分かっていて、あとは効率よく動くことだけが問題であるように見え、進むべき道がまだ見えていない自分の状況に「こころ波打つ」のは、志の高い人ほどあり得ることだと思います。この句は増田さんが将来自分の人生の軌跡を振り返るときに、「平成最後の師走」のご自身の気分を思い出す縁(よすが)になることと思います。来年の師走は、別の気分の俳句が詠まれますように。

参考句:道見えずこころ波立つ師走かな

木枯らしを蹴散らし歩く幼児かな       貫真英

寒い木枯らしの吹くなかで元気に歩く幼児の姿が浮かんできます。木枯らしに吹かれるなかで元気に歩く姿を「蹴散らす」とする表現が適切かどうかということになりますが、総体としての木枯らしを蹴散らすというのはかなり無理があるかとも思います。具体的に蹴散らすことができるのは落ち葉くらいではないかと普通は考えます。その場合は、

参考句:幼児(おさなご)の落ち葉蹴散らす歩きかな

ということになりますが、いや靴の先で蹴とばしているのは落ち葉であっても、その気持ちは木枯らし全体を蹴とばしているという幼児の生命力を詠んだのだということであれば、原句のままで良いと思います。

教え子に子ども授かる師走かな        川村千鶴子

慌ただしい師走にあって「子供が生まれました」という知らせが教え子から届くというのは、ほんとに嬉しく教師冥利(きょうしみょうり)に尽きる話ですね。

その知らせを伝える方も幸せ、受け取る方も幸せ、それを詠んだ俳句を読む方も幸せ、という三方良しの名句だと思います。リズムもとてもいいです。

赤ちゃんは貴重な平成最後の師走生まれ、ということになりますね。

冬の中光を抱く枯野かな          ラビ・マハルザン

枯野は冬の季語なので、「冬」という季語を重ねて使う必要はありません(枯野と言えば、冬と言わなくとも冬であることは分かる)。

あと、「光を抱く」という言葉の解釈が難しいように思います。枯野が冬の光に包まれて(抱かれて)いる、というのであれば「(光を)抱く」というのは主語と目的語が逆ではないかということになります。「いや、その逆転が詩的なのだ」という理解もあり得るかもしれません。いずれにしても、夜の闇と比べると昼間の枯野は光に溢れています。花咲く春や盛夏ではなく、枯野に光を意識することは日本的な侘び(わび)寂(さび)の感覚に通じるものがありますね。常識的に「冬の光の中に枯野がある」という前提では、

参考句:静寂の光のなかの枯野かな

焦らずに今年も来たよ大晦日        ラビ・マハルザン

大晦日という日が今年も着実に(焦らずに)やって来る、という意味か、今年も大晦日が来るけど自分は焦らずにやるべきことをやるのみだ、という意味なのか、解釈が分かれるところです。まだ大晦日は来ていないので過去形ではない形で詠んでみましょう。

参考句:歩を止めず今年も来るよ大晦日                   参考句:大晦日今年も来るよ焦らない

あるじ病む庭の数多(あまた)や烏瓜(からすうり)       貫隆夫

高齢化の波を受けてご近所も病気勝ちの方が増えてきました。庭の手入れが趣味であった隣家のご主人も、主(主)が病んでしまった今年は野草の烏瓜が多数派となってしまいました。もっとも烏瓜の実が赤く熟して風に揺れている風情は秋の季節感が溢れていて、私の好きな景色の一つです。

(文責 貫隆夫)

クリスマス

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【2018年11月15日〆多文化研俳句まとめ】

今年は暖冬との予報が出ていますが、さすがに立冬から2週間も経つと朝夕は冬の寒さを感じるようになりました。花屋の店先にはポインセチアやシクラメンなど暖かな赤色系の花々が並んでいます。15日までの投句を下記のようにまとめました。(以下、投句順)

秋祭り幼な子が魅入るお餅つき     川村千鶴子

餅つきは歳時記的には年末の生活行事として冬の季語になりますが、秋祭りのイベントとして実際に行われたわけですから、嘱目(しょくもく=目に触れたもの)の句としてこの季重なりはOKだと思います。「魅入る」は神や霊などが取り付くというイメージがありますので、普通に「見入る」あるいは「見る」で良いのではと思います。

参考句:秋祭り幼な子見入るお餅つき

        子ら囲む秋の祭りのお餅つき

冬立ちて寒さいまだし木に青葉    増田隆一

これでまあ冬が立ったかまだ夏日   増田隆一

今年は異常気象の年でした。秋の進行が遅いように思われます。11月7日は立冬でしたが間服(あいふく=合い服)で外出しました。落葉樹にまだたくさん葉が散り残っています。最高気温が25度以上になる日を気象用語で夏日と言いますが、テレビの気象予報を聞いて驚きました。上記二つの句は今年の立冬に感じた違和感が素直に詠まれていると思います。

嬶どのに傘を取られししぐれかな   増田隆一

嬶(かか)は妻を親しんで呼ぶ言葉ですが、今では落語の世界でしか聞く機会がなくなりました。これに「どの」という敬称を加えて可笑しみを出した上五がよく効いていると思います。「取られし」といっても傘を持たない妻に、持っていた自分が貸してあげたわけですから、妻への愛情をさりげなく句にした夫の照れくさい感じが出ていて強く共感します。

飼ひ猫に軟膏を塗る初時雨      芹澤健介

時雨は冬の通り雨。初時雨は冬の到来を肌で感じるわびしさを伴うものですが、猫に軟膏を塗るという優しさ、暖かさが、初時雨の寒さ、わびしさを相殺してくれます。初時雨という下五が軟膏を塗るというありふれた日常に品格のある詩情を与えています。

曇天に鎖の鷹と目の合へり        芹澤健介

鷹を使った狩り(鷹狩)が晩秋から冬に行われることが多いことを反映して鷹は冬の季語となっています。猛禽類としての鷹は目が鋭く、これと目を合わせるには人間の側にもそれなりの気迫と目力(めじから)を必要とします。止まり木に鎖でつながれ,全身に精気をみなぎらせる鷹の目は灰色の曇天を背景にらんらんと輝いている。そんな緊張感がしっかり伝わってきます。晴天の青より曇天の灰色を背景とすることで鷹の目はいっそう迫力を増します。「曇天に」という上五が素晴らしい効果を発揮して、誠に見事な句になっています。

車窓からいちょう黄葉探すわれ      原田壽子

「車窓からいちょう」からうっかり雷鳥(らいちょう)を考えてしまいました。ここは漢字で銀杏黄葉(いちょうもみじ)と書くことにしましょう。「われ」と言わなくとも、たいていの場合探しているのは本人なので、これも省略して良いかと思います。

参考句:車窓から銀杏黄葉を探しけり

     銀杏黄葉探し車窓に額(ひたい)寄す

晩秋や麦刈り終わり煙たつ       原田壽子

麦は稲作の裏作として5月から6月にかけて成熟期を迎えますので、麦刈りは夏の季語として扱われます。したがって晩秋に作業が終わるのは稲刈りということになりますが、なにか外国の麦刈りを詠まれたか、日本でも麦の専用畑で栽培され、秋に収穫される実景を嘱目されたのでしょうか?

参考句:麦刈りの後の畑や煙立つ

畔道に黄菊かたまり麦畑        原田壽子

「かたまり」はあまり詩的ではないので「群れ咲く」としました。菊(秋の季語)と麦(夏の季語)のバッティングを避けて、「畑野」にしました。

参考句:あぜ道に黄菊群れ咲く畑野かな

秋雨や街静かなりわれひとり      原田壽子

秋雨の降る街が静かであることは十分に想像できますので、「秋雨」と「静かなり」は実質的にダブります。静かであることはがやがやと複数の人間がおしゃべりをしていないことを前提しますので、「われひとり」も無くともよい言葉になります。

参考句:秋雨の街ゆく吾の靴の音

      秋雨の街黄昏るる(たそがるる)家路かな

無花果の実は人知れず雨に溶け         貫真英

無花果が熟れて、収穫されることもなく秋雨に溶け朽ちてゆく様を詠まれたものと思います。無花果は秋に実るので秋の季語となっています。したがって秋の季語として使う場合は「無花果の実」とする必要はありません。(良く知られた子規の俳句「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」も「柿の実を食えば」とはなっていないのと同様です)

参考句: 無花果や熟れては雨に溶けゆけり

毛布から別れたくない朝寒み       マハルザン ラビ

「朝寒み」(あささむみ)という季語を初めて知りました。「み」という語尾は「悲しみ」「凄み」「楽しみ」というように確かに名詞を作る機能を持ちますので、「朝寒し」の名詞形として「朝寒み」という言葉が成り立つのですね。勉強になりました。朝が寒いので、毛布を離したくないという季節になってきました。「朝寒み」は秋晴れの朝などに感じる寒さで秋の季語になります。(これに対し「寒き朝」は冬の季語)。「毛布」は冬の季語なので、このバッティング(季ちがい)を改善する必要があります。

参考句:毛布から離れたくない朝(あした)かな

秋霖に追い掛けられた辛い日々       マハルザン ラビ

秋霖(しゅうりん)は秋の長雨を指す言葉です。にわか雨のように急に降ってきた雨ではないので、「追い掛けられた」という中七の言葉が適当かどうかが気になります。一方で、「辛い日々」という下五は「日々」という時間的な継続を示す言葉が使われており、長雨でないと対応しません。何回も急な雨に降られて困った、ということであれば、

参考句:秋時雨(あきしぐれ)追い掛けられた辛い日々

雨に「追い掛けられた」のではなく、秋の長雨のなかで仕事の締め切りに追い掛けられて辛かった、というのであれば、

参考句:秋霖や締め切り迫る辛い日々

晩秋や木曽路の旅に出かけたし      貫隆夫

紅葉の散り残った晩秋の木曽路を歩いてみたいと願っています。

(文責:貫隆夫)

貫先生近影カトマンズ17.03.30 撮影高橋衛 P1010763 (3)
貫隆夫(撮影:高橋衛)

貫 隆夫(ぬき たかお)

1940年鹿児島市生まれ。慶應義塾大学大学院商学研究科博士課程単位取得。専攻は経営学。

武蔵大学教授、大東文化大学教授を経て、現在、武蔵大学名誉教授。俳句連中「まだん」会員。

多文化社会研究会顧問。

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20181015日〆多文化研俳句まとめ】

 秋は季節の移ろいが速いなかに空や風や花の風情に繊細な変化が表れているように思います。昨日、台湾から帰宅しましたが、高雄市から新幹線に乗るとき駅前の樹木から元気な蝉しぐれが聞えてきました。台湾にも俳句の会があると聞いていますが、10月に聞こえる台湾の蝉の声は日本の「秋の蝉」が持つ季節感とはまったく違うものとして聞こえてきました。(以下、投句順)

名月や抜け毛に見えし雲の糸             増田隆一

  名月と来て「雲の糸」となると、夜間に見える雲となりますね。ここでは名月に照らされた夜のすじ雲が抜け毛のように見えた、と理解しました。名月と抜け毛の組み合わせは俳句史上初めてのことかと思います。

願い多き友に祈りの芋煮炊く              増田隆一

 芋煮会はもともと山形の野外行事ですが、今は各地で行われるようになりました。ここでは芋煮会というより、個人的に芋を煮たということかと思います。「願い多き友」の意味、また「祈りの芋煮炊く」とは何かが良くわからい、という点が問題かなと思いますが、病勝ちで健康への願望が強い友が来訪したので、その友の健康を願って芋を煮たと解釈しました。芋煮の「煮」ると「炊く」が重複しているように見えるので、工夫の余地あり、かと思います。

 参考句:友来る健やかなれと芋煮かな

りーりーといとど迎える千鳥足             増田隆一

 「いとど」はカマドウマを指し、昔からコオロギと混同されて詠まれることが多いようです。カマドウマには発声器官がなく、鳴かないそうですが、増田さんの句は昔からの混同をあえて踏襲された句と理解し、酔っ払って千鳥足で自宅近くまで帰ってくるとコオロギが鳴いていた、と解釈しました。コオロギの鳴き声を「りーりー」と表現されたのは面白いと思います。秋の夜更けの男の生活場面として共感を覚えます。

栗剥きて無事や父母・友雨に風           増田隆一

 台風の影響で強い雨風がある中で栗を剥きながら郷里の父母や友を思っている、という情景かと思います。俳句では中黒(なかぐろ)の・は使わないのと、下五の「雨に風」がおさまりが悪いので、これを省略して下記の参考句を作りました。

 参考句:栗剥くや父母(ちちはは)のこと友のこと

秋晴れの防災訓練雲の中              川村千鶴子

 防災訓練のはしご車に乗られた体験を俳句にされたと伺いましたが、「雲の中」と言うと飛行機に乗って雲の中に入ったような状況を思わせますので、「雲近し」くらいにしてはどうでしょうか?

 参考句:秋晴れや防災訓練雲近し

秋高し防災訓練爽やかに               川村千鶴子

 秋高し、は今の季節にピッタリの季語ですね。「爽やか(さわやか)」ないし「爽やか(さやか)」は秋の澄んだ空気を表現する言葉として秋の季語になります。秋高しと季重なりになりますので下記の参考句を作ってみました。

 参考句:防災訓練はしご車伸びて秋高し

いわし雲夜明けの月の白さ映え           原田壽子

 いわし雲も月も秋の季語なので、いわゆる季重なりとなりますが、ここではいわし雲が出ている空に月がかかって、いわし雲の白と夜明けの月の白とが相乗効果となり、月の白がますます映えているという状況を詠んだものと解釈しましょう。白さが映えているというときの「映え」はやや状況説明的になりますので、次の参考句を作ってみました。

 参考句:夜の明けて月の白さや鰯雲

ロボティクス手足となりてわれ生きる        原田壽子

 ロボティクスとはロボットの設計・製作・運転などに関する研究を総称して、ロボット工学ないしロボット学と呼ばれるものなので、直ちに介護ロボットを指すものではないようです。介護ロボットが私を助けてくれるので私はこうして生きている、という句の意味はロボットを俳句に詠んだ先駆的な句として歴史的な意味を持つのではないでしょうか。ただ、この句には季語がないので(なくても構わないという立場もありますが)、ここでは季語を取り込む努力をしてみます。

 参考句:ロボットの介護優しき秋の暮れ 

    (高齢期すなわち人生の秋あるいは冬をロボットに助けられて生きてる私)

     介護ロボット吾を生かしむ秋日和

待ちていた中秋の月輝いて              原田壽子

 「待ちていた」は「待っていた」と言うほかはないと思います。花は咲くもの、月は輝くもの、とすれば「月輝いて」はくどい表現ということになります。詠んでいる情景は、「仲秋の月が明るく輝いている」という当たり前すぎる情景になりかねないので、仲秋の名月を見る主体の情景を詠むことにしてはどうでしょうか。私の好きなロマン俳句風に下記の参考句を作ってみました。

 参考句:名月や今夜の私は一人きり

道半ばモーテルの夜半虫の声              芹澤健介

 目的地までの行程の途中、夜遅くモーテルに泊まることになり、車を降りたとたんか、あるいは部屋に荷物を置いたところで、鳴き声繁き虫の声が聞えて来た、という情景が鮮明に伝わります。俳句では「景が見える」ということを重視します。この句は景が良く見えるという点で優れた句だと思います。ご年齢が分かりませんが、「道半ば」は行程の半ばであると同時に人生の道半ばということも含意して、志半ばの自分が人生の秋の夜更けにモーテルというやや半端な場所で感じる感慨を詩情を込めて詠まれたと理解することもできます。

 (上記コメントに対して頂いたメールにおいてアメリカ出張中に詠まれた俳句と伺いました。アメリカでも虫が鳴くんだなー、という思いに重点を置くとすれば、下記のような句にすることも可能かと思います。)

 参考句:モーテルで聞くアメリカの虫の声

 (あるいは、やや散文的になりますが)

 アメリカのモーテルで聞く虫の声 

 (モーテルは旅の途中で泊まるもの、というが考えを前提すれば、原句の「道半ば」という上5は「モーテル」に含意されているので省略可能)

 また、(虫は通例、夜に鳴くもの、という考えを前提すれば、原句中七の「夜半」は省略可能)

秋の夜窓を貫く月灯り            マハルザン・ラビ

 「窓を貫く」という中七はインパクトがありますね。秋は空気が澄み、電気を消した部屋の中に月の光が「窓を貫く」ように差し込んでくる、という情景がしっかり描かれていると思います。

 ㈰秋の夜、は秋。月も秋の季語なので、秋が重なるという批判もあり得ます。月は一年中空にありますが、俳句の世界では春の花(さくら)と秋の月が対比されます。秋から冬にかけて空が澄み渡り、月の存在感が際立つために、月を秋の季語とすることが受け入れられているのだと思います。しかし、ここでは「月」ではなく、「月灯り」なので季重なりではないという見方も可能と思います。

 ㈪月明り(つきあかり)という言葉はありますが、月灯り(つきともり)という言葉はないように思います。「灯し」ないし「灯り」は照明用に掲げられたともし火を意味しますので、月を空に掲げられた照明源とみて「月灯り」という表現も可能かもしれませんが、月明りという言葉があるのに月灯りとする必然性はないように思います。

 ㈫窓を貫くのは月の光すなわち月光(げっこう)とするのが自然ではないかと思います。貫いた月光が結果的に部屋を照らす灯り(あかり)になることはあり得ますが、窓を貫く段階では月光と捉えるべきだと思います。

 参考句:月光の窓を貫く秋の夜

     秋澄むや部屋にこもれる月明り

     夜更けては月を頼りの秋灯(あきともし)

眠る子の温もり膝に秋の旅         貫真英

 自分の膝にもたれて眠っている子の温もりがこちらに伝わってくる旅の様子が目に浮かびます。まったく安心しきって父親の膝で寝ている子供、それを慈しみの眼で見ている詠み手の幸福感に共感します。学齢前の子供については、「眠る子」を「眠る児」とした方が良いと思います。「秋の旅」とあるので移動中のバスか列車のなかの情景かと思いますが、実景に関わりなく「眠る児の温もり膝に」という素敵なフレーズを借用して、下記の句を作ってみました。

 参考句:眠る児の温もり膝に月見かな

 (縁側で月を待ってるうちに子供は眠ってしまった。その児の温もりを膝に感じながら、仲秋の名月を眺めている自分、という情景ですが、縁側という舞台は今や希少になりました。)

風倒のコスモス天に向き直る          貫隆夫

 台風で地に伏した庭のコスモスが倒れたところからほぼ直角に茎の向きを変え、上に伸びて花を咲かせている姿に健気さを感じました。

                                          (文責:貫隆夫)

貫先生近影カトマンズ17.03.30 撮影高橋衛 P1010763 (3)
貫隆夫(撮影:高橋衛)

貫 隆夫(ぬき たかお)

1940年鹿児島市生まれ。慶應義塾大学大学院商学研究科博士課程単位取得。専攻は経営学。

武蔵大学教授、大東文化大学教授を経て、現在、武蔵大学名誉教授。俳句連中「まだん」会員。

多文化社会研究会顧問。

防災訓練
川村理事長と防災訓練

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【2018年9月15日〆多文化研俳句まとめ】

9月前半の季節は夏が残っているところに秋が始まる微妙な季節、俳句を詠みにくい時期でもありますが、皆さん頑張って佳句をたくさん寄せて頂きました。今回から「まとめ」の方針として最初に送って頂いた句あるいは投句者自身で推敲された句を示し、私からの提案は参考句として示す、という形にしたいと思います。その方が後で振り返って投句者自身の進歩の軌跡がはっきりと表れるのではないかと考えた次第です。(以下、投句順)

しあわせを料理に託すひよこ豆               川村千鶴子

頂いた句によって「ひよこ豆」という名前を初めて知りましたが、ネットで写真を見ると見たことがある食材のように思います。もともと日本にはない豆を季語としてどう扱うかはどなたか権威のある人に決めてもらうしかありませんが、春から初夏にかけて白や菫色の花を咲かせ莢を付けると書いてありますので、実がなるのは夏と推定してここでは夏の季語を使った句として扱わせてもらいます。「しあわせを料理に託す」という語句は読み手にさまざまな想像をもたらします。料理する本人が幸せである、料理をふるまわれる人の幸せを願って、作る人食べる人双方の幸せを願ってのひよこ豆料理、「託す」とは今はまだしあわっせではないけれど将来の幸せを願って、あるいはすでに現状が幸せであり将来も幸せが続くことを願って、ということを意味するのか? さまざまな想像が出てくることは、意味不明の句とは違って、それだけ豊かなふくらみのある句だということになります。「しあわせ」という暖かな語感と「ひよこ豆」という可愛らしい語感とが対応しているので、リズムの良い五七五が読み手の胸に気持ちよく収まります。

虫の音や 茜に染まる 草原に                貫真英

夕焼けの草原に虫の声が聞こえる壮大な風景が浮かんできます。

「草原に虫の声が聞こえる」というのを「虫の声~草原に」と倒置するのは散文のようになってしまうのを避けるために有効だと思いますが、虫の声が聞こえる場所を説明しているという感じになってしまうリスクがあります。(俳句は説明を嫌います。説明すると読む側の想像のふくらみを奪ってしまうからです)。そこで以下の句を参考句として示します。

参考句:草原の虫の音繁き茜空

滴滴とすだち絞りぬ青魚           増田隆一

天高く夕空深き家路かな           同上

柿美味し父母の住むさと遠く         同上

「滴々」(てきてき)とは滴(しずく)がしたたり落ちるさまを意味し、「ぽたぽた」というオノマトペの方が我々にはなじんだ言葉です。言葉に対する敬意が深い俳句の世界では誰かが自分の知らない言葉を使うと、それだけで「今日は勉強させていただいた」という感謝の気持ちから点が入ることが多いのです。青魚(例えばサンマ)に滴々とすだちを絞りかけて食べるのは日本で秋を生きる幸せを感じさせます。

参考句:青魚すだちの香る夕餉かな

「天高く」の句。夕空も天なので、天ないし空が高く深いということになります。そこで、高いことと深いこととの関係が問題になりますが、天高きがゆえに、夕方になって少し暗くなってきた空が(暗さだけでなく)深さを感じさせる、ということであれば、この句はそのままでよいのではと思います。

「柿美味し」の句。故郷に残る年老いて来た両親を思う、という気持ちがしみじみと伝わってきます。ここで「さと」は漢字の「里」の方が一目でわかりやすいと思います。柿を食べて美味かったのでふるさとの父母を思い出したというより、柿の実が色づいた風景を見て故郷および故郷の父母を思い出していると方が納得的なので次の参考句を挙げてみます。

参考句:父母(ちちはは)の住む里遠し柿実る

夏空を一筋白く機はどこえ                  原田壽子

最大級雨風台風走り抜け                    同上

残暑は厳しく立秋は名ばかりぞ                 同上

まず、初めての俳句に挑戦されることに敬意を表します。初めてのことにチャレンジする気力は年齢に関係なく貴重です。

「夏空を」の句。「機はどこえ」という表現はやや口語的というか新聞の見出し的なので、以下のように参考句を示します。参考句:夏空や一筋白く機影なし

「最大級」の句。これもやや新聞見出し的なので、以下の参考句を示します。

参考句:最大級の台風過ぎし山野かな

(少し、言葉遊び的になりますが)参考句:台風の過ぎし山河の惨禍かな

「残暑は」の句。

参考句:立秋は名のみ厳しき残暑かな

雨や風秋の毎日涼しいな               マハルザン ラビ

秋の昼緑の池に白小鷺                マハルザン ラビ

白鷺の写真とともに投句有難うございました。台風の影響で雨や風があっても、秋になってすっかり涼しくなりました。最近は涼しいを通り越してやや寒いくらいです。

「涼しいな」という表現は子供っぽい感じになりますので、以下の参考句を作りました。(涼し、涼しい、は夏の季語。つまり、涼しいとは暑い夏の日に感じる感覚、秋になっての涼しさは「新涼」(しんりょう)と表現して区別をします。)

参考句:雨風(あめかぜ)の後の新涼昨日今日

「秋の昼」の句。白鷺は夏の季語となっていますので、秋の昼という上五と矛盾してしまいますが、白鷺は秋も見ることができますので、かまわないことにしましょう。木の緑を映した池に白い鷺がいる秋の昼、頂いた写真の通りの風景が、写真を見なくても想像されます。その意味で、この句はしっかりした写生句になっていると思います。

参考句:木の緑映る池面(いけも)や小白鷺

夕焼けや透けて輝くトンボかな            郭潔蓉

トンボの羽が夕焼けの色を透かしているという発想はとても詩情豊かで素晴らしいと思います。透けて輝く、という動詞を二つ重ねる表現は少しくどくなるかもしれないので次のような参考句を作ってみました。

参考句:夕焼けの茜(あかね)に透けるトンボかな

満月の影に重なる海月かな              貫隆夫

満月は秋、海月は夏の季語ですが、満月は年に12回ありますので、今回は季語の重なりを無視して、波の無い凪の海にぷかぷかと浮かぶ海月(くらげ)が満月の影に重なって文字通り海の月と化すイメージを俳句にしました。この場合、影とは海面に映っている月を意味します。

(以上)

ラビさん鷺写真

(撮影:マハルザン・ラビ)

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【2018年8月15日〆多文化研俳句まとめ】

蝉の鳴き声もひところと比べると少なめになり、例年にない猛暑の夏が過ぎようとしています。後悔の多い青春であっても、それが過ぎ去ることに一抹の寂しさを感じるように、夏の終わりは暑さから解放されてほっとすると同時に、季節の移ろいを惜しむ気持ちも感じてしまう不思議な時期でもあります。花火、かき氷など、さまざまに夏の季節を詠んだ句が寄せられました。(以下、投句順)

夏木立 安心の居場所に 医・職・住         川村千鶴子

この句を投句された思いを、川村さんは「炎暑の中、外国人労働者にとって、安心の居場所とは衣食住よりむしろ、医療のアクセスと職の安定、そして家族との住居、つまり医職住ではないかと思いました」と書かれています。この句の季語に「夏木立」を使われた理由として、「夏木立には弱っている人を守ってくれるような力強さを感じます」とも書いてあります。社会的なメッセージとしては、安心の居場所には医職住が必要なんだという主張が言えていればそれでよいので、この際季語はどうでもよいとも言えるのですが、社会性のある主張を詩情を添えて伝えることができれば、その方がずっと素敵です。「夏木立」という季語はその点で成功していると思います。

参考句:安心の居場所は涼し医・職・住

ベランダに あきつ止まりし ひぐれかな       増田隆一

「あきつ」はトンボの古名。都会のトンボにとってはベランダもまた一休みする場所なのですね。「あきつ」という古い言い方とベランダという現代的なものとの対比が決まっています。「止まりし」は形容詞よりも過去形のイメージが強くなるので、現在形の形で「ベランダに蜻蛉(とんぼ)の止まる日暮かな」と読み替えた方が解りやすいように思えます。

残暑厳し 毛皮脱ぐかや 猫昼寝           増田隆一

今年の猛暑は人間のみならず動物や植物にとってもつらかったのではないかと思われます。立秋を過ぎ残暑というべき昨今も暑さが厳しいので、この句を詠まれた増田さんの気持ちがよくわかります。毛皮は断熱効果があるので寒い季節に体温を逃がさない効果だけでなく、外からの熱を体内に取り込まない機能もありますので、猫にとっては暑い季節であっても毛皮は必要なものなのでしょう。そういう意味では、人間にとっての毛皮のコートと意味合いが異なりますので、擬人化にはかなりのリスクが伴います。

なお、残暑は秋の季語、昼寝は夏の季語となっています。イタリアやスペインのように四季を通じて昼寝が習慣化されている地域と違い、日本の夏はその他の季節にはなされない昼寝を必要とするほど疲労感を伴う厳しい季節と受け止められているのでしょう。猫が午後の暑さを避けているという情景を片蔭(かたかげ)という夏の季語を使って;

参考句:片蔭を猫歩みおる昼下がり

傘折りて 襟裏見せし 秋嵐        増田隆一

台風が襲来し、強い風で傘の骨が折れ、着ている衣服の襟(えり)が裏返ってしまう、という情景が良く表れており、特に襟裏を見せるという表現が風の強さを的確にとらえて見事だと思います。「見せし」というと通り過ぎた台風を詠んでいるようにもとられますが、「傘折りて襟裏見せて秋嵐」と現在形で畳みかけて詠んでもよいかもしれません。

パララララ夜空に咲いた花火かな      マハルザン ラビ

美しく華やかな花火の写真とともに投句有難うございました。花火は一瞬の輝きを見せてさっと消えていく点で、日本人にとって桜の花に感じるのと相通じるものがあります。 「パララララ」は花火が打ち上げられて広がるさまを詠まれたものと思いますが、花火についてこのようなオノマトペは初めて見るもので、とても新鮮です。

花火は夜に決まっている、という批判もあり得るでしょうから、明るさの後を詠んで;

参考句:パララララ 花火一瞬 元の闇(もとのやみ)

子供らが蟻を無邪気に殺しけり        貫 真英

子供達は自分の力の可能性を試すために、また好奇心からも、様々なことを行います。小さな虫を殺すこともその一環なのでしょう。自分も小さいころ蝶々の羽をむしったことを記憶しています。たとえ小さな昆虫であっても、それを「殺す」という行為を「無邪気」に行うことができるのは子供の特権かもしれません。大人も家の中でゴキブリを殺し、屠殺場では食用のために家畜を殺していますが、それは習慣化された行動であるために「殺生(せっしょう)」をしているという罪の意識を伴うものではありません。「殺す」という本来、俳句の風雅に合わない言葉を「子供の無邪気さ」に引き付けて俳句にしたところがこの句のポイントかと思います。

かき氷 暑さ吹き飛ぶ マンゴー味        郭 潔蓉

マンゴー味のかき氷、いかにもおいしそうですね。今度台湾に行ったら是非食べてみたいです。熱中症の日本でこの句を読むと、「暑さ吹き飛ぶ」という中七の言葉に惹かれます。

参考句:故郷(ふるさと)やマンゴー味のかき氷

かき氷 皆で食べると 美味しさ二倍       郭 潔蓉

分量がたくさんあるかき氷の山を皆でつつきながら食べるというのは美味しさだけでなく楽しさが伝わってきます。「皆で食べると美味しさ二倍」というと因果関係を説明している感じになるので、「かき氷みんなで食べて美味しさ二倍」としてはどうでしょうか。

「皆で食べ 美味しさ二倍 かき氷」でも良いかと思います。「かき氷 二人でつつき 美味しさ二倍」  も「二」と「二」が対応して面白いかもしれません。

フェラゴスト 終わらない飯 楽しめた    ダニエーレ

ダニエーレさんからの説明もありましたが、Ferragosto は夏の息抜きに日光浴や水遊び、食事を楽しむ祝日との由、日本の夏と違い湿度の低いさっぱりした気候のなかでの屋外での食事は楽しいでしょうね。

「楽しめた」というと俳句の世界で言う「報告句」の雰囲気になって詩情よりも報道性の方が高くなりますので、この点を工夫しましょう。

参考句:楽しさの続くランチやフェラゴスト

終わらない楽しいランチ フェラゴスト

終わらない料理とワイン フェラゴスト

イタリアの 夏楽しきはフェラゴスト

早天から蝉の鳴き声電車と競る        チョウチョウソー

早朝を意味する早天という言葉を使って作句されたこと、感心しました。競る、という動詞で終わっていることもインパクトを強めています。蝉の声と電車の音、都会では自然と人工の音が同時に聞こえてきます。この二つの同時性を「競る(せる)」と捉えて詠まれたことは作者の感性の表れと思います。

問題:競る(せる)がいいか、競う(きそう)がいいか? いずれにしても字余り。字余りにならない表現はないか? (ただし、リズムの関係で、中七(なかしち)の字余りはできるだけ避けるのが常道ですが、下五(しもご)についてはインパクトを強めるためにあえて字余りにすることも一つの選択です。)

参考句:早天や電車に勝る蝉の声

(早天から鳴く蝉を、たんに「朝の蝉」と言い換えて)

朝の蝉電車過ぎても鳴きやまず

作句された日はすでに立秋を過ぎ、蝉は「秋の蝉」となります。秋の蝉は季節的にあとが少ない寿命なので夏の蝉に比べて哀れを誘うと同時に、子孫を残そうとする必死さは夏の蝉以上であるとも解釈できます。そこで、「秋の蝉」という季語にして;

秋の蝉電車の音に鳴きやまず

向日葵(ひまわり)の向かう当てなく雨しとど   貫隆夫

太陽を追って向日葵の花が回るというのは俗説で、実際にはほとんど動かないと広辞苑にありますが、アジサイに雨が良く似合うのに対し、雨の日の向日葵はいかにも所在無げに見えます。「しとど」は「雨がしとしと降る」と同じく、雨にひどく濡れる様子を示す、一種のオノマトぺです。

(文責 貫隆夫)

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【2018年7月15日〆多文化研俳句まとめ】

今年の夏は猛暑です。春は青春、夏は朱夏と呼ばれるように、夏は命の炎が燃える季節なのですが、これだけ猛暑が続くと燃えるよりもぐったりして一日が過ぎてしまいます。暑さに負けずに戦っている方々から共感を誘う下記の俳句が投句されました。(以下、投句順)

時知るや蝉の声せず戻り梅雨      増田隆一

蝉と梅雨はどちらも夏の季語ですが、この句は蝉と梅雨の前後関係を問題にしているので、季重なりは必然で、梅雨が明けたはずなのにまた雨が降る「戻り梅雨」という季語にチャレンジされた句と受け止めました。「時知るや」という上五も生きていると思います。ただ、「時知るや」に「蝉の声せず」が続くと、「蝉が鳴くべき時期にまた梅雨に戻ってしまった」という意味になりますが、そうなると「時」を知らないのは鳴かない「蝉」なのか戻ってきた「梅雨」なのか、読む側は迷ってしまうかもしれません。「時知るや」の上五を割愛して、「蝉の声聞くこともなし戻り梅雨」もアリかと思います。

鮎焼きて茗荷を添えし夕餉かな     増田隆一

鮎も茗荷(の子)も夏の季語ですが、「添えし」という言葉があるので、ここでも季重なりを気にする必要はありません。鮎に茗荷が添えられる夕餉なんて季節感満点で羨ましい限りです。

ふたたびの憂いや山に梅雨やまず    増田隆一

今年も大雨による洪水や土砂崩れでたくさんの方が亡くなられました。この句が作られた時点では平成最大の被害が出るとはまだわかっておらず、被害の心配がなされている時期だったので「ふたたびの憂い」はぴったりの表現かと思います。梅雨期の豪雨による河川の氾濫については「出水(でみず)」あるいは「梅雨出水(つゆでみず)」という季語があるくらいに日本では常態化している災害で、この句で詠まれた「憂い」が「出水」として現実化し、200名を超える死者が出たことは本当に心痛むことでした。

笹の葉に祈りを込めて一安心      川村千鶴子

本来、陰暦の7月7日が七夕なので、天候的には牽牛星と織姫星が天の川を挟んで会うロマンを感じにくい梅雨空になることが多いようです。笹の葉に自分の願いを書いた短冊(たんざく)を結ぶことで、「これで大丈夫」と一安心できる川村先生は自分の願いが叶ってきたこれまでの幸福の実績がそうさせているのだと思います。この句を読む側もなんとなく幸せになれる自信が湧いてきます。頂いた句からいくつか俳句が触発されました。

笹の葉に祈りを込めし母のこと

   大願の祈りを込めて笹の葉に

   笹の葉に小さき願いを掛けにけり

   七夕に掛けた願いはひーみーつ

七夕に願い飛びかう俳句かな    川村千鶴子

七夕に願いを書いたことを俳句に詠んで、その俳句を皆で共有する。素敵なコミュニケーションだと思います。願いが祈りを伴うことで、人間を超えた存在が応援してくれているという励みと、祈ったからには自ら全力を尽くす責任があるという自覚が生まれるのだと思います。

笹の葉に掛けた願いが風に舞う     チョウチョウソー

作者は幕張駅前の七夕の笹竹に願いを書いた短冊を掛けられた由、リズム、季節感、詩情の三拍子が揃っていてとても素敵な俳句だと思います。どんな願いを書かれたのかわかりませんが、読む側は「その願いが叶いますように!」と一緒に祈る気持ちになります。

猛暑日や大汗をかく模擬授業      郭潔蓉

暑い中での模擬授業、大変ですね。「猛暑日や生きてるだけで合格点」と何もしないでいる自分と比べて現役の郭先生のご苦労がしのばれます。原句は、「炎天下 汗と格闘 模擬授業」でしたが、「炎天下」というと野外授業をやってる雰囲気になるので「猛暑日」に変えます。また、俳句には「三段切れ」を避けるという慣行があります。三段切れというのは上句、中句、下句がそれぞれ切れてしまうことを指します。そこで中句と下句を関連付けて、掲載句のようにしました。(猛暑と大汗はどちらも夏の季語ですが、ここでは重なって構わないと思います。)

風鈴を聞くや待たれる夏休み      郭潔蓉

早く夏休みにならないかなー、という気分にはまったく共感します。その気持ちを風鈴の音と結び付けて俳句にした着眼は素晴らしいと思います。原句は

「鈴の音や待ち遠しき夏休み」でしたが、「待ち遠しき夏休み」と「待ち遠し」を夏休みの形容詞とするのではなく、風鈴の音が聞こえると待ち遠しい、という詠み手の気分を表す言葉にして「風鈴の音(ね)に待ち遠し夏休み」あるいは「風鈴を聞くや待たれる夏休み」、「風鈴の音にも待たれる夏休み」(文語的には「風鈴の音にも待たるる夏休み」)としてはどうでしょうか?

夏の夜蒸し暑い部屋眠れない    ラビ・マハルザン

日本(東京)の夏は蒸し暑くて寝苦しいですね。高原の國ネパールの夏は日本で言えば避暑地のような気候ではないでしょうか? 初めて日本の夏を過ごされる奥さんは大変だろうなと同情いたします。

ラビさんの俳句から触発されて以下のような俳句を作りましたが、ラビさんの原句の方が蒸し暑い日本の夏で苦労されている情景がよく伝わってくるように思います。(「熱帯夜」は夜になっても摂氏25度を下回らない場合に使う気象用語ですが、最近夏の季語となっています。)

我が部屋の寝付くに難(かた)き暑さかな

    蒸し暑い夏夜(なつよ)に偲(しの)ぶ故郷かな

    ネパールの夏懐(なつか)しき熱帯夜

暑い日々体がだるいビール欲しい   ラビ・マハルザン

これも「暑い!ビール飲みたいなー」という気分が率直に伝わってきます。原句から以下のような句を思いつきましたが、これらは参考句として扱い、原句を掲載句と致します。「夏バテ」は夏の暑さで体がバテることを言います。

ビール欲し酷暑がつらい日であれば

    炎暑(えんしょ)の日ビール欲しがる我が身かな

    夏バテをビールに癒す(いやす)縄のれん

ゴキブリや元気に動く盛夏の夜     ダニエーレ

ゴキブリは暖房の発達した現代では一年中見られますが、夏の季語となっています。体全体が油を塗った様に光っていることから油虫(アブラムシ)とも言われます。確かに夜でも活発に動いていますね。夏バテ気味の人間と比べて「ゴキブリのやつ、元気に動いているなー」とその生命力に辟易しながら感心もしている気分がよく表れていると思います。原句は「盛夏の夜元気に動くゴキブリや」でしたが、「や」という感嘆詞は下5(「しもご」と読みます)に使うことはあまりしませんので、上のように語順を変えて掲載します。

油虫という言葉を使うと5音になるので、元の語順のまま次のようにしても良いと思います。

盛夏の夜元気に動く油虫

   また、少し軽めにして、

   不眠の夜ゴキブリ元気こんちくしょう!

黄帽子の並んでプール開きの日     貫隆夫

今日、小学校のそばを通るとプール開きをやっていました。私が小学生や中学生の頃は学校にプールがなかったので、プールサイドにいる子供たちを見ると戦後から今日までの日本の発展と平和の有難さを感じます。

(文責  貫隆夫)

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(7月14日/ラビ・マハルザン夫妻)

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2018年6月15日〆多文化研俳句まとめ】

梅雨の季節です。ときどきの晴れ間(梅雨晴間)には、これからやって来る盛夏への期待と怖れを同時に感じてしまいます。今回も素敵な俳句が寄せられました。(以下、投句順)

つかの間の晴れに干したる雨具かな   増田隆一

梅雨の季節の生活感がさりげなく表現されています。梅雨の間のつかの間の晴れを表す言葉として「梅雨晴れ間」(あるいは「梅雨晴間」)という季語があります。干す場所を具体的に示すことで情景がはっきりしますので、例えば、「梅雨晴れ間テラスに並ぶ雨具かな」としても良いかと思います。

傘の花あじさい添ゆる通学路      増田隆一

あじさいという花に加えて傘の花を持ってくる着眼は素晴らしいです。

あじさいの咲いてるそばを学童たちの傘が通り過ぎていく、という情景なので添うのは傘の花の方とするのが自然かと思います。例えば、「あじさいや傘の花添ふ通学路」。

ハロ見えて天も日傘の立夏なり     増田隆一

スケールの大きな見立てが大変効果的に使われています。「なり」はどちらかと言えば川柳的な言葉遣いになりますので、例えば、「ハロ見えて天に日傘の立夏かな」。

色づいて微笑みかけるトマトかな    川村千鶴子

少し熟れて来たトマトは成長しつつある少女の微笑みを思わせる、ということでしょうか。かわいいトマトにふさわしい俳句になっています。「微笑みかける」という擬人法は避けるべきという意見もありますが、色づいてきたトマトを中心に置くか、トマトが熟れて来たのを「微笑みかける」と受け止め、見る側の気持ちを中心に置くかは、詠む側ではなく読む側の自由ということになります

雨のなか優雅な散歩かたつむり     郭潔蓉

原句の「夕立も優雅にお散歩かたつむり」の句意は、「夕立の中、私をはじめ人間たちは慌てて急ぎ足で歩いているが、かたつむりは悠然と歩いているなあ」ということかと思います。雨に濡れるのを嫌って急ぎ足になる人間と、ゆっくりした移動のペースを変えないかたつむりとの対比が面白い着眼と思います。自然の生き物をみて自らを省みるという姿勢も素晴らしいです。

「夕立も」という言葉は「夕立が降っている中でも」という意味だと思いますが、「夕立も」とすると夕立が主語として散歩している、という違和感を与えるのと、「夕立」も「かたつむり」も夏の季語なので、季重なりを避けるために「夕立」を単に「雨」として、「雨の中」としました。また、リズム感のためには、中七(真ん中の七音」はできるだけ七音を守ることが望ましいと言われますので。「お散歩」の「お」を省きます。「優雅に」という表現は見る側の主観に過ぎないとして「客観写生」を重視する立場からは主観の入らない表現が求められる、ということもあり得ます。その批判に対応するとすれば、下記のような句も選択肢になります。「雨の中歩み変わらぬかたつむり」。

夕立のような激しい雨の中でもペースが変わらないことを言いたいのだ、というときは季重なりを気にせず、「夕立に歩み変わらぬかたつむり」あるいは「夕立に歩みを変えぬかたつむり」という句もありです。

ザーザー雨山の畑に虫がなく       ラビ・マハルジャン

原句の「ザーザー雨で濡れた畑に虫がなく」、すなわち、ザーザー雨=ザーザー雨が降っているのに虫が鳴いてるという情景はインパクトがありますね。私たちはザーザー降り、あるいは,ザザ降り、と言って、「ザーザー雨」ということはありませんが、それだけに「ザーザー雨」は新鮮な印象があります。雨が降っていると虫もひっそりしているというのが私の常識なので、ネパールには雨の中でも鳴く虫がいるんだ、どんな虫だろう?と興味をそそられます。「虫」はいちおう秋の季語になっていますが、夏でも鳴いているのでこのさい季語の問題は無視しましょう。ただ、雨が降ると畑が濡れるのは当然のことなので「濡れた」という言葉は省いてよいと思います。

ネパールの山間にある畑を「山の畑」(やまのはたけ、あるいは、やまのはた)としてより具体的なイメージが湧くようにしましょう。また、「で」という助詞があると因果関係を説明しているような感じになりますので(説明だと詩情が消える)、これも省きます。

日本では田植えの頃は水を張った田に蛙(かえる、あるいは、かわず)が鳴いています。(但し、「田植え」の季語は夏、「蛙」は春から夏にかけて賑やかに鳴きますが、季語としては「春」になっています)。そこで、「ザーザー雨山の田圃(たんぼ)に蛙なく」とすることも考えられますが、蛙ではなく虫が鳴いているのだということかと思いますので、「ザーザー雨」と「虫がなく」を活かして、最初に示した句を掲載句とさせていただきます。

六月に麦笛の音が聞こえない     ダニエーレ・レスタ

「六月なのに、故郷のように麦笛の音が聞こえてこないなあ」という思いを、ダニエーレさんは投句の「六月が麦笛の音聞こえない」という句に込められました。イタリアの六月は梅雨の日本とちがって天気が良く、南部イタリアでは海水浴も始まるとか。地球は(多文化だけでなく)多気候の惑星なのだということをダニエーレさんの俳句から改めて実感しました。近い将来、ダニエーレさんがイタリア版の歳時記を編纂されることを願っています。日本では草笛は夏の季語としてありますが、麦笛は季語としてありません。私も草笛は聞いたことがありますが、麦笛は聞いたことがありません。麦笛という概念を知っただけでもダニエーレさんの句に触れてよかったと思います。

句意は、「六月(である)が 麦笛の音が聞こえない」あるいは、「六月(なの)に 麦笛の音が聞こえない」ということなのですが、「六月が」とすると、どうしても「六月」が主語として受け取られるので、「六月に麦笛の音(ね)が聞こえない」あるいは「六月に麦笛の音(おと)聞こえない」としてはどうでしょうか。

麦笛の音は、(花が咲くのが当たり前のように)聞こえるのは当たり前なので、「麦笛の音が聞こえる」ではなく「麦笛が聞こえる」で充分意味が通じます。そこで、「音」を省略して、「六月に聞こえてこない麦の笛」(草笛が「草の笛」と置き換えられるように、麦笛は「麦の笛」と5音の言葉に置き換えることができます)。

「麦」は、日本の歳時記では夏の季語となっていますので、六月と麦笛は季重なりになりますが、ここでは六月というイタリアでは晴天の良い季節なのにここ日本では麦笛が聞こえてこない、という句意なので季重なりを気にする必要はありません。「聞こえない」という否定形ではなく、故郷では「聞こえる」というポジティヴな句にするために、次のような句もありではないかと思います。「今頃は故郷(ふるさと)の子ら麦の笛」あるいは「ふるさとの子ら吹き遊ぶ麦の笛」。

雨降るやあじさいの青さらに青       貫隆夫

あじさいは梅雨の季節に咲く花らしく、日の光の中よりも雨降る中の方が色鮮やかに感じられます。あじさいの花の色は青だけではありませんが、ここでは青によってあじさいの色を代表させています。

(文責 貫隆夫)

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【2018年5月15日〆多文化研俳句まとめ】

新緑さわやかな季節です。今回も多文化研らしくユニークで素敵、そして詩的な俳句が投句されました。

天国に母の日カード送りたい     川村千鶴子

ご自分が孫を持つ年代になっても、自分の母親はやはり特別な存在としての母であることに変わりはなく、母の日が近づいて母の日カードが郵便局で売られていたりすると、今は亡き母に愛と感謝を込めたカードを送りたくなる。母への思いがカードを送りたいという具体的な表現で明確に伝わってきます。

五月晴れ誕生日こそ若返る      川村千鶴子

一つ年を取るのではなく、一つ若返るくらいの気持ちで誕生日を迎えるという前向きな気持ちが素晴らしいです。

初夏の風父との旅や美麗島      郭潔蓉

美麗島は台湾の別称との由。「や」は「切れ字」の一つですが、「や」を使うことで、そこに詠嘆や喜びなどの感情が込められて俳句らしくなります。たとえば、「古池や蛙(かわず)飛び込む水の音」という松尾芭蕉の句は有名ですが、これが「古池に蛙飛び込む水の音」となると、たんに蛙が古池に飛び込んで水の音がしたという「報告句」ないし「説明句」となってしまい、音一つしない静寂な古池の雰囲気の中で、蛙が飛び込んで「ポチャン」という音がし、そのことでいっそう周りの静かさが強調される詩情は浮かんできません。「父との旅や」と表現することで、現在の旅を楽しむ気持ちとあと何度父と一緒に台湾を訪れる機会があるのだろうという、人生の限られた時間への感慨がともに伝わってきます。

妻憮然シチュー肴に冷し酒      増田隆一

増田さんの句は主として夏の酒である冷酒に煮込み料理であるシチューを合わせて飲むことに妻が呆れて見ている、という生活の情景がほほえましくイメージされて、あたたかな軽みのある俳句になっていると思います。「君の手作りなんだから肴はなんだっていいんだよ」という愛情が伝わってきます。

青嵐(あおあらし)負けずに進む和の心   ラビ・マハルジャン

ラビさんの前に進む気迫が伝わってきます。ここで「和の心」とは「平和を愛する心」とか「和気を尊ぶ心」とかいうものではなく、大和魂とか武士道や侍の心を指すものだと理解いたします。幕末の儒学者・志士である吉田松陰(よしだしょういん)の言葉に、「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂(やまとだましい)」という和歌があります。「こうすればこうなる(たとえば死んでしまう)ということがわかっていても、大義のためには損得を考えずに行動するのが大和魂なのだ」という意味です。ラビさんの俳句によって。日本の心=和の心、には、和やかさ(なごやかさ)を大切にする気持ちと、正しいと思ったことのためには損得を考えずに前に進む、という二つの意味があることに気づかされました。(青嵐は新緑の頃(青葉の頃)に吹くやや強い南風、のことを指します)。

花粉症喉ヒリヒリと寝付かれず      ダニエーレ・レスタ

花粉症で喉が荒れてなかなか眠れない夜が続いたとのこと、大変でしたね。

しかし、その苦しさのお陰で俳句が一つできたとプラス思考で受け止めてください。花粉症のつらさが分からない私は花粉症の句が作れません。

鯉のぼり空を賑わす子だくさん      貫隆夫

少子化が問題となるなか、近所の児童館の空にはためく鯉のぼりは子だくさんです。

(文責 貫隆夫)

母の日カーネーション2

(撮影:川村千鶴子)

皐月夕景

(撮影:ラビ・マハルジャン)

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【 2018年4月15日〆多文化研俳句まとめ 】

兼題として一応「桜」「夜桜」「花見」「花」(俳句で花と言えば桜を意味します)等を挙げましたが、季節に合った季語であれば構わない、季語がなくともOK、ということで4月15日を締め切りに投句して頂きました。投句募集がまだ周知されているわけではないので、今回は3月8日に清瀬市の拙宅に来ていただいた方々に投句をお願いしましたところ、幸い全員から期日までに俳句が送られてきました。3月から4月にかけては年度末・年度初めの最も多忙な時期なので、この時期に全員の方からの俳句が揃ったことはとても素晴らしいことだと思います。以下に、投句された順番に簡単なコメントを付して、まとめと致します。    (文責:貫隆夫)

つかのまの若さつかのま桜かな           貫隆夫

桜が愛されるのは桜の花の命の短さが根底にあり、そこに見る側の自分の命の短さ、儚さ(はかなさ)を重ね合わせるからだと思います。長寿命化している現在であっても大局的には命の儚さは変わりません、まして若さはもっと儚く、つかの間です。

夜桜に父母の思い出よみがえる           川村千鶴子

亡き御父母とご一緒に夜桜を見たことがあり、今年の夜桜を見てそのことが思い出された、ということが素直に伝ってきます。五七五の字数はリズムがよく、読みやすい。川村先生はパッとすぐ俳句が出てくる即興性が素晴らしいと思います。

朧月かさに夜桜舞いすがた             増田隆一

「朧月」と「夜桜」はともに春の季語なので、いわゆる「季重なり」となりますが、夜桜の美しい桜の木を朧月を傘にして舞う日本舞踊の名手(舞妓さん?)と見立てた壮大な句として受け止めましたので、この場合の季重なりは構わないと思います。(「朧月」で時間が夜であることは分かっているので、「朧月かさに桜の舞いすがた」で良い、とする意見はあり得ます)。

青空に雲が浮かんだ天桜              ラビ・マハルジャン

青空に浮かんだ雲が満開の桜の木(あるいは桜の花)のような形をしており、まさに「天の川」ならぬ「天の桜」「天桜(あまざくら)」のようであった、という句意と受け止めました。天桜という造語のセンスがすごいと思います。日本人にはちょっとできない発想です。

「青空に雲が浮かべる天桜」(あるいは「が」という濁音を避けて、「青空に雲の浮かべる天桜」とした方が解りやすいかも知れません。また、「天桜」という言葉は辞書に存在しないので、すでにある言葉の中でラビさんの句意を活かすとすれば、「青空に雲の綾なす桜かな」とすることもできそうです。

*「綾なす」には「きれいな形を作る」という意味があります。

新学期きりきり舞いの春の暮れ        ダニエーレ・レスタ

教員であれば誰しも身につまされる句だと思います。「きりきり舞いの」という表現が実にぴったりと状況に適合しており、イタリア人のダニエーレさんがよくこの言葉を御存じであり、かつ的確に使いこなせるものだと感心しました。

日本では「新学期」は4月からということで春の季語なので「春の暮れ」と季重なりになりますが、外国では春と限らないのでこのままでもよいかと思います。季重なりを避けたいということであれば下記のようにしてはどうでしょうか?

「新学期きりきり舞いに日暮れかな」

あるいは、「新学期きりきり舞いに日の暮れる」

(文語的には)「新学期きりきり舞ひに日の暮るる」

「きりきり舞いの」とすると日暮れだけがきりきり舞い、ということになりますが、ダニエーレさんの気持ちは、「今日は朝から一日中忙しくてあっという間に夕暮れになってしまったなー」というものだと思いますので、そうだとすると「に」とする方が「きりきり舞いしてるうちに日が暮れてしまった」という句意がより明確になります。

卒業の子らの涙に吾は微笑(え)む            郭潔蓉

卒業は友人たちとの別れの時でもあるので、別れのつらさに涙することはしばしばみられる光景かと思います。それは個人の成長のプロセスでもあるので、その涙を見ている教師は卒業していく彼らのこれからの人生の幸福を願いつつ、微笑みをもってそれを眺めている、という情景が目に浮かんできます。現象的には涙と微笑みが対になっていても、生徒(学生)と教師との信頼関係や教員の生徒への慈愛がしっかり読み取れます。

桜土田

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多文化研有志 清瀬句会     二〇一八年三月八日

清瀬市 貫隆夫宅

春炬燵羽毛布団の暖かさ      川村千鶴子

雨ひと日冬に追いつく人もなし   増田隆一

枯れ枝に滴る氷雨音も無し     増田隆一

春時雨傘にしたたる過ぐる冬    増田隆一

お赤飯カラオケ唄うひなまつり   ダニエーレ・レスタ

春うらら桜はいつぞ咲くのかな   郭潔蓉

足あとに辿ってくれた雨の音    ラビ・マハルジャン

歌俳句手料理おしゃべり春の宴   貫雅美

スマップを歌う郭さん春好日    貫隆夫

賑やかや五人持ち来る春の色    貫隆夫

【出席者】(敬称略)川村千鶴子、増田隆一、郭潔蓉、ダニエーレ・レスタ、ラビ・マハルジャン、貫雅美、貫隆夫 以上七人

東京のはずれ、典型的なトカイナカの清瀬に折からの春雨に少し濡れながら

集まっていただいた五人の高貴な賓客に、菜の花のお浸しでおもてなしをいたしました。その際の余興としてカラオケ一曲、さらに俳句をそれぞれ歌い、詠んでいただきました。

帰りの時間が迫った短い時間にもかかわらず皆さん素敵な俳句を作っていただき、木曜七時からのテレビ番組「プレバト」風に言うと全員「才能あり」、少し修行するとすぐに「特待生」に昇格される方ばかりと感心致しました。増田さんの「冬に追いつく人もなし」の句はどう読み取るか難しかったのですが、もう春が巡ってきたのだし、去っていく冬に後ろから追いついて歳月を取り返すことはできないのだから、後悔はあってもきっぱり前を向いてこれからの春を精一杯生きることにしましょう、という自らと皆に向けた激励のメッセージ、と解釈しました。他の方々の句についても、自分の解釈と作者の意図が合致するのかどうかを確かめる時間があればよかったのですが、今回は時間不足でした。

俳句は作品を出してしまえば、半分は作者のもの、もう半分は読み手のもの、と言われます。読み手の解釈が作者の意図と一致する必要はないのですが、作者の意図を確かめてみたい気持ちは起きてきます。また皆さんとゆっくりおしゃべりと俳句を楽しむ時間が持てることを願っています。

俳句については日本においてもいろんな考え方があり、季語は必要、五七五でなければならない、という立場もあれば、無季語で良い、五七五の語数にとらわれず自由律で良い、という考え方もあります。また俳句が国際化するにしたがい、日本のような季節感がない地域でも人生や自然を詠うHAIKUが普及してきています。

一つの俳句に季語が2つあるのを避ける(「季重なり(きがさなり)を避ける」のは俳句の一つのルールとしてありますが、これもその句のメッセージを伝えるために必要とあれば、季語が重なっても構わないということは広く認識されています。(一茶の句に「我が春も上々吉ぞ梅の花」というのがあります。春、梅の花と季語が2つあります)。

川村先生の句は「春炬燵羽毛布団の暖かさ」と詠まれていて、春炬燵=春、布団=冬、暖か=春、と季語が3つ出ていますが、句のメッセージは「春炬燵に入ってみたら羽毛布団にくるまった様に暖かかったなあ」というもので、それぞれの言葉が出てくる必然性があり、読んでいて何も違和感は感じません。俳句を作るに際して季重なりを避けようとするのは、五七五という17文字の制約の中でできるだけ不要な言葉を省く、ということから来ています。「春炬燵はあったかいに決まっているから、春炬燵をわざわざ暖かいという必要はない」という立場もあり得るでしょう。しかし、「春の炬燵って、やっぱり羽根布団のように暖かいなあ」と素直に感嘆する立場もあってよいのでは、と思います。

多文化研は日本語が母語ではない人も参加する組織です。俳句のルールは一応弁えたうえで、しかし、自由に自分が感じたこと、気が付いたことを、なるべくリズムよく(できれば五七五のリズムに合わせて)表現する、ということで良いのではないか、大切なことは日常の生活の中で自分の感性を働かせること、それを言葉として表現しようとする表現意欲を持つことだと思います。

(貫隆夫)

多文化句会・第1回(2018年3月8日)

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