ⅱ)難民/国際法と国内法の整備

今日における世界人権宣言の意義

秋山 肇
(立命館大学国際関係学部嘱託講師)

●はじめに
1948 年12 月10 日に採択された世界人権宣言は、2018 年12 月10 日に採択から70 周年を迎えた。世界人権宣言は、国際社会で初めて人権の指す内容について合意を得た文書である。70 周年を迎えた世界人権宣言は、今日においてどのような意義を持っているのか。本稿では、今日の重要な社会問題である社会の分断を解決するために、世界人権宣言第1 条が持つ役割を検討する。

●今日の社会問題
今日の重要な社会問題の一つに、排外主義と「反排外主義」の分断が挙げられる。例えば、米国では移民に否定的なトランプ大統領を支持する層がある一方で、トランプ大統領を「not my president(私の大統領ではない)」とする層もある。また日本でも昨今、日本国外出身者を攻撃するヘイトスピーチが深刻化しており、その反対運動も見られる。 社会の分断の問題点として、お互いに信頼関係を築くことが困難になり、対話を基盤とした政治が機能不全に陥るため、暴力的衝突の可能性が高まることが挙げられる。例えば米国では、アフリカ人などを対象としたヘイトクライム(憎悪犯罪)が増加していると言われている。社会の分断が先鋭化することで、多文化共生や「多文化共創」の基盤である対話が困難になっている。

●世界人権宣言第1 条
ここで、世界人権宣言第1 条について検討する。第1 条は、「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」と規定している。この条文自体は実体的な権利を規定するものではなく、実体的な権利は第2 条以降に規定されている。しかし第1 条は今日の社会問題の解決の糸口を示すとともに、人権保障の基盤であると考えられる。特に「同胞の精神」に言及した第1 条第2 文は示唆に富んでいる。 世界人権宣言の
起草過程を分析すると、第1 条の起草者の思いが伝わってくる。平等と同胞の精神は実体的な規定でないため、世界人権宣言の条文に含める必要はない、との主張があった。しかし、フランスの政府代表であり、ユダヤ人のルーツを持っていたルネ・カサンは、数えきれない人が第二次世界大戦時のファシズムによって命を失ったのは、平等の原則や同胞の精神が欠如していたからであると考え、これらの原則の重要性を認識させるために、これらの規定を第1 条におくべきであると力説し、最終的に現在の第1 条が採択された。

●今日の世界人権宣言第1 条の意義
上記の起草過程は、同胞の精神の欠如が深刻な人権侵害につながり、ジェノサイドにつながりうることを示唆している。社会の分断が深刻化する今日において人々が同胞の精神を持つ必要性を世界人権宣言は示しているのではないか。同胞の精神を持つことこそが人権保障の根幹であり、今日の様々な社会問題の根源である社会の分断を防ぐために重要なのである。

●おわりに
最後に、「反排外主義者」も「同胞」の精神を持つ必要性に言及する。一般的に排外主義者は、外国人と「同胞」の精神を十分に共有していないと考えられるが、「反排外主義者」は他者への「同胞」の精神を持っているのだろうか。例えば「反排外主義者」は排外主義者に対して、「同胞」の精神を抱いているのだろうか。おそらく抱いていないと思われる。例えば米国大統領選挙で使われた「not my president」は、トランプ大統領を支持した人々の意見を否定したとも捉えられる表現である。これでは、「反排外主義者」が排外主義者を理解することが困難であり、現在の排外主義者を取り込んだ多文化社会を促進するのは困難である。そのため「反排外主義者」が、「同胞」として排外主義者の思想の根底にある社会状況などを学び、その問題解決の糸口を探ることが、社会の分断を解消するために重要であろう。時間はかかるかもしれないが、このような排外主義との対話を試みることで「反排外主義」が現在の排外主義者をも取り込み、多文化社会の実現が可能になるのではないか。

主な参考文献一覧
・United Nations (1948). Summary Record of the Ninety-Sixth Meeting (of the Third Committee) Held at the Palais de Chaillot, Paris, on Thursday, 7 October 1948, at 10:30 a.m., A/C.3/SR.96, 7 October 1948.
・Tore Lindholn (1992). Article 1. In Asbjorn Eide, Gudmundur Alfredsson, Goran Melander, Lars Adam Rehof, and Allan Rosas (eds.), The Universal Declaration of Human Rights: A Commentary (pp. 31-55). Oslo: Scandinavian University Press.

<プロフィール>

秋山 肇
日本学術振興会特別研究員、ローザンヌ大学客員研究員などを経て、立命館大学国際関係学部嘱託講師。無国籍について国際法、国際政治学、国際機構論、平和研究などの視点から研究しており、特定非営利活動法人無国籍ネットワーク運営委員も努めている。また、国際基督教大学大学院博士候補として、国際法における無国籍予防規範が日本の国内法に与えた影響について研究している。

(多文化社会研究会「30周年記念誌」より転載)

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教育を通じた難民支援

宮澤 哲
(国連難民高等弁務官駐日事務所(UNHCR) 法務部・法務アソシエイト)

 今日、強制移動によって生じる困難は大規模に、そしてますます複雑になっています。その事を鑑みれば、難民の方々が生活を再構築する準備を行い、彼らの能力や知識を以って新しい環境において社会に貢献できるようにすることが、難民問題解決への重要な鍵だと思います。教育はそのような自立支援の基礎となります。とはいえ、教育へのアクセスにおいて難民が直面する現実は厳しいものがあります。世界中の若者の内、約36 %が大学をはじめとする高等教育を受けているのに対して、高等教育を受けている難民の若者はわずか1 %です。日本には現在、約1 万5000 人が国を逃れ、難民または難民に類する地位を得て生活していますが、日本にいる難民にとっても、高等教育へのアクセスは決して容易ではありません。
 そのような観点からも、私たちUNHCR は1951 年難民条約や国際人権法典において、教育を受けることが基本的人権のひとつと捉えられていることを重要視しています。ですから、難民の境遇に適応した奨学金制度による高等教育を含め、難民が教育へのアクセスを確保することはUNHCR の優先事項の一つです。 UNHCR は、日本において11 校のパートナー大学と協力し、難民高等教育事業(RHEP)を実施しています。RHEP は、難民が紛争や迫害によって影響された生活を立て直し、自己実現のチャンスをつかむ機会を提供すると同時に、同じ大学で机を並べて学ぶ日本人の学生にとっても、難民問題を「遠い国のこと」ではなく、身近なこと、自分のこととしてとらえ直すきっかけとなることを期待して実施されています。RHEP による難民の受け入れは2007 年に始まりましたが、これまで本事業によって大学で学ぶというチャンスをつかんだ学生たちは大学のサポートのもと、同級生たちと切磋琢磨しながらそれぞれが充実した学生生活を送り、立派に社会に旅立っています。日本で企業に勤める人、海外で仕事を得る人、国内外で起業する人と様々ですが、祖国と日本の架け橋になりたいとの夢を実現している人も多くいます。

 また、日本政府は、シリア難民を対象として、人道危機が終わった際に国の復興を担う人材を育成する事業である「シリア平和への架け橋・人材育成プログラム」を実施しています。このような事業は、第三国定住など難民を対象とした既存の制度だけでなく、様々な制度を使って難民の受け入れを進めるという観点から各国政府が実施している事業形態のひとつで、難民を留学生として受け入れる新しいかたちの難民受け入れ制度です。また、日本の大学や教育機関が独自に海外の難民キャンプにいる難民を招聘する「プライベート・スポンサーシップ」と呼ばれる民間による新しい取り組みも進められています。
 2016年9月、国連総会によって採択された「難民と移民のためのニューヨーク宣言」は、教育が国際的な難民支援において重要な要素であると指摘しました。そして、その宣言を具現化するための方策として、今年、2018年12月に「難民に関するグローバル・コンパクト」が採択されました。その「グローバル・コンパクト」の精神に基づき、パートナー大学が結束して難民高等教育プログラムをさらに拡大し、この重要な取り組みを通じて難民の皆さんを引き続き支援されることに期待します。またUNHCR としてもそれぞれの大学による主体的な努力をサポートしたいと考えております。これらの日本社会の取り組みは、難民問題の解決に寄与する非常に重要な取り組みであり、国際社会の賞賛に値する貢献です。日本国内はもちろん、海外においても積極的に紹介したいと思っています。

<プロフィール>
宮澤 哲
・1974 年東京都生まれ。99 年にNGO スタッフとしてマケドニアのコソボ国境で学校再建事業、難民の子ども
の生活実態に関する調査などに従事。01 年から04 年まで東ティモールに赴任。NGO や大学勤務を経て、国連開
発計画(UNDP) にてRESPECT 事業のプロジェクトマネジャーとして勤務。2005 年から現職、2006 年に国内避
難民の保護の目的で東ティモールに一時赴任。

(多文化社会研究会「30周年記念誌」より転載)

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私と難民支援:これまでとこれから

伊藤 寛了
(帝京大学経済学部国際経済学科)

 大学院生だった2001年4月のことだったと記憶している。指導教員の一人から難民に関するトルコ語通訳の仕事が舞い込んだのだ。ナンミン?!言葉としては聞いたことがあったし、パキスタンでアフガン難民と話をした経験はあったものの、当時はほとんど知識がなかったため、朧げなイメージしかないまま当日を迎え、兎に角現場に向かったのであった。爾来、そんな筆者が難民支援を本職とするまでとその後を回顧してみたい。その作業はまた、日本の難民受け入れ制度の一端を振り返ることにもなるはずである。
 2004年秋にトルコへの2 回目の留学をするまで難民に関する通訳を毎週数日、確か9時半か10時頃から昼の休憩を挟んで17時頃まで続けたほか、翻訳の仕事も時折引き受けた。通訳と翻訳の違いは人間を相手にするかどうかである。個人的には、通訳の方が相手の感情を直接受けるため圧倒的に疲れる。1日通訳をすると次の日はぐったりなのである。
 では筆者が難民関係の通訳業務を始めた2001年の難民認定申請者数の傾向はどうだったのだろうか。果たして、法務省入国管理局が発表した「平成13年における難民認定者数等について」は次のよう記す。「申請について国籍別にみてみると,主な出身国は、トルコ、アフガニスタン、パキスタン、ミャンマー、イランの順となっている」、「本年は特にトルコ人及びアフガニスタン人からの申請数の増加が顕著であり,両者で申請数全体の約57パーセントを占めた」と。筆者にトルコ語通訳が舞い込んだ背景には平成13年、すなわち2001年のこのよ
うな状況があったのである。
 トルコでの留学や勤務を終えて2008年に帰国すると、アジア福祉教育財団難民事業本部(RHQ)からトルコ語通訳を打診された。RHQは日本政府から委託を受け、実施団体として政府の難民政策を1979年以来約40年にわたって行ってきた民間団体である。未だ院生だった筆者はこれを引き受け、そうこうしている内に翌09年に職員として入職することとなった。それから2019 年3 月までRHQ では難民認定申請者事業を皮切りに、定住支援プログラムのマネジメントや会計、広報、事業企画などに従事してきた。ここで再び法務省が発表した「平成
20(2008年における難民認定者数等について」を見てみると次のように記されている。「前年に比べ783人増加の過去最高となった」、「主な国籍別申請者数は、多い順にミャンマー、トルコ……」。やはりここでもトルコ語通訳に対する社会的要請があったことが伺える。確かに当時は勤務時間の半分以上は通訳に割いていたように記憶している。
 しかし、2012年半ばに異動により業務内容が変わり、日本が受け入れた難民の定住支援に軸足を移すこととなった。すなわち条約難民と第三国定住難民への支援である。折しも2008年に第三国定住による難民の受け入れが閣議了解により決定され、10年9月に難民の受け入れが開始していた。第三国定住による難民の受け入れはアジア諸国で初のことであった(但し、インドシナ難民の受け入れも実質的には第三国定住(再定住)の一種といえよう)。そして2012年5月には「第三国定住に関する有識者会議」がスタートし、翌年12月まで計17回開催
される。筆者の仕事はまたしても社会の動きに連動し、第三国定住難民の定住支援業務一色となったのであった。
 2012年9月には第3陣が来日直前で辞退をし、他方では地域定住支援員制度が難民対策連絡調整会議で決定され、また当初3年間のパイロット事業を予定していた第三国定住事業は2年間延長され、更には対象となる難民キャンプも拡大された。その後、パイロット事業終了後の継続的な事業の実施と受け入れ先のマレーシアへの変更が決定され、2018年10月からは、「第三国定住による難民の受入れの対象拡大等に関する検討会」が開催されており、この原稿を書いている2019年2月現在も続いている。
 このように筆者の難民支援との関わりは、紛れもなく社会情勢に影響を受けながら展開してきた。つまりトルコ語に始まり、第三国定住に行き着いたのである。では次はどこに向かうのだろうか。個人的には、筆者の専門であるトルコ地域研究と難民支援を結び付けたいと望んでいる。欲を言えば、日本と難民研究という要素も盛り込みたい。何故なら、それによってこれまで幾許かながら培ってきたトルコ研究に関する知見、また実務者として蓄積してきた難民支援の経験をオーバーラップさせ、理論と実践を架橋することができると考えるからである。
そして外国人材の受入れ・共生という日本社会の大きなうねりを踏まえるならば、更に多文化研の30年にわたる活動に鑑みるならば、筆者にとってまさに多文化研こそが「架橋」という作業を実践していく場となるはずである。

<著者略歴>
帝京大学経済学部国際経済学科専任講師
在トルコ日本国大使館専門調査員等を経て2009年にRHQ入職。約10年間の勤務を経て2019年4月より現職。また2010年より非常勤講師として東京外国語大学等でトルコ語やトルコ現代史、国際協力論などを担当。

(多文化社会研究会「30周年記念誌」より転載)

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日本社会で共に生きる

―難民申請者が居住する民族コミュニティ形成の背景と相互扶助―

土田千愛
(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)

●はじめに
 日本の難民受け入れを評価したものの多くが難民認定の多寡にのみ注目し、増加の一途をたどる難民申請者数には焦点があてられてこなかった。それゆえ、先行研究には難民申請の動向に関して見落とされてきた様相がある。
それを顕著に表しているのがトルコ国籍者による難民申請の推移だ。過去に難民として認定されたトルコ国籍者は一人もいない。同国籍者に難民認定実績がないことは通常、申請に抑止力が働くが、法務省入国管理局の統計では2012、2013 年には申請者数第一位を占め、その後も申請者数は増加し続けている。
本稿では、難民申請者の中でもトルコ国籍者の難民申請をめぐる動向に着眼点を置き、難民申請数が増加する背景について、社会学的アプローチで聞き取り調査と参与観察をもとに民族コミュニティ内の動きを中心に検討する。

●移住するトルコ国籍者
 そもそも日本で難民申請を行うトルコ国籍者の多くはトルコで暮らしていたクルド人と言われている。クルド人とは、イラン、イラク、シリア、トルコの4ヵ国にまたがるクルディスタンと呼ばれる地域に居住している民族である。国民国家形成の過程で弾圧や差別を受けてきたという経験を有する。
トルコ国籍クルド人の多くは冷戦期に西欧諸国へ移住する傾向があったが、それらの国々が90 年代から難民制度や入国管理政策を厳格化したことで、新たな移住先を求めた。日本はトルコと友好関係にあるだけでなく、査証免除協定を結んでいるため、入国しやすかったと言える。

●日本のクルド人集住地域「ワラビスタン」
  2017年現在、日本で生活するトルコ国籍のクルド人は1,300人と推定されている。その多くが、埼玉県川口市と蕨市に居住している。両市ともに中小工場が多く立地する地域であるため、働き口を求めた多くの外国人とともにクルド人の集住地域ができた。この地域は、中東の「クルディスタン」にちなみ「ワラビスタン」と呼ばれている。トルコ国籍クルド人の団体である一般社団法人「日本クルド文化協会」によると、「ワラビスタン」で生活するトルコ国籍クルド人の約8 割が難民申請を行っているという。

●人口増加で拡大する「ワラビスタン」
 トルコ国籍クルド人への聞き取り調査から「ワラビスタン」には彼らの家族や親戚、友人らが集住して生活していることが分かった。先に来日した家族の一人が後に他の家族や親族を事実上呼び寄せているほか、友人を頼りに移住する者が多いためだ。また、難民申請中の在留期間が長くなればなるほど、来日後の結婚や新たな出生を経て、外からだけでなく内からも人口が増加している側面もある。そのうえ、聞き取り調査の回答には「父には兄弟が10人いる」といったものもあったように、文化的に家族の単位が大きいことも人口増加に影響している。すなわち、「ワラビスタン」は、何らかの血縁関係や友人関係にあるトルコ国籍クルド人の集合体でもある。
それゆえ、新たな移住者が増加するほど、難民申請はひとつの在留手段としてあたかも必要な手続きのように口伝えで広がり、コミュニティの人口増加に比例して難民申請者数も増加していると言える。

●「クルディスタン」から「ワラビスタン」へ
 また、「ワラビスタン」で調査を重ねていると、彼らの故郷には共通点があることが明らかになった。
「クルディスタン」の中でも特定の地域が彼らの出身地としてあげられていたのだ。そこで、筆者は2014 年に彼らの出身地域へ渡航し、「クルディスタン」から「ワラビスタン」へ移住する人々のルーツを探ることを試みた。
山岳地帯に位置するその地域では、人々は羊や鶏を飼い、広い畑で農作物を育てながら自給自足に近い生活を営んでいた。
調査を続けていると、この地域でも家族や親族が隣近所に集中して生活していることが分かった。同様の居住形態は「ワラビスタン」にも反映されていると言える。

出典:トルコの「クルディスタン」にて、2014 年8 月、筆者撮影

●不可視化となる難民申請者と自治体による取り組み
 ただし、増加するトルコ国籍クルド人の難民申請者も地域では可視されない状況にある。日本の難民認定制度では、在留資格の有無に関わらず難民申請を行うことは可能だが、正規の在留資格がない場合、住民登録ができない。そのため、自治体が正確な在留人数やそのうちの難民申請者数を把握することは難しい。
しかしながら、自治体は統計にはあがらない不可視となる難民申請者の存在を認識しつつ、地域に暮らす外国人という枠組みで捉え、サロンや料理教室を開き、市民間の相互理解を図っている。また、ボランティアで構成される20数もの日本語教室を設置し、難民認定を受けられていなくとも地域で語学を学ぶ機会を提供している。

●主体的に地域との接続を図る難民申請者
 加えてトルコ国籍クルド人自らも地域に溶け込もうとする取り組みもある。例えば、治安面では、川口市の防犯対策室に住民から寄せられた苦情について、「日本クルド文化協会」が市から連絡を受けるとクルド人内で注意喚起の場を設けている。
また、協会のクルド人男性らは週に一度、蕨駅周辺のごみ拾いやパトロール活動も行っている。文化面ではクルド人女性が地域における自分たちの認知度を高めるために川口市の公民館を会場に「クルド料理教室」を開催し、クルドの伝統的な手芸を販売することもある。
このようにトルコ国籍クルド人の男女はそれぞれのアプローチで地域と積極的に共生しようと試みている。

出典:「クルド料理教室」にて、2016 年1月、筆者撮影

●おわりに
 以上より、トルコ国籍者の難民申請者数が増加している背景には、(1)日本を新たな居住先とし、(2)家族、親戚、友人を頼りに来日するほか、来日後の結婚や新たな出生によって人口が増え、故郷のように民族コミュニティを形成し、(3)コミュニティ内で難民申請が日本に在留する手段として広まっていることがあげられる。また、正規の在留資格を持たない難民申請者は地域で不可視となるものの、(4)自治体による外国人に対する取り組みや(5)トルコ国籍クルド人自らも主体的に地域に働きかける活動が相互扶助の仕組みをつくり、地域での共生を促していると言える。

<プロフィール>
東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻博士課程。第2 回若手難民研究者奨励賞受賞。専門は国際関係論、移民・難民研究。主な著作に、“ Causal Relationship between Choice of Applying for Refugee Status and Building an Ethnic Community: Case Study of Kurdish Applicants from Turkey in Japan”, Journal of Human Security Studies, Vol. 7, No. 2, pp. 95-112, 2018。「多文化『共創』の国・日本日本社会でともに生きる―難民申請者が居住する民族コミュニティ形成背景と相互

主な参考文献一覧
・浅川聖(2013)『日本の「内」への難民政策の特徴―難民認定申請者に対する「管理」と「保護」を中心に―』横浜国際経済法学、第21 巻、第3 号
・山脇康嗣(2013)『入管法の実務―入管法令・内部審査基準・実務運用・裁判例―』新日本法規。
・Helga Leitner (1995) International migration in postwar Europe, Political Geography, Vol. 14, No. 3.
・「埼玉県多文化共生推進プラン(平成29 年度ー平成33 年度)iii  本県の多文化共生の現状と課題」
http://www.pref.saitama.lg.jp/a0306/keikakutoukei/documents/zentaiban.pdf(2018 年9 月15 日最終アクセス)
・「法務省入国管理局プレスリリース」http://www.moj.go.jp/press _ index.html(2018 年9 月15 日最終アクセス)

(多文化社会研究会「30周年記念誌」より転載)