ⅶ)メディア論とICT

多文化共創フォーラム21
第163回例会
2020年5月16日(土)

講演2.多文化研創設の年、世界が動いた
―ベルリンの壁開放/冷戦終結〜ルーマニア革命〜湾岸戦争―

増田隆一

1.<東ドイツの消滅>

多文化社会研究会が”Global Awareness”という名前で活動を始めたのは1989年だった。研究フィールドとして「女性のキャリア形成」や「不安定な政治下の家族」などでの議論と分析を進めながら、有効かつ具体的な政策提言・施策提案を発信することが目的である。
その同じ頃、私はテレビ朝日系列のニュースネットワークANNの特派員としてパリにいた。
1989年秋、ボン支局上野支局長からパリ支局に依頼があり、東ドイツ共産党の党大会の取材に協力するため、東ベルリンにきて欲しいとのことだった。
パスポートに残っている旧東ドイツ(ドイツ民主主義人民共和国=DDR)の入国ビザは、1989年11月7日から11日となっている。

(東ドイツ取材ビザ・左ページに滞在許可期間が記されている)

東西冷戦の真っただ中、東ドイツはルーマニアと並んで西側報道関係者にはなかなか入国が認められない共産主義国のひとつだった。このタイミングで取材ビザが発行されたのは、東ドイツ共産党=社会主義統一党の党大会があり、書記長として30年以上君臨し続けたエーリッヒ・ホーネッカーから、エゴン・クレンツ新書記長に権力が移譲される瞬間を、世界に知らしめる目的があったからだ。

(東ドイツ国営テレビで生中継の準備中)

この半年前、共産国から自由主義に舵を切りはじめたハンガリーが隣接するオーストリアとの国境線を緩め、大量の東ドイツ市民がハンガリー経由で西側に亡命する事態が発生していた。ホーネッカーは亡命者を銃殺する政策を続けていたが、改革開放を進めていたソ連・ゴルバチョフ書記長が不快感を示していたため、クレンツ政権も出国緩和政策に傾いていた。
この政策は”旅行の自由化”という、あいまいな表現で、既に発表されていた。その実施タイミングの幹部連絡が、まるで「伝言ゲーム」のように、途中で徐々にねじまがっていった。これは最終的に明らかな誤表現と化して、東ドイツ共産党の広報担当から、党大会後の記者会見の席で漏れ出てくる。
「ええ…っと、東ドイツ国民の国外旅行は今日から自由です」
ぽかんとした表情で、APのアメリカ人記者が質問した。
「今日ということは、今からですか?」
共産党広報官シャボフスキーは、即答した。
「今からです」

(東独共産党広報官シャボフスキーの記者会見・中央通路3列目が増田)

この言葉がどういうことを意味しているのか、会見場の報道関係者は、その場で直ぐには理解できなかった。

5人ほどいた日本人の記者も、会見終了後、東京に送る原稿のすり合わせ(全くの勘違いを避ける防衛策)のために、こそこそと会話を交わした。
「つまり、東から西ベルリンへ出て行っても構わない?」
「それはおかしいだろう。検問所の意味がなくなる」
「でも、シャボフスキーが言ったんだから」
「う〜ん。旅行の証明書とか許可証とかを共産党が発行するんじゃない?」
「見かけは自由ってか?」

もやもやとした不透明感の中、宿舎のホテルに戻ると、ボン支局長が血相を変えていた。
「増田くん、大変だ。ものすごい数の人が壁を超えて西に出てる。大騒ぎになっている」
“自由ベルリン”という西ベルリンのAMラジオ局を聞いていて、この『東独共産党が旅行自由化を容認』というニュースを知った少女が、東西ベルリン境界の西北部にあるポツダマープラッツ検問所に飛び込み、「シャボフスキーに逆らうの?」と警備官を説得して、冷戦の象徴”鉄のカーテン”を通過したという。
泣きながら西ベルリンに入ってきた少女を、たまたま居合わせた西ベルリン市民がその場で歓迎している…というニュースは、東ベルリン市民に瞬く間に広がった。

(最初の少女が通り抜けたポツダマープラッツ検問所の前)

このあとの狂乱状態は、ほぼ1週間続いた。もちろん取材は徹夜の連続で、シャワーすら浴びる暇がない。
“ベルリンの壁崩壊”が、「伝言ゲームの勘違い」から始まったことを認識している人は、そう多くいないはずだ。
このわずか1年後、国としての東ドイツは消滅することになる。
共産主義諸国の連鎖倒産が、この日から始まったのだ。

(フリードリッヒ大通りのチャーリー検問所)

2.<ルーマニア革命から湾岸戦争>

「ベルリンの壁」からわずか1ヶ月後、東欧の共産主義の要ともいえるルーマニアから不穏なニュースが飛び込んできた。
この2ヶ月前の1989年10月に開催されたルーマニア共産党大会は、参加した代議員1000人以上が、チャウシェスク大統領を熱狂的に礼賛する、恒例の光景で終わっていた。私はこの共産党大会も報道ビザが降り、政府情報省の完全な監視下ながら、ブカレストの国際会議場で取材することができた。ソ連・中国・北朝鮮・東ドイツなど、共産主義国に共通の「政府に歯向かう思想や集団は即刻その場で武力鎮圧」というムードが、国の隅々にまで行き届いている。宿泊していた外国人向けのホテルの廊下ですら、政府批判の発言をはばかる空気が流れていた。
しかし、東欧諸国に流れていた”改革の予感”は、ルーマニアの一般市民にも飛び火していたのだ。
ルーマニア西北部のハンガリー国境に近いティミショアラという田舎町で、政府への抗議デモを行なっていた市民の列に、治安警察から制圧の発砲があったと言う。多数の死傷者が出ているという情報もあった。
まだ東ベルリンでも「壁の開放」に続く大騒ぎが続いている中、私たちはルーマニアへの取材突入を計画した。
東ドイツからルーマニアへの航空便は、当然ながら「壁騒ぎ」で運行中止となり、飛んでいない。可能性があるのはルーマニアと関係が深いリビアやスーダンなど、アフリカからのルートだが、あまりに時間がかかりすぎる。高速道路は地続きなので、国境さえ突破できれば、ヨーロッパ中どこからでも行くことはできる。ベルリンからチェコとハンガリーを抜ければ、延べ2000km近くあるだろうが、道がつながっていることは確実で、その可能性にかけるしかない。
ほぼ丸1昼夜。レンタカーのBMWで突っ走った。

(チェコ国境で運転を交代する・後ろはボン支局チーム)

ベルリンに着いたとき、テーゲル空港のHertzでレンタル料の安い車が出払っていて、泣く泣く最高級の735iを借りたのだが、これが幸いした。ものすごい馬力と耐久力があり、時速160kmをキープして14時間連続でぶっ飛ばしても、まったくエンジンがダレない。ヘロヘロになったのは、交代で運転した私とカメラマンの三上だ。
チェコもハンガリーも、国境は規定の「旅行ビザ」料金さえ払えば、入国を許されて通過することができ、ルーマニア国境は既に蜂起した市民の手で、検問所が開放されていた。
日本のテレビ報道関係者ということで、私たちは大歓迎を受けた。集まってきた多くの人々が我々に握手を求め、それに応じるのに結構な時間がかかった。
国境近くの町・アラードに入ったとき、走っている車の右側から乾いた銃声が聞こえた。急停車して周囲を見る。何もない。
しばらくすると前の方から、3人ほどの青年が走ってきて、窓に顔を寄せながら何か切迫した様子で言い始めた。フランス語とドイツ語で質問してみたが、分からないようだ。
英語に切り替えると、青年の一人が理解してくれた。
「治安警察があちこちに隠れていて、通行人を狙撃している。車も狙われる」
「この道以外にブカレストに向かう道はないか?」
「一旦、国境の方に戻って、別の国道を通ったほうがいい」
東京に状況報告の電話を入れたところ、ティミショアラにはロンドン支局長が、ブカレストにはパリ支局長が、既に空路で入って取材を始めていることを知らされた。このままブカレストを我々が目指して、首都だけに取材チームが増えることが、ANNとして効率の良い報道取材になるかどうかは、判断が微妙で難しい。
結局、私たちはアラードで市街戦の模様を撮影し、その素材を持ってハンガリーに戻り、ブダペストから日本に衛星送画することにした。

(負傷者が運び込まれている病院前でリポート)

この2ヶ月で、私は共産主義が終焉を迎える瞬間を、ふたつの国のまさにその真っただ中で、目にすることになった。
(やれやれ、3年足らずのパリ生活で、普通の海外特派員なら任期中に一度も経験できないような事件と、何度も出会ったなぁ)
ところが、これが終わりではなかった。
年が明けて半年が過ぎた1990年8月、イラク軍が突然クウェートに侵攻し、「領土を没収する」と発表した。
露骨な隣国侵略だ。
クウェートの首長はサウジアラビアに亡命し、イラクのサダム・フセイン大統領が「このクウェート併合は恒久的かつ完全である」と全世界に向けて発表した。いわゆる”湾岸危機”の勃発である。
本来ならば、カイロ支局がこの地域の担当責任だが、たった一人で湾岸地域の全てをカバーするのは当然不可能で、応援要員としてヨーロッパ各地の特派員に現地入りの要請が入る。東京のANN外報部が真っ先に指名したのが私だった。
何故か。
記者能力が高かったから…と言いたいところだが、実際はそうではなく、UAEやバーレーンを含むペルシャ湾各国に、直行便が最も多く設定されているのが、シャルル・ド・ゴール空港発のエールフランスだったから。ドバイに至っては1日に6便ぐらい出ている。ハンブルク空港やフランクフルト空港も、中東への直行便がけっこう多いのだが、ドイツにはボン以外の駐在支局がない。
そんなわけで、危機勃発のニュースが流れるやいなや、私は長期出張の支度を始めねばならなかった。

(バーレーン沖のアメリカ海軍艦船を空中撮影)

最後の夏休みに…と計画していた北欧めぐりの家族旅行はオシャカになった。
湾岸危機から翌年1991年の湾岸戦争は、東西対立という思想の衝突構造から、民族主義と地域紛争の台頭という、タイプが全く異なる地球規模での難問に、世界が直面したことを象徴していた。「思想衝突」と「民族対立」という、この揉めごとサイクルは、人類史を長期的に大俯瞰すれば、数千年単位をひとめぐりとして何度も地球上に発生し、我々を悩ませていることがわかる。

3.<冷戦終結から多文化共生へ>

共産主義体制の瓦解は、そのまま自由主義経済の拡大につながるかと思いきや、1990年から10年ほどの間、結構な混乱を世界中にもたらした。
まず、広く浅くながらも”住民全てに平等な社会インフラ・公共サービス”を提供していた社会主義システムが、能力に応じた競争原理という厳しい自由経済ルールに入れ替わり、貧富の急激な格差がいたるところに噴出しはじめた。
富の分配アンバランスと同時に、行き過ぎた民族主義が政府に対する不平不満を吸収し、ユーゴ紛争を筆頭に、世界各地で地域紛争が勃発する。東欧、アフリカ、中東、東南アジアと、地域紛争の炎は地球を舐め尽くした。

(民主化を求めるライプチヒの民衆デモは10万人に膨れ上がった)

社会の不安定は、当然ながら経済の大混乱を伴うわけで、その回復のためには平和維持が相応の時間、確保される必要がある。社会経済の沈下は、階層をまたいだ富の偏在をもたらし、ほとんどの場合で弱者に生活上での著しい緊張と負担を強いることになる。
元来、マルクスが輪郭を作り上げた共産主義は、「すべての市民が平等に社会保障を受けられる」「富と繁栄を国民全体で分け合う」ことを、政治システム化したもののはずだった。しかし、実際には”一握りの党幹部に富が集中”し、何も知らない一般国民が、それを支える構造になっていた。フランス・ロワール河畔にある中世の城のような、ホーネッカーやミッタークの秘密の別荘を、東ベルリン郊外の森の中で目にしたとき、ぼんやりと抱いていた共産主義社会への期待が、全くの幻想だったことを痛烈に思い知った。”幻滅”をリアルに体感した、貴重な経験といえる。
私欲とは、ひとつの政治システムを選ぶだけで、地球上から撲滅できるような、簡単なものではなかったのだ。

社会体制の瓦解は、一般市民の生活を激しくかき乱し、特に学齢期の子供を持つ家庭を苦しめる。安定した教育や情緒発達を幼児・児童に授けるためには、相応にしっかりとした家庭環境が必要であり、「一家の収入を父親が担う」などという古典的な家族の形は、またたくまに崩れ去る。
統一後も、東ドイツと西ドイツとの一般家庭の収入格差は大きく、旧東ドイツの女性や子供たちにかかる”貧困圧力”は、2度の世界大戦で敗戦を経験しているドイツ政府でさえ、救済対応が難しいものだった。今も、ドイツ社会の「東西不均衡」という乱気流は、完全には収まっていないと聞く。

世界的な社会倫理の破綻は、状況次第で民族主義からファシズムに発展する場合があり、大規模なレベルでの世論制御が困難となる。言うまでもなく、こういった紛争の多発で最も被害を受けるのは、現時点での社会弱者である女性と子供たちであり、救いの手があまねく彼らに届くことは難しい。
このような状況下で、多文化社会研究会が日本に生まれたことは、意義深いことだった。政治家にはそれぞれの思想に基づいた社会的立場があり、その立場を基本にして、ものごとを評価し対応しなければならないという、自然発生的な制約を受けている。”弱者の側に立つ”という思想的に巨大な輪郭のスタンスを政策実現に結晶させるためには、あらゆる思想的な立場を超えて莫大な関連情報や構造分析を議論するプラットフォームが必要だったのである。

4.<おわりに>

1989年に生まれた”Global Awareness”という名前の勉強会は、まず太平洋島嶼諸国との交流を通して、とかく内向しがちだった日本の立法・行政と社会制度を、世界標準とするためには何が必要かを考え、さらに難民問題・移民問題の研究へと発展させた。合わせて、それらのテーマの多くに付随していた「家族における女性の役割」が研究カテゴリーとして浮上し、国際結婚や外国人労働力の定着・定住問題とつながった。
さらには、これらの問題から派生的に生まれてくる無国籍就学児童や国籍選択などの、対応が急がれる未解決問題へのアプローチへと、次々に新しい研究テーマの流れが生まれている。
地球上の政治の波乱は、国際社会へ波紋を広げ、当然ながらその荒れ狂う波間に浮かんで翻弄されるのは、”家族”や”就学児”などの、リアルな人間である。
多文化社会研究会は、政治的立場にも学術的部門主義にも囚われない、完全にオープンな団体であり、会員も、学者・研究者・実務者・ジャーナリスト・政治家・主婦・経営者など、あらゆる背景をもったメンバーで構成されている。
経済の浮沈に伴う混乱がしばらく続いた後、日本社会は外国人労働力の導入という、社会制度が近代化されてから初めての局面を迎えている。多文化社会研究会が蓄積し培養している知見と人的資源は、まさにこれから重要な提言・提案を生み出せる枠組みとなるであろう。

また、多文化社会研究会は、ICT時代を迎えて、新しい活動平面にも踏み出そうとしている。
ウェブサイトでの発信はもちろんのこと、SNSなどのコンタクト機会を増やし、さらにはスマホやタブレットなどのICT端末にも、親和性が高いコミュニケーションのプラットフォーム作成を計画している。

(増田が2008年事業化に関わったスマホアプリ「radiko」のロゴ)

それが可能になる背景として、豊富な知識とフィールドワークを行ってきた記録の膨大な蓄積と、その構造分析を緻密に進めてきた人的リソースの分厚さを挙げることができる。あくまで「ソフトウェアのデータベースが十分にある」からこそ、どのようなICTアウトプットに対しても、インターフェイスを調整するだけで、対応することが出来るわけだ。
2020年は、COVID-19という思いがけない災厄が地球全体を覆った。しかし、ここから社会全体を立て直していく途上においても、多文化社会研究会が保有している「多文化共創」という理念と実装手段は、必ずや日本社会・国際社会に大きな力を与えるはずと確信する。

以上

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書き手としてかかわっていく

芹澤 健介
(ライター)

 『コンビニ外国人』という本を書いたことで、識者のはしくれとして移民についての記事やコメントを求められるようになった。しかし、はたして私にそんな資格があるのかと、いまでも自問することが多い。
 自分に専門性がないからとか、学術的なアプローチをとってないから自信がない、という意味ではない。フリーのライターが足で稼いでできることも多少はあるだろうと信じている。ただ、間違ったことを書いていないか、視座が狂ってないか。たまに怖くなる。
  いま、日本で暮らす外国人は260 万人を超えて、ますます増えていく状況にある。ひと口に外国人と言ってもそのステイタスや暮らしの状況はさまざまだ。今後はもっともっと複雑になっていくだろう。私はその変化の速さと複雑さについていけるだろうか。
 先日、茨城県下妻市のペルー料理店に行く機会があった。オーナー夫妻は、ともに日系二世で「茨城で出会って結婚した」が、30 年近く日本で暮らしているにも関わらず、その日本語はやや難ありというレベルだった。細かいことを聞くには、日本育ちの日系三世という娘に通訳を頼まざるを得なかった。こちらのスペイン語は錆びきっており、「皿」という単語を伝えるのも一苦労だった。
「ワタシ、日本語ダメね……」
 彼女の日本語がダメなのは、おそらく彼女のせいではない。彼らが日本人のコミュニティから外れてしまっていることが大きな原因だろう。
店に入ったとき、先客はペルー人ばかりで、珍しいと言わんばかりに注文を取りにきた娘から「日本人ですか?」と聞かれた。店は駅前にあるにも関わらず、近隣のタクシー運転手はその店の存在を知らなかった。
 ごく最近、クルド人の「ネウロズ」という祭を見にいった。国を持たない彼らの新年を祝う祭りだそうだ。荒川沿いの土手の公園で、民族衣装を着た女性たちが輪になって踊っていた。その様子を男たちが遠巻きに見ていた。子どもたちは伝統行事より別の遊びに熱中していた。
 その足で、今度は、四ツ木のエチオピア料理店に向かった。葛飾区にはエチオピア人のコミュニティがあるらしい。日曜の礼拝の後ということもあり、狭い店内はほとんどエチオピア人で埋まっていた。野菜カレーをインジェラという発酵系のクレープで巻いて食べた。日本人用にスプーンもフォークも出てこないのがよかった。
  昼のクルド人も夜のエチオピア人もその多くが難民だ。正確には、難民申請中の仮放免の身だ。そういう人たちがいることを知らない日本人も多い。実際、私も2、3年前まではよく知らなかった。
 日本は、おそらく、今後、急速に国のカタチを変えていく。目に見えて変わる部分もあるだろうし、実態がなかなか見えづらい場合もあるだろう。
 そうした中で、フリーライターの役目があるとすれば、状況をわかりやすく、すこしでも広く伝えていくことかもしれない。多面体の辺や面を構成する人たちのことを、少しずつでも丁寧に書いて、伝えていけたら、と思う。

<プロフィール>
沖縄県生まれ。横浜国立大学経済学部卒。ライター、編集者、構成作家。NHK 国際放送の番組制作にも携わる。長年、日本在住の外国人の問題を取材してきた。2018 年の著書「コンビニ外国人」(新潮社)が新聞・雑誌の書評などで高い評価を受け、ベストセラーに。既刊著書に『血と水の一滴 沖縄に散った青年軍医』、共著に『死後離婚』など多数がある。

(多文化社会研究会「30周年記念誌」より転載)

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「分断」の時代を生きる
― 悩めるメディアの現場から―

下川 進
(NHK 国際放送チーフディレクター)

 Good → very good → very very good → great! Bad → very bad → very very bad → fake! これは、中学生の英語の比較級・最上級の勉強ではありません。毎日世界を振り回している言葉です。
 アメリカのトランプ大統領がツイッターでつぶやく、このように物事を単純に決めつける言葉は、人々を興奮させ、社会を分断し、株価を上げ下げし、戦争の危機を近づけたり遠ざけたりさせています。私は仕事で日々国際ニュースの英語に触れていますが、このような幼稚で挑発的な言葉に世界が反応するため、世界中のメディアが彼のツイッターを日々チェックせざるを得ないというこの状態は異常で、虚しいとしかいいようがありません。
 しかしこれは、かの大統領の品格だけの問題ではありません。いや、世の中の風潮こそが彼を生み出したのかもしれません。米国のみならず、自国第一主義を掲げ反移民を叫ぶ政治勢力が、欧州はじめ各地の選挙で躍進し、多文化共生への拒絶反応、社会の分断、いわゆるリベラル勢力の衰退など、世界に同様の傾向が拡がっています。
 そして日本はどうでしょう。「事実上の移民政策」だと指摘される外国人材の受け入れ拡大のための法律が成立しましたが、人材不足という目前の経済問題を解決したいという観点から急いで進められたものです。日本社会はハード面、そしてコミュニティーや人々の心というソフト面ともに、異文化と共生する準備ができていると言うにはまだまだの状況で、日本も同じような傾向が見られます。
メディアにいて最近強く感じるのは、外国人との共生や隣国との関係などのテーマでは、世論が最近過度に政治化し、政治的スタンスの右、左という単純な二項対立で語られがちであることです。それぞれの論陣は、自らこそ中立で相手は偏っていると断じる。そしてどちらの側もメディアに批判の矛先を向けがちで、「(自分たちが信じる)正しいことを報道せよ」と求める傾向が顕著になっています。また、報道した内容についてだけではなく、なぜこれを報道”しない”のか、という批判も多くなっているのが特徴です。これは、メディアは自分たちの信じる正義を伝えて人々を啓蒙するためのツールだと考える人たちが少なくないからかもしれません。また、ツールという点では、例えば首相の記者会見が、テレビのニュースの開始時刻にあわせて設定されることが多いと感じるのも、偶然ではないはずです。メディアとは何なのか。誰のものなのか。原点にかえって考えたいテーマです。ただ、最低限言えるのは、メディアと言っても多種多様でひと括りにはできず、内容も様々で、むしろそうあることこそが健全なのではないか、ということです。
 分断や対立をどう乗り越えて共生を模索するのか。思い出すのはアフガニスタンでの経験です。私は、現地の子連れの主婦たちに英語で話しかけられて談笑していた時、自警団だという男たちに銃を突き付けられ、「女性と話すな」と恫喝されました。死という言葉が頭をよぎった瞬間でした。このような行為は全く正当化できませんが、彼らの眼差しがあまりに真摯だったことが印象に残っています。その時の彼らにとって私は、彼らの宗教的価値観を破壊しに来た侵略者で、彼らは信じるものを必死に守ろうとしていたのではないかと。民主化を教えてあげる先進国の私たちVS 遅れた考えの人たちという構図で接する限り、共生はありえないと思ったのでした。
 それは今の社会の分断を考える上でも同様です。なぜ共生に拒否反応を示すのか、そもそも共生をしないという選択肢は悪いのか。共生を「啓蒙」するのではなく、反対の立場の人たちの思いも想像できるようになってはじめて、「共創」を模索できるのではないかと。
 多文化研には、30年間の研究の蓄積があります。社会に影響力のある研究者、現場で成功事例を実現している実践者、難民の方、日本で活躍する外国の方々などがたくさんいらっしゃいます。この混沌とした分断の時代、「共創」に向けてどのような知恵を出すことができるのか。皆さんから学びながら、私も考えていきたいと思っています。

<プロフィール>
下川 進(しもかわ すすむ)
NHK 国際放送局チーフディレクター。国内各地のほか、中国など東アジア各国、アフガニスタン、サハリン
などで様々なテーマを取材し、英語TV のキャスターも務めた。自らTV カメラを担いで1 人で取材に走り回っ
た地方での経験が原点。

(多文化社会研究会「30周年記念誌」より転載)

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東京での報道リリース

~効果的な広報のために~

メディアとの接触

                 増田隆一

1 マスメディアの取材構造

事物/催し物の存在を、出来るだけ多くの人に知ってもらうには、ウェブ掲示やメーリングなどに加えて、既存メディアに取材対象として取り上げてもらうことも重要です。

効果的に、マスメディアに情報を流すためには、彼らの情報収集の方法や組織構造を知っていなければなりません。特に日本の新聞・テレビは、その取材システムが欧米に比べて特殊で独特なうえ、一般の方々には知られていない理解が難しい部分も数多くあって、対応には十分な知識を持ったうえで、一定の手順を踏む必要があります。

1.1 新聞の場合

会社の構造ではなく、「メディアとしての取材・発信の組織骨格」に絞って記述します。従って、総務・経理・人事などの説明は除きます。

ほとんどの新聞社は、紙面を作る「編集局」の中に、「整理部」「社会部」「政治部」「経済部」「科学部」「写真部」「生活・文化部」などの取材担当部署が入る構造になっています。事件や事故は「社会部」が担当しますし、金融や企業動向などは「経済部」が原稿を書きます。演劇やテレビ、出版物などの記事を書くのが「生活・文化部」です。人数的には「社会部」が最も大きく、「文化部」は各社とも一番小さい組織のようです。

部のトップはもちろん部長で、その下に数人の「デスク」がいます。各部は新聞紙面内にそれぞれが責任を持つ「社会面」「政治面」「経済面」「文化面」などの紙面があり、デスクは交代勤務で、その日その日の部署の担当紙面について出稿責任を負うわけです。

部内には小さいチーム、例えば社会部なら「警視庁」「東京都庁」、政治部には「首相官邸」「外務省」「総務省」「法務省」「農林水産省」「国土交通省」、経済部には「経産省」「経済同友会」「東京証券取引所」などのチームがあります。当該の場所に取材拠点となる駐在先があって、それぞれを慣習的に「ボックス」と呼び、「警視庁ボックス」「都庁ボックス」などと言います。経済部なら「証券取引所ボックス」「経済同友会ボックス」などでしょう。

これは、それぞれの取材先で記者らが情報を得るための窓口部署(多くは広報部)が、おそらくは余りにマスコミへの対応が煩雑で鬱陶しかったために、「あんたら、ひとまとめになって聞いてくれ。場所をやるから」などというやり取りのすえ、記者らが駐在する部屋を与えて、そこを「記者クラブ」と名付け、それぞれの社を間仕切りのようなもので区切ったことから始まったようです。それぞれの区画が箱みたいなので「ボックス」。この呼び名が学校のクラブの部室にまで及んだと言われています。

それぞれのチームの責任者を「キャップ」と言います。「警視庁キャップ」「官邸キャップ」といった具合です。

編集局の中の「整理部」は、全ての記事をひとまとめにして、新聞全体の構成を考える部署で、学級新聞なら「編集部」になるでしょう。ただ、どの記事を1 面トップに持ってくるか、などは取材現場や編集局長との相談ごとになっています。整理部がたとえば最高検察庁みたいに完全に社内的に独立した権限を持っているわけではありません。それでも、首相の汚職を独占入手したときなどは、政治部に普段の倍以上の紙面を与える、なんていう決断をしなければなりません。これは整理部が決定します。

記事の見出しやレイアウトなどは、整理部がほとんどを決定しています。もちろん、これも現場デスクレベルとの相談になりますが。で、構成上分かりやすいように、小さい項目に分けたり、いくつかの原稿をひとまとめに並べたりなど、視覚上の調整や編集上の工夫などを、取材現場のデスクに伝えるのが仕事です。

「この記事を1 面トップに持ってくるので、600字。リードは150 字。背景の説明を300 字で縦見出し。今後の影響を縦見出しで100 字」などと指示を出します。デスクからは「トップなんだから背景説明に600 よこせ」とか「他にも似た事件があるから囲みをくれ」などと駆け引きがあるでしょう。

記事は「リード」と「本記」から出来ています。

「リード」とは「見出し」の次にある、100 字ほどの記事内容の概要で、テレビのニュースに置き換えるとアナウンサーが顔を出して項目の説明をしている部分に該当します。読者が一目で項目全体の内容がわかるようにしたのがリードです。「本記」は、その詳細な内容説明で、リードとある程度中身が重なることは避けられません。

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リード「今日午後、葛飾区の住宅街で火事があり、アパート1棟と隣接する民家1軒が全焼した。けが人はいなかった。」

本記「今日、午後3 20 分ごろ、葛飾区高砂2丁目の京成本線に近い住宅街で、アパート「板垣荘」の2 階の部屋から火が出て、部屋の住民が消し止める暇もなくアパート全体に燃え広がり…」…

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などという構成になります。

現場の記者は、主に本記を書くのが仕事で、デスクはそれに手を加えたうえで、整理部に提出します。求められればデスクがリードを書きます。もちろん、現場がベテランの場合ならキャップや記者本人がリードも付けた本記を出すこともあります。二人以上の人物が目を通して原稿を作り上げるこの方法は、表現の平準化を図るだけでなく、細かなミスや文章全体を通しての不具合などを避けるためで、たとえ記者歴20 年のベテランが記事を書いていても、若手を含む誰かが必ずその原稿にさらに目を通して、組織的に推敲することが励行されています。

1.2 新聞の出稿時間

新聞は、一暦日の24 時間内に何度も発行されます。また、地域によってもその編集内容は異なっています。多くの新聞社は、東京・大阪・名古屋・福岡に発行拠点を持っていて、それぞれ「東京本社」「大阪本社」「中部本社」「西部本社」などと命名しています。札幌や仙台、松山、広島などにあっても良さそうに思いますが、現時点では「本社」は置かれておらず、それぞれがどこかの出張拠点扱いです。新聞は、それぞれの地域の販売店向けに、順次「版」を作って印刷をします。その日1番に作った版が「第1版」になります。暦日が開始する午前0時以降に最初に作る版は夕刊用になります。朝刊はもう既に印刷にかかっている時間ですので。ところが「1版」は事実上、社内のチェック用のもので、冗談ではなく間違いだらけです。で、それを基に訂正を重ねてようやく外部に出せるような体裁の最初の編集稿が「第3版」です。それぞれの本社の最遠隔地(東京本社なら茨城の端っこや静岡など)に届く夕刊は「第3版」がほとんどです。で、さらに新しいニュースなどを加えて内容を新しくした「第4版」が、ほぼ完成版に近い夕刊ということになります。

朝刊は同様に「第13版」から外部に出て、完成版の朝刊は「第14版」という新聞社がほとんどでしょう。

第13 版に間に合う原稿の締め切り時間は、多くの新聞社で午後9 時頃とされています。もっとも昨今は電子編集が進んで、事件や事故などの「発生もの」では、深夜1 時ごろの原稿でも、朝刊の編集にギリギリ間に合う場合もあるようです。ほんの20年ほど前までは、朝刊での企画記事の締め切りは、前日の19時前後というところが少なくありませんでした。

朝日放送は「藤原鎌足の墓を特定」という大スクープを秘密裡に入手し、10年以上にわたってインタビューや現物撮影などの取材を続け、1987年秋に2時間の特別番組が完成するまで、一緒に調査をしていた研究機関に対して、報道リリースを完全にストップさせていました。

京都大学と奈良文化財研究所が共同記者会見を開いて、全マスコミにその内容をいよいよリリースする、という段になって、朝日放送の敏腕プロデューサーが記者会見を特別番組放送前日の午後17時30分に設定するよう、働きかけたのです。

こうすると、NHKを含めて、テレビの夕方ニュースには「藤原鎌足の墓を発見」という取り敢えずの第1 報しか間に合いません。多くの視聴者は詳しい内容がわからないので「新聞で読もう」と思ったでしょう。一方、新聞社は翌日の朝刊に間に合わせるのが精いっぱいで、内容の細かいチェックなどには手が回りません。こんな大ニュースを一面トップに持っていかないジャーナリストはいないはずで、4 大紙を含めてほとんどの新聞が朝刊の「全面横見出し」「1 面ぶち抜き」で、これを扱いました。

朝刊が出た直後には、朝日放送が全国ネットで2時間の報道特別番組を組んでいましたから、“ 広告代要らずの番組宣伝の特大キャンペーン”が出来たわけです。

視聴率は休日の午前中にも関わらず13%を超え、当時の昭和天皇までもが「自分の先祖なので興味深く拝見しました」と定例会見で述べるという、オマケの光栄を得ました。何せ、その特別番組には、既に死亡していて後追い取材すら不可能な専門家や当事者らのインタビューが、「〇〇年死去」なんていうスーパーと共にぞろぞろ出て来ます。周到に準備されたリリースタイミングだったことは、新聞関係者ならすぐに分かったはずです。

テレビ欄を見て、新聞全社が「しまった!ABCにハメられた!」と思ったでしょう。部長や担当デスクから本記を書いた記者までが、その日の夜には不味~いヤケ酒を飲んだに違いありません。テレビ担当の文化部記者は、爆笑でおヘソをよじらせたかも知れませんが。

マスコミの取材・編集環境や、メディア各社の締め切りと編集現場の状況を知り尽くしていれば、こういう配慮が出来るのです。

「自分の独占コンテンツをニュースとして価値あるものに仕立て上げ、リリースする」せっかくの作品を出来るだけ多くの人に届けるために、この工夫は重要です。

1.3 テレビの場合

テレビやラジオも、新聞社ほどの規模ではありませんが、同様の報道部門を持っています。組織構造もほぼ同じで、「社内のデスク」と「現場の取材拠点」とで構成されています。ほぼ全てのテレビ局で「外勤」「内勤」で通じます。「社会部」「経済部」などの専門部署を持っているのは、在京キー局5 社ぐらいで、地方局は「報道部」の中にせいぜい「経済班」や「医療班」などの内勤記者との兼務チームがある程度でしょう。

拠点となる社外外勤のボックスは、ほぼ新聞社と変わりません。大きく異なるのは、ボックスなどから本社への送稿方法です。新聞社はWiFi とラップトップさえあれば、原稿と写真をどこからでも送れるようになりましたが、テレビは高精細ハイビジョンの映像・音声を送らねばなりません。データ量が膨大なため、ポータブルWiFi などでは性能が良くなったとはいえ、とんでもない時間がかかります。UQ やEO などの光ファイバーの端点(営業所がほとんどです)を利用するのが最先端のようですが、本社も取材先も設備更新がそこまではまだ進んでいないので、今でもボックスに設置されたマイクロ波送信設備や衛星中継車での送画のほか、バイク便でテープやメモリなどの素材を送る原始的な方法が使われています。

「内勤」は、「デスク」と「オンエア担当D」「内勤記者」で構成されています。「デスク」は、その日のニュース項目を構成・決定する権限があります。担当デスクが、予定されていたニュース取材や発生した事件・事故などから項目を決め、扱う長さも決定します。場合によっては全国ニュースになることもあるので、キー局との連絡調整などもデスクの仕事になります。

テレビのニュース枠は大きく分けて「朝0700 ニュース」「昼1130 ニュース」「夕方ワイド」「夜ワイド」の4 回で、少し前までは午後の「355」や夜の「855」などのフラッシュニュースもありました。

これらは基本的に「全国ニュース」で、その中に「ローカルニュース」が3 分から5 分設けられています。夕方ワイドでは5 時ごろから19 時にかけて、全国ニュースの20 分間を除く部分を在阪局で制作しているところが多いようです。ウェブニュースの影響でニュース枠は徐々に減りつつあります。

新聞と違って、テレビは締め切り時間が「ビデオ編集」か「生中継」かで、大きく幅があります。ビデオ編集ならば、遅くともニュース枠の15 分前ぐらいまでには、本社の編集室に映像を送らねばなりません。送画設備があるボックスや支局から送るには、そこに素材を運ぶ必要がありますし、生中継をするためには、当然中継車が現場についてセットアップする時間が必要です。今でも現場にバイクや中継車をどう配置するかが、ニュースデスクの重要な職能になっています。

昔に比べて段違いに準備が素早くなったとはいえ、中継車の現場到着はニュース枠の30 分前がギリギリのタイミングでしょう。車をアンカーで固定して屋根についたパラボラアンテナを赤道上の通信衛星にロックするのに、どんなに手際が良い技術者でも10 分近くはかかるからです。

1.4 情報源としての考え方

新聞・テレビに「ニュース」や「トピックス」として取り上げてもらうためには、単純に概要や説明だけを渡しただけでは、興味を持ってもらうことは難しいでしょう。それが今ぜひとも取り扱うべき内容であることを、理解してもらわねばなりません。

先方はメディア運営者であって掲載内容の取捨選択権限を持ってはいますが、同時に利用者に対して相応の配信責任を負っているわけで、それなりに運営者も利用者も納得がいく“ 情報の十分な付加価値”が必要です。少なくとも「付加価値があるかのように装う」ことは求められます。

と同時に、情報リリースにあたっては、彼らに対する理解と敬意を持っていることが望ましいでしょう。「教えたのだから扱ってくれ」と言わんばかりのニュースリリースが横行している中で、痒い所に手が届く手際の良さと、欲しいツボを押さえた情報の飾りつけが乗った広報文ならば、きっと食いつきがあるはずです。

メディア側の活動環境と業務処理を知ったうえで、「好ましい情報源」として、受け取りやすい形で扱いやすい情報を流すのが、より良い情報リリースになるでしょう。

2 記者クラブ

2.1 記者クラブの役割

前出のとおり、日本の官公庁を含む情報リソースには多くの場合「記者クラブ」があります。名前から何だか親睦会のようにも見えますが、そうではなくて「広報部門が一括して情報を流すための任意団体」のことです。記者クラブのほとんどが自律性・独立性を持っていて、誰もが加入できるというものではありません。

欧米では「プレスルーム」はあっても、「プレスクラブ」はほとんどありません。日本で取材を進めているCNN やBBC やロイターなどは、日本の記者クラブ制度の余りの閉鎖性に驚いています。

踏み込んでいえば、「記者クラブ以外には情報を渡さない」などという日本の警察や役所の対応状況は、報道の自由度の観点から考えると、「まるで北朝鮮か中国のような後進性だ」と海外メディアからは見えるようです。例え小さな村のミニコミ誌であっても、事務局に事前登録さえすれば、フランス大統領府の記者会見には参加することが出来ます。

日本では記者クラブには、一定の条件を満たしていなければ加入することが出来ませんし、仮に条件を満たしていても「一年間は仮登録として記者の人柄を見る」なんていう、アムネスティが聞いたら卒倒しそうな監査期間を設けるクラブもあります。ほとんどの記者クラブでは「新聞協会に所属している新聞社・通信社」「総務省認可の広域テレビ・ラジオ局」に会員資格を限定しています。最近は外国メディアやウェブTV などから抗議が出てきたため、一定の利用者数を条件として、「その他のマスメディア」などという、尺度の曖昧な資格基準を追加するところも出てきたようです。記者クラブが置かれているのは、主として官公庁ですが、社会インフラとして重要な企業や団体にも設置されています。関西電力なら「五月会」、鉄道各社合同の「青灯クラブ」、航空各社と国交省航空局が共同の「おおとりクラブ」などです。

これらはあくまで、「広報部門が情報を流す窓口」にすぎず、それをどう利用・活用するかは、メディア側の裁量になります。

例えば、ある河川で洪水が起きて流出家屋があり、行方不明者が多数出たうえ、流された人々の中に死者が出ている…という災害が起きたとします。

本社の報道デスクとしては、

1. 洪水が起きた県・市町村の役場 → 都庁ク ラブ・県庁クラブ(被害状況)

2. 管轄警察 → 警視庁クラブ・各県警クラブ (死傷者の動向や数、傷病者の搬送先)

3. 河川の氾濫状況 → 国交省(国土建設)記 者クラブ(洪水の規模、道路・河川堤の被害状 況と修復見通し)

4. 鉄道各社 →国交省(交通)記者クラブ、丸の 内記者クラブ(JR・鉄道各社などの被害状況)

などのキャップに、当該情報の入手と本社への報告を、指示しなければなりません。

それぞれの広報部署は、通常はクラブ対応のために情報収集を始めているはずですが、てんやわんやで組織の統一性を欠いていることもたまにあるため、キャップが他社と調整して情報リリースの働きかけをすることもあります。

30 年ほど前までは、気象情報が自由化されていなかったため、気象庁にもクラブがありましたが、現在は民間気象会社が気象庁のウェブサイトやアメダスなどのデータを使って、ある程度自由な気象報道が出来るようになったため、記者クラブは無くなりました。地震や火山噴火などは、東京の気象庁が一元的に情報を流すことになっているため、在京の気象庁記者クラブが対応しています。

2.2東京の記者クラブ

首都圏には、膨大な数の記者クラブがありますが、まず東京に限定して、主なものを列挙します。

1. 東京都庁記者クラブ=東京都庁、東京都の発表事項や関連団体(都議会や経済団体など)が

情報を流しています。

2. 内閣記者クラブ=永田町国会内、政府と関連団体

3. 衆議院記者クラブ/参議院記者クラブ=国会運営や各種委員会、国会行事などの情報

4. 国税庁記者クラブ=国税など

5. 霞ヶ関の各省庁記者クラブ=それぞれの省庁の所轄情報

6. 科学記者クラブ=学術団体の情報、研究内容など

7. 金融記者クラブ=日本銀行内、長期金利や日銀政策など金融関連情報

8. 体協記者クラブ=スポーツに関連する情報全て

9. 丸の内記者クラブ= JR 東日本本社内、JR けでなく他の鉄道全社も利用しています

10. 警視庁記者クラブ=警察関係の事件・事故

11. 科学記者クラブ/学術記者クラブ=科学技術、学術関係の情報

12. 東京航空記者クラブ=航空・旅行関係

13. 情報通信記者クラブ=携帯電話各社の情報

これらのほかにも、沢山の記者クラブがありますが、全部の記者クラブに別々の人物を配置することは、4 大紙でも無理で、大抵は一人の記者がいくつかのクラブを兼務しています。霞ヶ関の各省庁などでの兼務は余りないようですが、「経済産業・財務」とか「法務・警視庁」とか「文部科学・総務省」とかは新聞社でもテレビでも、普通に兼務しています。兼務記者はそれぞれメインのクラブの仕事を消化しながら、これらの記者クラブを巡回して「大事な情報の抜け落ちがないかな?」と探すわけです。

東京だけでなく、神奈川や千葉にも同様の「県庁記者クラブ」「県警記者クラブ」「地裁記者クラブ」などが、ほぼ同じ規模であります。これらはそれぞれの支局がカバーすることになっていますが、当然ながら記者の人数が東京本社ほど多くないので、支局員の記者らは、とんでもない数のクラブ員を兼務せざるを得ないのが現実です。

それぞれの記者クラブは、対応相手である部署(警視庁なら総務部広報課、都庁記者クラブなら東京都政策企画局戦略広報部)に対して代表となる「幹事社」があります。幹事社は持ち回りになっていて、クラブによって「3か月おき」とか「半年おき」に変わります。テレビならチャンネル順とか新聞なら「朝毎読産」順とかです。広報は、メディアとの交渉ごとを幹事社相手にすれば良いわけで、手間が省けるのです。

例えば警察なら、誘拐事件が発生してメディアにそれを流されると捜査や被害者の安全に支障があると思われる場合、記者クラブと警察広報が報道自粛の協定(業界用語では“ 報道協定=しばり”と言います)を結んで、十分な捜査状況の情報提供を時々刻々と実施する代わりに、警察が事件解決と判断するまでは、記者クラブ加盟各社が事件の報道を控えることがあります。この交渉を記者クラブ全社に対して行う必要がなく、広報は幹事社に「しばりをお願いしたいんだが」と切り出せば良いわけです。

このシステムには、欧米で最も大切にされている「報道の自由」に、深刻な制限を加えている恐れがあり、いかにも「和を尊ぶ」日本的な面もある一方、ジャーナリズムとしては自殺行為ではないかという見方もあります。

皇太子妃が小和田雅子さんに決定する少し前、旧華族や有力企業の令嬢などが候補者として上がるたびに、マスコミが限度を超えた取材合戦をかけ、うんざりした候補者らが相次いで「お断りします」と引きまくったため、頭を抱えた宮内庁が記者クラブ以外のメディア全体に「報道協定」を超えた統制を呼び掛けたことがありました。「和を尊ぶ」日本のマスコミ各社は、一斉に取材を手控えたのですが、日本の記者クラブには属していないアメリカのワシントンポストが「皇太子妃は小和田雅子に決定」というスクープを報じ、日本のマスコミ全体が自らの間抜けさ加減にショボーンとなったものです。

2.3 「投げ込み」について

外部の団体や企業が、記者クラブに対して情報提供することを「リリース」とか「投げ込み」と言います。基本的にはどんな団体・企業でも、メディアに対して情報提供することは自由なはずなのですが、全くの第三者というか、その記者クラブに無関係な団体が情報リリースをすることは極めて稀で、余り前例がありません。この辺りが、海外メディアから「記者クラブとは何と閉鎖的な」と不審がられるところです。

「投げ込み」をするには、必ず「事前通告」が必要です。規則はクラブによって異なりますが、一般的には投げ込み日の三日から四日前の17時までに、投げ込みの内容についての申し込み=事前通告を文書でしなければなりません。

事前通告は多くの場合ファクスかe メールかが義務付けられていて、記者クラブの庶務(大抵はバイト学生)電話番号あてに通告が届いたかどうかの連絡をして、「投げ込みをして頂いて結構です」という返事を庶務か幹事社からもらえればOK です。電話連絡だけでは不可とするところがほとんどだと思います。

例えば、劇団が公演予定や主宰者の記者会見予定などについて、大阪府警記者クラブに投げ込みの事前通告をした場合、「???」となった庶務担当から「こちらにはなじまない内容だと思います」と返事されたりとか、幹事社が「ひょっとして、このネタなら〇〇クラブのほうが良いんじゃないですか?」などとアドバイスしてくれたりします。

投げ込みされた「ニュースの材料」は、本社に送られて「取材予定デスク」がその素材をニュースとして取材するかどうかを判断します。もちろん、現場の記者が本社に報告もせず、個人的に取材しに来てくれることもあるのですが、本社の編集局が知らないということは、前提として紙面に反映される予定が決まっていないということなので、突然現場から「こんな面白いネタがありました」と報告があっても、紙面に反映されるのは難しいと言えましょう。

一般的には、本社に集まってきた投げ込み=「ニュースネタの予定」は、取材予定デスクが一元管理していて、紙面に反映するかどうか以前に「取材するかどうか」の判断をし、先々のカレンダーに貼り付けて「取材予定リスト」を作ります。その日その日の「取材予定リスト」=一覧表は全社内で共有され、整理部が紙面を作りやすいようにするのです。投げ込みは、マスコミ各社の「取材予定表」の中に、その日の取材項目として取り上げられるための、最初の一歩になるのです。

3 情報リリースの技術

3.1 直接郵送

情報提供は当然ながら、普通に新聞社など宛てに郵便で送ることも可能です。関西放送記者クラブや関西レジャー記者クラブに加盟している会社の「文化部取材予定デスク御中」や「芸術担当記者御中」などと宛名書きして送れば良いのですが、残念なことにこういう取材依頼の郵便物は圧倒的に量が多いので、余程のこと(差出人が有力政治家や超有名俳優など)がない限り、肝心の担当記者の目に止まることが期待できません。

こういった「新聞社宛ての郵便物」は、取材予定を組んでいるデスクかキャップクラスの記者が目を通すことになってはいますが、何せ毎日数十通以上はあるために、作業が取捨選択ではなくて、「基本はゴミ箱直行」というスタンスで行われているからです。

“ 重要な情報提供”とかの朱書きが表にあるので、何だろう?と開けてみると、町内会の老人イベントへの取材依頼だったりするわけで、デスクらは来る日も来る日もこういう封筒を開けることに、うんざりしているのです。

また、「しっかりした情報源なら、記者クラブにネタとして流れるはずだ」という思い込みがあることも、この取材予定デスクの郵便物開封作業を拒否型のスクリーニングにしています。

3.2 記者クラブへの投げ込み

前章で書いた通り、そのイベント内容を主なフィールドとして扱っている記者クラブへの情報提供が、マスコミ側にすれば最も心理的な抵抗がなく「記事ネタの候補として扱う」可能性が高いと言えます。例えば、在阪劇団の公演予定や新しいイベント企画などを広報するためには、「大阪科学・大学記者クラブ」や「関西レジャー記者クラブ」、あるいは「関西放送記者クラブ」などが親和性が高いので、投げ込みの効果で記事掲載が期待できると言えましょう。

大阪以外でも、例えば京都のイベントスペースを使っての公演なら、京都市役所クラブであるとか、京都府政記者会であるとか、別途の投げ込みも大阪と並行して行うと、地元紙(京都新聞・KBS 京都・αステーションなど)が好反応を示すと思われます。同様に、神戸でイベントを行うなら在阪記者会に加えて、神戸市役所クラブや兵庫県政記者会などリリースすることが、神戸新聞やKISSFM などにも情報が流れて、集客効果が上がるはずです。

「投げ込み=リリース」の文書は、一般的には次のようなものです。

  1.  日付(情報解禁日があるならば「〇月〇日〇時解禁」と付記)
  2.  リリース主体社名
  3.  タイトル(リリース内容)
  4.  リード
  5.  本記
  6.  参考資料
  7.  リリース先記者クラブ(複数の記者クラブに投げ込む場合)
  8.  問い合わせ先=責任者名・会社電話番号・eメールアドレス・緊急電話番号できればA4 サイズ1 枚に収まるのがベストです。

同じ情報が別のクラブにも流れる場合、前出の「記者クラブへの投げ込み事前通告」の際にも、その「同じリリースが流れる記者クラブ一覧」を事前通告の文書に含めておく必要があります。というのは、「いったいどのボックスがこのネタを担当するか」が、社によって異なるためです。もちろん、その日の忙しさの違いで本記の担当が変わることもあります。

いずれにせよ、本社の取材予定デスクが「複数のボックスが同じネタを追いかけている」ことを避ける配慮が出来るように、事前にリリース先の一覧を渡しておくと、「行き届いた情報源だ」との印象を与えることが出来るはずです。

「投げ込み」そのものは、事前通告した予定当日に、原則として記者クラブに直接赴き、各社のボックスに「リリース文書」を一部ずつ配布して回ります。場合によっては、記者側から「本社用にもう一部下さい」などと言われることもあります。

記者が複数名駐在しているような社もあるので、記者クラブの加盟社数に加えて、同数程度の刷り増しをしておき、庶務席の近くの「リリース置き場」があるはずなので、そこに積み上げて置きます。必要な社があれば、そこからご自由にお持ちください、というわけです。

「投げ込み」は、クラブに所属している記者らと、直接顔を合わせて挨拶出来る機会です。名刺交換しておくのも後々必ず役に立ちますし、会話することで交際のきっかけが出来ます。直接の頼みごとや相談などが出来るような信頼関係を、普段から記者クラブに顔を出して築いておくことが大切です。

3.3 イベント招待

これは現在でも「関係者招待」として行われてはいますが、事前にマスコミのどこかと交渉して「記事掲載と引き換えに関係者を招待」という勧誘を行うことは、PR に効果があります。この場合、当然ながら「独占排他的なスタンス」を与えることが最も強烈で、相手の興味も一律全社に招待が行くよりも、熱心になってくれる可能性が上がります。

また、ゲネプロや稽古風景から取材を受けて、「舞台が出来上がるまでをドキュメンタリーにしてもらえないか」という形のアプローチも可能です。こういった話は、記者との日常的な信頼関係が構築されていなければ、なかなか飛び込みで持ちかけても、良い反応が得られるとは限りません。

記者との強いつながりを、普段から「記者クラブ廻り」などで培養しておくことが、プロデューサーや劇団主宰者には、重要と思われます。

3.4 独占企画

前出のような招待企画だけでなく、ある1 社に何らかの取材上での付加価値を独占排他的に与え、情報提供を許す方法があります。例えば、何らかのイベントの実施期日だけでは独占情報としてインパクトが薄い場合、主なタレントの成長過程や公演企画から公演実施までの舞台裏を、取材対象として提示する、などです。

興味を持った社が大きなアドバンスを得る一方、その他の社との信頼関係には距離感が出てしまうため、記者クラブ全体に対して、平素から十分な地盤培養行為を行ってから、独占企画を持ちかけるべきと言えます。

3.5 編集部訪問

スポーツ紙がよくやる方法で、「タレントの編集部訪問」があります。ほとんどの場合が、美麗な若い女性タレントで、特にグラビア系・モデル系は大歓迎されます。

もちろん、訪問には「〇〇日にDVD 発売」とか「写真集が完成」などの宣伝材料があるわけで、単なる自己紹介だけでは大きく紙面を割いてはもらえません。

こういう企画は、記者クラブへの投げ込みでは難しく、直接文化面担当記者と話し合って日時調整をしておく必要があります。そのためにも、記者クラブとは日常的な信頼関係を醸成しておかねばなりません。

3.6 記者会見の設定

大きな出来事やイベントならば、投げ込みだけでなく、記者会見を設定することも効果があります。

手順は投げ込みと同様に、記者会見で集まって欲しい対象の記者クラブに対して、「〇月〇日〇〇時に、××で記者会見」という事前通告をして、その内容をネタバレしない程度の説明を加えて、リリースしておけばOK です。

4 広報対応と取材現場

4.1 取材メディアと広報

報道リリースを行なうのは、多くの場合私人ではなくて企業か団体ですから、メディア側が誰に問い合わせをすれば良いのかを、相手に知らせておく必要があります。

部署を特に置いていない場合には、「広報担当者」でも構いません。

ただ、緊急の連絡にも対応しなければならないケースもあるので、複数の問い合わせ先を持っていたほうが良いでしょう。

紙面を印刷し始める寸前に、記事の内容で確認したいことが出てきた場合など、記者がどこに連絡すれば確実かを知っている必要があるからです。

取材陣と広報は、対立しあう間柄ではなくて、報道を一緒に進める仲間だ、と先方にも思わせ、自分たちもそう認識することが、円滑な情報リリースのカギとなります。

4.2 情報リリースの意味

情報リリースは、特にエンターテイメントの世界では、大きな市場を押さえることが、純粋に作品の質が良い場合でさえ難しくなっている今、極めて重要かつ有効な市場開拓手段です。既出のように、リリースの手順や取材陣の組織構造が複雑で煩雑ですが、十分に理解して対応すれば、大きな宣伝効果と事業拡大の可能性を広げることが出来るでしょう。

参考文献

[1]  山見博康

『絵解き 広報活動のすべて』

(PHP 研究所,2005)

[2]  安藤光展、猪又陽一、江田健二

『CSR デジタルコミュニケーション入門』

(good.book,2016)

[3]  酒井冨士子

『広報とプレスの仕事する』

(秀和システム,2008)