多文化研フォーラム21・2020・5・16

トンガとの関わり30年を振り返って
―報告内容―
トンガに関するわが国の研究成果から
―その半世紀の歩み―
中 本 博 皓
はじめに
1)本稿で用いている「文献」とは、主として調査・研究上の拠り所となる書物を意味しています。ここ言う「文献」のカテゴリーの中には、一般にいうドキュメントの類は含めていません。確かに、ドキュメントには、伝達手段(媒体)として記録された文書(書簡も含めて)、文書ファイル、録画、また広い意味での資料等一般を総称して用いられていることが多いように思いますが、本稿で言う「文献」の中には含めていません。
本稿で用います「文献」とは、調査・研究等を進めて行く主体が、知りたいと考える特定のテーマなり事柄等について、考察する上での拠り所、あるいは確かな根拠となり得る書物や資料(Research materials)、そして論集(Academic papers)等の雑誌(Academic journal)に掲載されているペーパーを総称したものと定義しておきます。
2)わが国におけるトンガ1)研究は、南太平洋上の島嶼国トンガの民族、国家・国土、そこに築かれた政治、経済、社会の仕組み、そして民族が育んだ文化など、様々な分野を対象に、多様な研究が行われてきました。それらの研究成果を振り返って見ますと、先ず一つ目は、(1)ポリネシア民族、あるいは広くオセアニア民族というように大きな地域カテゴリーの中で、たとえばトンガ王国研究ならば、トンガ民族が築いてきた独自の文化を軸に、人びとの社会的、文化的行動を実証的に解明する学問として形成された文化人類学的分野からアプローチした研究成果があります。
二つ目は、(2)フィールドワーク(参与観察)を通して、今を生きる様々な島嶼民族の暮らし(生活)の中で蓄積されてきた習慣や制度など、日々の行動の在り様を具体的に検討し、分析して記述的に著わした、いわゆる民族誌学(ethnography)的にアプローチした研究成果もあります。
三つ目は、(3)「社会」という人間集団を中心に、長期滞在型の観察によって体験的に考察する学問、すなわち「社会人類学」の分野に関わるテーマを掲げて取り組んでいるケースからアウトプットされた成果も少なくないように考えられます。
四つ目は、(4)家族、世帯、あるいは親族、そして個々人の行動と国家との関わりや政治的あるいは経済的要因によって生じる諸問題を考察し、それらの特質を明らかにするような研究も行われています。これらの研究や研究成果の何れもが、民族誌学的な性格から切り離して考えることは出来ないように思います。しかもそれらのどれもが人類学という学問の大きなカテゴリーに入ると考えてもいいように思います。
一つ大切なことがあります。それは、86年(1934年創立)の長い歴史を有する「日本民族学会」が、2004年4月1日付で「日本文化人類学会」に改称したことです。
わが国の南太平洋島嶼研究は、民族誌や民族学の立場から行われてきた事例が多いのですが、上述の学会の流れを前提にしますと、見方は多様だとは思いますが、わが国の島嶼研究のほとんどは、文化人類学のカテゴリーで考えてよさそうです。
3)それでは、ここで文化人類学とは、またその特性とは、どのように説明される学問なのか、少しばかり考えてみます。
日本学術会議人類学分科会(2014)は、文化人類学の定義に先だって、人類学とは何か、を問い、「人類学は、言語・象徴能力を有する生物的かつ社会的存在としての人間を対象とする学問である。人間の多様性と共通性を考察の対象とし、全体的な把握と比較の観点を根拠にしつつ、批判的で内省的な研究を目指している」、それが人類学だと説いています。
引用文中に「象徴能力を有する、云々」とありますが、大変難しい用語だと思います。おそらく他の生物にはない何か抽象的な物事をイメージして、それを具体的に示せるあるいは言い換えられる能力、たとえば「平和」という文字を見て、『鳩』のいろいろな役割、動作、情景を思い浮かべられる能力、それが人間の有する「象徴能力」なのかも知れません。
そして、人類学の中で、とくに人間の生物としての特性について研究する学問が「自然人類学」であると考え、「人間の社会的存在としての特性を多様な文化の観点から研究するのが文化人類学である」と規定しています。
4)日本学術会議人類学分科会(2014)では、『参与観察』の手法を用いて、「現地での長期にわたる調査(フィールドワーク)に基づいて、ひとつの社会の人びとの生活のあらゆる側面を全体的(ホリスティック)に把握しようとする民族誌的研究と、それらを世界規模で比較して共通点と差異を見出し、それぞれの文化の特性を浮かび上がらせ文化間比較を、研究の両輪として展開」する学問、それが文化人類学であると定義しています。
また、文化人類学の特性に関しては、次のように述べています。すなわち、文化人類学が「人間の社会行動のほとんどすべての様相を研究し、その対象は親族関係から物質文化、認識、経済、政治、宗教にまで及ぶ」ものだとしています。
かくして、「文化人類学者は人間同士や人間と他の動物、神々、あるいは機械などの人工物との相互作用に焦点を当て、小さな地域コミュニティから大都市に至るまでの社会生活の様相を調査し、個人の経歴から、国民、そして国境を越えたネットワークまでを考察の対象」として、研究を行っていることを前提にしますと、文化人類学とは、マルティディシプリナリー(multidisciplinary)な特性を有する学問として位置付けることが可能であると考えられます。
5)もう一つ、大まかにいえば、自然人類学的な分野に入ると思うのですが、昨今、形質人類学分野の研究も注目されています。わが国では、きわめて専門的な分野になりますが、グローバルな地域を対象とした民族の形質の特性を考察する上では、敢えて五つ目の分野の研究として、形質人類学的な研究分野も挙げておくことが必要かと考えます。
したがって、(5)ある特定の南太平洋島嶼民族の身体的特徴と他の島嶼民族の身体的特徴、たとえば皮膚、眼の色、毛髪の色や形状、身長や頭型など、人類の身体的な形質の特徴を生物学的側面からアプローチし、比較研究するのが形質人類学的分野の研究です。
わが国のこの分野の研究は、1980年代から90年代にかけて、片山一道のポリネシア人の身体特徴に言及した成果が発表されています。すなわち、「ポリネシア人の身体的特徴に探るその(一)〜その(三)」(『ポリネシア人-石器時代の遠洋航海者たち』・同朋舎出版・1991年、67-192頁)、「南太平洋に住むビックボーンの人たち」(『古人骨は生きている』(角川選書344・2002年、53-60頁)や片山の訳書で、ポリネシア人研究の成果、フィリップ・ホートンの『南太平洋の人類誌-クック船長の見た人々』(平凡社、2000)などが挙げられます。
6)ここ数十年ないし半世紀の間に、わが国における目ぼしいトンガ研究の成果について、順を追って精査して見ますと、上述した中では(1)と(2)の分野に集中しています。本稿では、主として、研究成果の多い二番目、(2)の文化人類学分野(「民族誌」ないし「民族学」的分野を含めて)の成果を踏まえて、ここ半世紀というか、およそ数十年(1960年代以降)におよぶトンガ研究から、以下筆者の目に留まった若干の文献をサーベイしつつ、半世紀のトンガ研究の歩みというか、その軌跡を追ってみることにしました。
第1章 1960~1990年の成果
(1)
1)1960年頃までは、まだまだ、オセアニア*にはどんな国や島があるのか、三つのネシア、ポリネシア、メラネシア、そしてミクロネシアにどんな国々島々があるのか、それぞれの民族の違いなど、わたくし自身も十分に理解していませんでした。
トンガ王国がどこにあるのかなど問われても、分らない人々も多かったに違いないと思います。ましてや、トンガ王国の土地制度、村落社会の仕組みや習慣などになりますと、実証的に研究している専門家でもないと、中々一般の人には縁遠い話のように思います。
日本人に分り易い太平洋の概念というか、概括的な理解のし易さからいいますと、(赤道を挟んで南北緯度10度くらいの太平洋上の海域に散在している)熱帯の島々、または(ひと世代前の昔なら)「南洋諸島」と表現した方が分り易かったと思います。その理由は、わが国の人びとの目が、大雑把な言い方になりますが、開国以来長い間、オセアニアの国々、太平洋の島々よりも、欧米先進諸国の方に向いていたからではないかと思います。
*本稿で、オセアニア(Oceania)とは、オーストラリア大陸、ニュージーランドを含むポリネシア、ニューギニアを含むメラネシア、そしてミクロネシアの全体を指すものとします。
2)本稿では、イギリスの保護領下で、サローテ・トゥポウ3世(在位:1918-1965)の末期(1960年代)から、トゥポウ4世(在位:1965-2006)全盛の1990年代にかけて、わが国で刊行されたトンガ王国に関するホリスティックな書物とでも言いますか、いわゆるトンガ王国研究の先鞭を切ったと考えられる以下の4点を取り上げ、その内容をひも解いて見ることにしました。
もちろん、以下に掲げた4点以外にも、ポリネシアの島嶼諸国に関する民族学的にアプローチした文献はかなり多く見受けられます。しかしそれらのどれもが、トンガ王国一国だけを研究対象としたものではなく、南太平洋の島々について、その社会制度の特性等、各論的に取り上げたものが多いように思います。
一例を挙げますと、石川栄吉(1925-2005)の『オセアニア』(大明堂、1983年)では、全体が12の「章」に分けられていますが、大半がオーストラリアとニュージーランドに充てられ、トンガ王国に関しては土地制度だけを取り上げ、詳細に言及されていますが、一つの「章」があてがわれているに過ぎません。
1990年代に入りますと、石川栄吉監修全3巻『オセアニア①~③』(東京大学出版会、1993)を始め、北大路弘信・北大路百合子の『オセアニア現代史オーストラリア・太平洋諸島』(山川出版社、1994)、大塚柳太郎編『モンゴロイドの地球〔2〕南太平洋との出会い』(東京大学出版会、1995)等々、研究の対象が国別から地域別に変わって来たように考えられます。
3)さて、トンガに関する現地・現場主義と言いますか、フィールドワークに徹した実証研究の成果をまとめた文献として、本稿では、次の文献①~④を挙げることにしました。理由は、それらが、きわめて数少ない貴重な実証研究であり、わたくしにとってもまた、①~④の何れもが先行研究であると考えられるからです。
その一つが、薮内芳彦(1912-1980)の文献①『トンガ王国探検記』(角川書店、1963(昭和38)年)です。二つ目は、同じ著者の②『ポリネシア-家族・土地・住居-』(大明堂、1967(昭和42)年)を挙げることができます。文献②は、一国に絞ったトンガ研究の成果ではありませんが、トンガ王国を中心に言及しつつ、広くポリネシアの文化と社会について研究したものです。その意味で敢えて、薮内の文献②を本稿では、トンガ王国研究にとっての先行研究の一つとして位置付けた次第です。
4)次に、ほぼ同時期の研究成果の三つ目として、青柳真智子(1930- )の③『秘境トンガ王国』(二見書房、1964(昭和39)年)、そして四つ目として同じ著者(青柳まちこ)の④『トンガの社会と文化』(三一書房、1991年)を挙げることにしました。これら①~④の文献の共通性は、いずれも現地に数か月間に及ぶ滞在によって民族誌学の立場からフィールドワークを重ねた結果、生まれた実証的研究成果だという点にあります。
研究の対象は一国から地域へ広がりますが、五つ目に挙げたい文献が石川栄吉(1925-2005)の⑤『南太平洋―民族学的研究―』(角川書店、1979年)であります。
もう一つ挙げておきたい文献があります。時代は少し遡ることになるのですが、敢えて六つめとして、小林織之助(1894- )の『南太平洋諸島』(統正社、昭和17年)を文献⑥として挙げたいと思います。
小林が文献⑥『南太平洋諸島』の第六篇(387頁-477頁)で、90頁に亘って展開したトンガ論は、英国保護領時代を知る上での「トンガ王国論」(「英領トンガ群島トンガタブ島ヌクアロファ」)と称すべき内容であり、トンガ王国文献の貴重な一冊と考えるからです。
英語が堪能だった小林は、米国遊学から帰国して1925(大正14)年7月神奈川県庁外事課に入庁し、1935(昭和10)年6月神奈川県庁外事課を辞し、南洋庁の通訳生として同庁に入庁しました。1939(昭和14)年6月、太平洋諸島の通訳を兼ねて視察を命ぜられ、現地に赴き、調査に携わった成果が文献⑥と考えられます。
小林には、本書(文献⑥)の他、『東印度及豪州の点描』(統正社、1942年)などの著書があります。
(2)
1)以下、薮内芳彦の文献①から順次取り上げることにします。文献①は、いまから56年、半世紀以上前に角川書店から刊行されており、書籍としては、わが国におけるトンガ王国研究としては草分け的な成果といえます。と同時に①は、京都大学探検部「水軍」派の学生らの「遠い南の島へ、赤道の彼方の島へ行こう」という熱望から実現した、いわば「南太平洋探検」の成果でもありまです。
また、文献①は、水軍派の隊長薮内が、約数か月の準備期間と約半年間の現地滞在による実地調査に基づいて書き下ろした、実証的なトンガ王国論と称すべき実態報告書と位置付けることができる文献だと考えられます。
「探検」に参画した薮内隊長(当時、大阪市立大学教授)はじめ隊員(総勢7人、平均年齢28歳)らの専攻は、地理学、人間生態学、植物学、教育社会学、考古学、そして農業土木と多岐にわたっていますが、探検隊が旗印として掲げた研究テーマは、「熱帯ポリネシアにおける人類生態学的研究」でした。
本書(文献①)では、トンガ王国の先史的部分に言及した記述もありますが、中核を成す諸章は、トンガ王国の割当農地(アピウタ)や割当宅地(アピコロ)など、王国特有の土地制度に関する精緻な調査と、天領・私領の考え方を導入した叙述の手法は、きわめて斬新です。
また、探検隊員の一部がエウア島に渡り、巨人骨の探索・調査を行った文脈の記述は、読者を惹き付けて離さない面白さすら感じられます。
文献➀は新書版ですが、薮内は、限られたスペースの中で、トンガ王国の社会秩序を考える上で重要な「階級制(王・貴族・マタプレ・平民)」や君主制政治の特性にも要領よく言及しています。
2)薮内は、文献①の「まえがき」で、平均年齢「二十八歳という若さであっただけに、その一人一人が何を見、何を感じ、何を考えたか、という理屈の問題も記載すべき重要な事柄にちがいないと思うのですが、土地と社会の関係から生まれる人間生態の客観的な記述を基本的な習性として育てられた地理学者の職業意識が、無意識のうちに強く表面にですぎてしまったために、探検記とはしたものの、調査気風のものになってしまった」(4頁)、と反省の弁を書いています。しかしそれが、読者であるわれわれに南太平洋諸島に、限りない関心を抱かせるものになっているように思うのです。
本書(文献①)は、新書版ではありますが、全体は10章(Ⅰ〜Ⅹ)から構成されています。そしてどの章からも、トンガ諸島に暮らしている人々の息づかいが、読む者に伝わってくるように生き生きと描き出されています。トンガが女性優位の社会秩序を有している国であることについては、Ⅳ章「貴族と女の国」で詳述されています。
トンガ社会の秩序は、王朝がそうであるように、一つは家族制度における「兄から弟へ、という一本の太い、年齢による秩序」があり、もう一つは「女性の地位が男性より高い」という建前が秩序として社会を維持していると記しています。
しかし、薮内は「トンガではもともとヨーロッパ的な意味における家族というものがなく、家族というトンガ語は今日ファミリーという英語の外来語がそのまま用いられており、本来の生活の単位はもっと広いエックステンデッド・ファミリーにあたるマタカリであったといわれる」と、説明しています。
3)Ⅴ章ではトンガ人の家族の「暮らしの生態」に言及し、Ⅵ章では人の「一生」をテーマに、トンガの「割礼」の儀式について「少年の試練」として取り上げています。「割礼」は、宗教上の儀式として慣習的行われる一つの文化と考えることができます。「割礼」の儀式を有する国は、トンガやフィジーなどポリネシア圏、メラネシア圏などの国々においてごく自然に存在しています。
一方、アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、イタリアなど欧米諸国でも一部では行われていますが、トンガにおける宗教的儀式としての割礼ではなく、昔は兎も角、近年では、衛生面からの医療行為的なサーカムシジョン(circumcision),環状切開術として、普通に行われている国や地域は多いと言われています。
日本では殆ど関心を持たれていないように思いますが、しかし男の子を持つ母親のごく稀にですが、衛生面から医療行為によるわが子のサーカムシジョンを考えたことのある方もおられるのではないかと思います。
薮内は、トンガでは、「男子はすべて割礼を受けねばならなかったが、今日もまったくそうだ」(文献①126頁)と述べています。また、薮内は、トンガをはじめ広くオセアニアの島嶼諸国でも 最近はODAなどで、先進国並みの医療施設が整って来ていることもあって、該当年齢に達した男子(12、3歳から15歳)は、病院に入院し、医師によって行われ、退院すると、家族で祝うようになった(文献①128頁)、と記しています。
割礼が、トンガ王国における一種の宗教儀式であることを考えれば、このような変化は、トンガ民族にとって大きな意識改革と言えなくはないようです。
4)次に薮内は、1966(昭和42)年、二つ目の文献②『ポリネシア-家族・土地・住居-』を刊行しています。文献②は、トンガ諸島、サモア諸島とともに、本来ならメラネシア地域に属する筈のフィジー諸島を敢えて本書の中に加えて全体を組み立てています。
その理由を考察して言えますことは、「フィジー諸島の住民はロツーマ島を除いて大部分本来のメラネシア人であって、従来からポリネシアには包含されていないが、文化的、また人種的にはポリネシアからの影響が大きい。とくに19世紀半ば以来、トンガの名将マアフが足跡を印したところはほとんど全フィジー諸島におよび、最北に位置するロツーマ島でさえ一時彼の支配下にあり、ことにトンガに近いラウ群島やモアラ群島は古くから、トンガ人の移住者が多い。したがって、トンガ、サモア、フィジー地域はメラネシア的な、またポリネシア的な文化が混交している」(『ポリネシア』65頁)こともあって、薮内は、トンガの文化やサモアの文化との比較を試みる上で、ポリネシアの枠組みでフィジー諸島を扱ったのではないかと考えられます。
5)文献②では。文献➀との違いが際立っています。全体としては、ポリネシアの島嶼の根幹に関わる人と土地の問題を、それぞれの家族や親族の制度とそれらの土地所有や土地利用の制度とを関係づけて考察しています。また、薮内は、文献②を著述するにあたって、文献①における「探検的調査」の他に、2回に亘る西ポリネシア地域の調査を実施しています。その際の調査資料に基づいた研究の成果が、本書(文献②)『ポリネシア-家族・土地・住居-』であると考えられます。
前述の4)でも述べましたように、文献②においては、とくにトンガ諸島、サモア諸島、そして本来ならばポリネシアには入る筈のないメラネシアのフィジー諸島を敢えて加えて、それぞれの村落社会および経済の基本構造の特性の比較を容易にしています。
トンガ王国を始め、ポリネシアの島嶼民族の暮らしについて、家族・土地・住居の3点との関わりから、家族制度、身分制度、そして土地制度に、著者が専門とする人文地理学的な観点に立脚した見解も加え、その実態を分析的に考察した内容であり、かつ文脈となっていることが本書の全体を通して窺えます。
また本書(文献②)のⅦ章では、「ポリネシアの土地制度と政治権力機構」について、トンガ王国とサモア、そしてハワイとタヒチの諸島を取り上げて検討しています。ポリネシアの島々すべてが首長制度の下で、きわめて厳しい階級制と身分制をとっていることを明らかにし、その上で、何故ある島々では立憲君主制ないし王制をとり、他の島々ではそれが発展しなかったかについても言及しています。
6)薮内芳彦(1912ー1980)は、和歌山県出身、専門は、人文地理学、1976年大阪市立大学定年退官、名誉教授。著書に、前掲文献①、②の他、『漁村の生態-人文地理学的立場-』(1958)、『島その社会地理』(朝倉書店、1972)など。論文に漁業協同組合自営遠洋漁業の経済地理的考察」・大阪市立大学文学部紀要『人文研究(地理学特輯)』(第12巻第1号、1961年1月)、「ポリネシア民族文化の起源に関する考察」・上同『人文研究』(第13巻第1号、1962年1月)などがあります。
(3)
1)文献③青柳真智子『秘境トンガ王国』と文献④青柳まちこ『トンガの文化と社会』は、共に青柳(1930-、立教大学名誉教授、文化人類学者)のトンガ王国に関する現地調査をベースとした実証研究の成果と考えることができます。
とくに文献③は、著者がトンガタプ島やハァパイ島で調査したトンガ人たちの暮らしと社会の仕組みを女性の目線で鋭く、正確に描かれた「トンガ家族社会論」として展開された書物の一冊として受けとめることが出来ます。なお、本書(文献③)は、後に『女の楽園トンガ』と題名を改題し、著者名も「青柳まちこ」として、1984(昭和59)年に三修社の文庫本として刊行されました。
青柳氏は、昭和36(1961)年8月から同38(1963)年2月まで2年半ポリネシア地域の大学(ハワイ大学、オークランド大学)に留学しています。その間の約半年(1962年7月~同年12月)はトンガに在住して、トンガ人の暮らし、土地柄やトンガ民族の習慣、そして著者自身が王国の村社会のしくみに馴染みつつ、実態調査に取り組まれたその実相を、本書(文献③)を通じて窺い知ることができます。
2)文献③の16頁(聖なる南の島トンガタプ トンガへ来た)5行目に、「体格のよい、色の浅黒い、そして少々いかめしい顔をしたトンガ政府のお役人が、『六ヵ月間トンガに居住することを許可する』というスタンプを私の旅券に押し、1962年7月21日と書き込む」と記述されています。このことから、青柳がトンガ国内に在留していたのは、1962年7月21日から約6か月位だったと考えられます。
薮内ら京都大学トンガ王国探検隊がトンガタプ島に到着したのは1960年7月10日です。それは青柳がトンガに来島するちょうど2年前のことでした。薮内ら一行は同年6月10日、伴野通商がチャーターしたトンガに行く韓国の貨物船プサン号に乗船し、途中ラバウルなどに寄港しながら、1か月後の7月10日にトンガタプ島のヌクアロファ港に入港しました。
青柳は、それから2年後にニュージーランドのオークランド国際空港からフィジーの首都スヴァ(ナウソリ空港)を経由してトンガの首都ヌクアロファへ、そこは当時トンガ王国の君主サローテ女王(トゥポウ3世:在位1918-1965)の宮殿があるトンガタプ島のファアモツ国際空港に降り立ったと考えられます。
本書(文献③)は、著者のトンガで出くわした現地の人々との体験的人間模様について記録、記述した民族誌的なトンガ王国生活文化論ともいえます。著者が現地での調査と生活の中で経験した事柄の中には、後に学術論文としてまとめられ、高い評価を得た論稿がいくつもあります。また、体当たりで聴き出したと思われる参与観察の記録の多くも輯録されています。その一つが161-195頁に叙述されている「トンガ流の恋愛と結婚」だと考えられます。
3)文献④は、前節2)で扱った文献③『秘境トンガ王国』がベースにあって完成されたものと考えられます。青柳のトンガ王国研究の真骨頂ともいうべき成果の集大成であると考えられます。既発表論文と新たに書き下ろした未発表論文を体系的に構成した研究書として刊行された文献です。とくに、トンガの社会階層及び身分制の問題に言及した第Ⅱ章「トンガの伝統的社会組織」(未発表論文)、また第Ⅲ章「トンガにおける土地制度」は、文献③が刊行されたのが1964(昭和39)年6月でしたが、同年10月『民族学研究』(第29巻第2号)に発表された学術論文で、著者自身が調査対象としたトンガの首都ヌクアロファ近郊のロゴテメ村(Longoteme:下記のトンガタプ島の地図参照)に滞在して島民の土地所有の実例を自分の足で確かめた実態調査であり、さまざまな角度から精査したもので、トンガ王国における土地制度の本質を綿密に、かつ実証的に解明した貴重な論稿と考えられます。
4)トンガの土地制度について、青柳は1977年10月、大明堂から刊行された石川栄吉編『オセアニア』(世界地誌ゼミナールⅧ、9、178-190頁)に、論稿「トンガの土地制度-Tofiaの場合-」を収載されています。なお、本書(文献④)は、1991年刊行の単行本ですが、10点の論稿が収載されていますが未発表論稿の2点以外8点の初出年代が、いずれも1960年代から1970年代に発表されたものであり、したがって本書は、薮内の文献①に比肩しうるわが国におけるトンガ研究の草分け的な成果であると言えます。
なお、下記の地図は、ロゴテメ(Longoteme)村の位置を示すのに挿入したもので、本図は、OSM扱いであることも併せて付記しておきます。

図 トンガ王国のメインランド、トンガタプ島
5)青柳の文献④における第Ⅲ章「現代トンガ村落における家族と親族」および第Ⅳ章「親族の行動」の二つは、1966年にJournal of the Polynesian Society ,75-2に発表された論文を二つの章に分載したものです。トンガ人にとって、親族関係は結婚の場合などで非常に重要であるため、とくに著者は、詳細かつ丁寧に説明を行っています。第Ⅲ章では「結婚の禁止」という節が設けられています。
青柳は、「結婚は父方母方双方にわたって、たとえ何代も離れていて相互の関係が辿れない場合であっても、血の繋がりがあると考えられるならば禁止される」ことなど、また例外などについても言及されています。
トンガ人は、個人を中心に父方・母方の兄弟姉妹までを双方的に辿り、直接の従妹(いとこ)(第1従妹)までの親族の範囲を親族関係で構成している。また、両親と子供、祖父母と孫、兄弟姉妹、おじ・おば、そして甥(おい)や姪(めい)等の親族成員間の行動規範について、親族行動の実例にまで踏み込んで言及しています。
1960年代に入ると、農耕に依存した村落社会から首都志向型の国内移住が顕著になって来ました。この傾向は現在も続いています。ニュージーランド、オーストラリアなどオセアニア地域はおろか、北米にまで移住先を広げるようになりました。国内は、出稼ぎ型のグラント依存の生活パターンが殆ど自然に定着しております。
本書では、こうした国内外への移住の理由についても言及の手を緩めることはありません。青柳は、その理由を人口増加による「土地保有なし」の成人男子が増えている現実に着目してさらなる考察を進めています。
もう一つの理由は、海外留学など高学歴のエリート階級も増えて、彼らが海外企業に目を向けるようになり、活動の視野を広げていることなどを指摘しています。
6)トンガにおける人の移動に関して、本書(文献④)の最後の章、第Ⅹ章「故郷をあとにする人々」の中で、著者は、離島から本島(トンガタプ島)への移動人口の殆どが、首都ヌクアロファへの移住志向を有していると述べています。その理由としては、「病気治療、教育、就業機会などである」(文献④220-221頁)と指摘しており、すでに1960年代で、21世紀のトンガの人口移住・移動を見通した論及がなされていたのは驚きです。とくに地方(離島)からのトンガタプ島への国内移動(移住)が年を追って増えている状況について、青柳氏は、下記の表1、表2(文献④、220頁から引用)を掲載した上で、統計的な説明がなされています。


第2章 1990~2000年代の成果
(1)
1)1980年代から1990年代には、南太平洋の島々のほとんどが独立国になっていますし、また、わが国のODAなど様々な援助事業が増えたこともあって、島嶼諸国から留学生をはじめ、教育・文化・スポーツ分野での人の移動も多くなりました。そのためか、太平洋地域の島嶼諸国についての、日本国内での関心も高まり、幸いなことに民間レベルでの文化・学術交流が大変多くなりました。
その結果として、政治・経済の面からも太平洋の島々にアプローチした調査・研究チームが派遣されるようになり、また多様なプロジェクトも行われるようになりました。それらの成果が、主催した大学や研究機関の紀要、学会誌等で発表される機会が増えています。
その一方で、トンガとかフィジーとか一国に関する専門的な単行本の類は少なく、むしろ広くオセアニア地域なり、その地域の国々が国別のシリーズで紹介された冊子や資料が、研究機関や地方公共団体、そして民間企業はじめ個人向けにも、JICA(独立行政法人国際協力機構)、JETRO(独立行政法人日本貿易振興機構)、あるいはPIC(国際機関太平洋諸島センター:日本国政府と太平洋諸島フォーラムが設立した外務省の外郭団体)、そしていまは存在しませんが、社団法人日本・南太平洋交流協会等、情報提供を目的とした機関から数多く発行されるようになりました。
21世紀に入って、平和、環境問題などに関心が高まり、民間有力企業や大手銀行が個人の研究者を支援する財団などを設立して、研究者の助成に広く力を貸してくれています。たとえば、公益財団トヨタ財団、味の素の食文化研究助成事業、りそな(銀行)グループの公益財団りそなアジア・オセアニア財団など枚挙に暇がありません。したがって、これらの支援による研究の成果もまた多く見られるようになりました。
本稿第3章で取り上げます比嘉夏子の『贈与とふるまいの人類学トンガ王国の〈経済〉実践』も、りそなアジア・オセアニア財団による出版助成であることが、著者の「あとがき」に記されています。
2)2000年代になりますと、トンガ研究も上述の文献①、③、④で扱われたタイプのものから研究者の見る範囲(視野)、あるいは人びとの行動を見る研究者の視線というか、物事を見たり考えたりする目の置き所(視点)にも変化が現れはじめたのではないか、そんな見方が出来ると思います。
昨今の南の島々、島嶼諸国に関する論文等を読んでいていえることは、対象とされている分野が大変多岐にわたってきたことだと思います。それは何もトンガ研究に限られたことではありません。
本稿のテーマがトンガ研究ですから、トンガ王国のケースですと、トゥイ・トンガ王朝最初の王トゥイ・トンガに関する王国の先史的な研究もありますが、一方で、人の移動(人口の流出・流入)、社会や経済の構造、特性に関わる各論的な研究が大変多くみられるようになりました。
一国の経済と結びつく仕送り・送金問題など金融の分野、また産業では、輸出特産物にはカボチャがありますが、その生産・流通に焦点を絞った研究も少数ですが見かけるようになりました。しかし、トンガにおけるカボチャの生産は、ニュージーランド、メキシコ、ニューカレドニアなどとの国際競争力に対応出来ず、2003年の2万1000トンを最高に2007年には4100トン、2008年には1680トン、そして2010年には1500トンにまで減少しています。
3)わが国がODA(政府開発援助)の規模が大きくなり、実施する上で基礎的な情報収集が課題となり、一元的実施機関であるJICA(Japan International Cooperation Agency)による国別の政治・経済・社会に関する統合的な資料収集と分析が行われるようになり、それらの報告書などが一般にも配布されるようになりました。
21世紀になりますと、ジェトロと日本における開発途上国研究の拠点として、世界への知的貢献を目指して設立されたアジア経済研究所の統合で、太平洋諸国の研究が豊富になりました。両機関の統合で充実したIDE-JETRO(Institute of Developing Economies, Japan External Trade Organization:独立行政法人日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所)では、アジ研時代より一層充実した独自の研究成果を報告書等の形で提供するようになりました。トンガ等島嶼諸国研究は、2000年代に入って若干多くなったように考えられます。たとえば、トンガに関しては、法と政治(民主化運動を含めて)、法と社会、経済と文化、都市化そして社会変容などの研究が目につくようになりました。
他にも、人口転換の特徴や人口移動に言及した研究も増えています。トンガの首都ヌクアロファをテーマにした大谷裕文(西南学院大学)の論稿「ヌクアロファ都市空間の変貌―ポートタウンの形成を焦点として―」(熊谷圭知・塩田光喜編『都市の誕生:太平洋島嶼諸国の都市化と社会変容―』アジア経済研究所、2000年)、また同じ著者によるトンガの政治に関わる最近の研究として、「トンガ王国における新政治制度確立についての歴史人類学的考察―グローバル化のインパクトと民主化運動の展開を焦点として―」(西南学院大『国際文化論集』第26巻、2012年)、「トンガ王国における新政治制度確立の意味―民主化運動の帰結とその問題点―」(塩田光喜編『グローバル化とマネーの太平洋』ジェトロ・アジア経済研究所、2012年)があります。
4)トンガ社会における人口移動を取り上げた研究にレイリン・ロロヘァ・エサウの「南太平洋地域における人口移動―現在と未来―」(2004、『環境創造』・第6号)、同氏はこの論稿をベースに「トンガ人の国際人口移動とホスト国における経験- ニュージーランド・フィジー・日本の事例- 」を発表、京都大学から博士の学位を得ています。
また、トンガにおける人口転換の特徴を掘り下げた研究の一つとして「トンガ王国における高い出生率と海外移出率:MIRAB社会における人口転換の特徴」(2014)と題する小西祥子(東京大学大学院医学系研究科助教)の論稿やトンガ王国などポリネシア地域の産業や経済の開発に関わる研究は比較的少ないのですが、その中にあって、東裕(日本大学)による『トンガの産業開発と伝統社会の変容2)』(日本・南太平洋交流協会、2000年)は、トンガ政府の資料を丹念に精査してまとめた実証的な成果であると考えられます。
いま、トンガをはじめほとんどのオセアニアの島嶼諸国で大きな問題になっているのが環境問題ですが、トンガでも著しく環境負荷の高い中古車輸入によって、環境危機は避けがたい問題になっています。その一つに、トンガ等島嶼諸国における中古車輸入と廃棄自動車放置問題があります。
5)2000年代に入って、この分野に着目した研究が目を惹くようになりました。川村千鶴子の「トンガを日本製自動車の墓場にしないために-グローバルテクノスケープの視点から―」(大東文化大学環境創造学会編『環境創造』・2003年2月、75-98頁)は、トンガにおける廃棄自動車放置問題に対して、社会科学の領域からアプローチした論文で、この分野の先行研究の一つとして挙げることが出来ます。
川村は、トンガ王国では、いま自動車は一家に1~2台の割合で普及している生活必需品であることを踏まえれば、廃棄自動車の処理のために専門的ケアを講じることが急務であると説いています。
JUMVEA(日本中古車輸出業協同組合)の統計に依拠しますと、2018年1年間の日本の中古車輸出台数は、世界各国に総計で132万6000台に達しています。因みに、トンガには2016年に1142台、2017年に1184台、そして2018年は前年対比で304台減少の880台が輸出されています。
一方、トンガ国内至る所に、廃棄され、放置された自動車の墓場が出来ており、その数は年々増加の一途を辿っているのが現状です。
(2)
1) わが国とトンガ王国の交流が深まる中で、1980年代には、日本の歯科医らによるトンガ人家庭の子どもを対象にした歯科検診活動などが行われるようになりました。トンガ人家庭の健康面を中心に栄養・医療、そして食生活の改善などへ、トンガ研究の新しい分野が開拓されて、大変興味深い調査報告も行われています。たとえば、トンガにおける歯科疾患の実態から首都と離島に住む児童・生徒の食事と虫歯の数の関係を調査して、食生活が都市と離島で大きく異なることなどを明らかにした上で、都市の児童・生徒の虫歯の数(1.2本)は、早晩、日本の同世代の児童・生徒の虫歯の数(8.1本)と大差がなくなるであろうと、歯科学的に予測した亀谷哲也氏(岩手医科大学)の興味深い報告が行われています(「悪くなる子供の歯」(全国食糧振興会編『トンガ式健康法の変化に学ぶ』・農山村文化協会・1986)。
また、1990年代から2000年代になりますと、日本大学松戸歯学部口腔病理学講座山本浩嗣らによる共同研究、トンガ王国における口腔粘膜疾患を調査し, さらに”剥離細胞診”による調査方法の客観性を検討した研究の成果として、「トンガ王国における第1 回口腔粘膜病変に関する臨床細胞学的調査―特に放線菌および歯肉アメーバとの関連―」(『口腔衛生学会雑誌』・55 巻 3 号、2005年)が発表されています。
2)足立巳幸(女子栄養大学)の「近代化にともなうトンガ小児のイモ摂食の変化と健康度との関連に関する食生態学的研究」が、1989年度から1991年度の国際学術研究(科研費)として行われました。1990年代になるとトンガ人の食文化にも変化が見られるようになりました。その一例が一般家庭において、タロイモ、ヤムイモなど「イモ」一色の食生活から。「パン」食が導入されるようになり、トンガ人家庭の消費志向そしてその行動に大きな変化が生じ始めたことが指摘できます。
足立の研究は、トンガ王国における食のグローバル化を保健医学の立場から見事なまでに解明したものとして大変意義のある成果といえます。これらの研究とともに、トンガ人の肥満や食生活の改善を取り上げた研究も紹介されるようになりました。稲岡司(佐賀大学)らの「南太平洋、特にポリネシアにおける栄養・健康問題―トンガ人の肥満と糖尿病を中心に―」(『日本熱帯医学会雑誌』31号、2003年)、さらにはトンガ人の食生活の改善を扱った杉原たまえ(東京農大)らの研究成果(「トンガ王国における食生活の変容と伝統的食料資源を活用した生活改善の可能性」)が2015年度日本農村生活学会で報告されています。
以上のように、近年、わが国でのトンガ王国に関する研究の分野が多岐にわたると同時にその成果も豊富になっていること、さらには研究者の視座の高さが指摘できます。
第3章 最近の成果
(1)
1)一冊の書籍として、わが国で刊行された「トンガ研究」の成果は、この半世紀を振り返って見ましてもそう多くないように思います。しかし、久しぶりに、比嘉夏子の『贈与とふるまいの人類学―トンガ王国の〈経済〉実戦』(京都大学学術出版会、2016年3月刊)という書物(単行本)が出版されました。
比嘉の『前掲書』は、トンガの人びとの〈贈与〉と〈ふるまい〉の二つの行為を取り上げ、民族誌的な参与観察といいますか、フィールドワークの方法論を踏まえて書き下ろされた書物であると理解出来ます。
著者は、第1章を「本書は、オセアニアの島嶼国の一つ、トンガ王国の村落における人々の〈ふるまい〉と〈贈与〉の民族誌である」という書き出しで始めています。「〈ふるまい〉とはどのような概念なのか、また、〈贈与〉とはいかなる実践を指しているのか、そしてトンガにおいて、これらがどのように関わり合っているのか」、それを自らにも問うかのように叙述しています。
著者は、贈与経済の上に成立しているといってもよい南太平洋島嶼国トンガ社会での〈贈与〉行為、〈ふるまい〉という行動を寄付行事の枠組で括り、それらをトンガ人の儀礼的な場における社会的相互行為と見なし、トンガ人の暮らしの中で一般に見られる〈ふるまい〉行動について考察しています。また著者は、本書を通じて、トンガという国の基盤を「贈与経済」と認識し、新たな分析視点を提起しようとしているものと考えられます。本書は、次のように構成されています。
第1章<ふるまい>としての<贈与>、第2章トンガの生活世界、第3章モノを〈ふるまう〉―手放すことの意義、第4章貨幣を〈ふるまう〉―宗教贈与の盛大さ、第5章踊りと共に〈ふるまう〉―貨幣と身体、第6章道化として〈ふるまう〉―笑いの創出、第7章所有という〈ふるまい〉の困難さ、第8章〈ふるまい〉とそれを覆う認知環境、そして第9章〈ふるまい〉に満ちた社会、をもって終章として本書は閉じられています。
2)かつて、フランスの社会学者モースは『贈与論』を著した際、贈与の仕組みとそれによって社会制度を活性化させる方法について言及しました。また、モースは、贈与を構成する3つの義務についても述べています。一つ目は与える義務、二つ目は受け取る義務、そして三つ目は返礼の義務、の3点を指摘しました。しかし、現代に生きる人間が納得できる「義務」として受け止められるかは疑問であるかも知れません。
ところで、トンガ社会で日常行われている行為としての〈贈与〉、〈ふるまい〉について、本書の著者はトンガ人の日常の〈ふるまい〉、〈贈与〉の行動に目を向けていろいろな角度、視点からそれらを観察し、分析を重ねた結果について議論しているのが本書第1章と第2章であります。著者はトンガ社会の中に入って、トンガ村落社会の「世界」構造をひも解きながら相互行為としての〈贈与〉、すなわちトンガ人の「贈与行為」を観察し、トンガ落の村人の生活世界の概観を描くことから始めて、村落の人びとの〈贈与〉及び〈ふるまい〉の行動を「モノ」との関わりで両者の相乗関係を捉え、仔細に観察しつつ、掘り下げて分析しています。とくに新しいことではないのですが、トンガ社会を論ずるに当たっては避けては通れない身分階級問題が存在します。
3)この点ついては、第2章では、トンガ王国の土地制度が、国王を頂点に、王族(国王の直系の家族)、貴族(33人の称号を持つ者とその近い親族すなわち〈ホウエイキ〉(hou’eiki))、そして平民といった階級構造を成していることに言及しています。
第3章では、トンガ社会の特異なしきたりを明らかにし、「モノ」を介在しての〈ふるまい〉、すなわちどう〈ふるまう〉のか、「モノ」を手放すことの意義が本章でのトピックとして扱われています。平民社会の冠婚葬祭、教会行事などいずれも〈ふるまい〉の行事であること。
トンガでは葬儀は一週間からひと月もの間行われる場合があること。葬儀における〈ふるまい〉は弔問客に対する食べ物の〈ふるまい〉であることについて、現地の葬儀に著者自らが参加することで、フィールドワークを重ねたことなどを述べています。
葬儀に参加することで初めて理解できたことが、トンガでは葬儀が必ずしも愁傷な哀悼の空間ではない。むしろ「独特の熱気と喧噪に満ちた空間である」、と記しています。
(2)
1)次に、第4章では、宗教贈与として教会に対する「献金」行事ミシナレ(misinale)にも言及しています。教会に対する献金行事は、貨幣の〈ふるまい〉にほかなりません。牧師による礼拝が終わりに近くなると、信者は献金行事、貨幣の〈ふるまい〉というか、いわゆる宗教贈与の瞬間が現れることにも触れています。
献金行事に関しては、わたくしも何度かトンガの教会に礼拝に出かけて経験しています。不思議に「押し付けられた」とか、「義務」とかという感情を抱くことなく、むしろ温かみ感じながら、自然体で献金(贈与)したように記憶しています。
トンガの教会では、〈贈与〉あるいは〈ふるまい〉を受けた貨幣を再び教会が信者のもとに再配分する仕組みになっていることを信者の誰もが知っているからでしょう。再分配先は、主に学校教育など、教育や福祉関係が多いようですが、そうした博愛ないし慈愛の精神とでも表現できる社会的秩序が作られています。
わが国に見られるような政府主導の社会保障制度は発達していませんが、トンガには「慈愛、博愛」のスピリットが人々の暮らしの中に根付いており、近隣の人間関係を支えているといえます。著者である比嘉もまた、トンガの人びとのかかる心理を踏まえて本書を書き下ろしているようにも受け取れます。
2)第5章では、トンガ社会の〔ふるまい〕行為の一例をファカパレという行為で紹介しています。トンガの踊り手の舞(タウオルンガ)が佳境に入る頃になりますと、踊り手の胸や首や上半身の至る所に、観客が紙幣を貼り付ける行為(ファカパレ:褒美)をごく普通に見かけることがあります。
踊りが上手であったり、美貌の踊り手であったりすると、体中に紙幣が貼り付けられます。その度に観客が喜び、その場に温かい笑みと雰囲気を創り出します。この〈ふるまい〉行為は、トンガ国内だけではありません。
日本でも見かけることがあります。トンガの人びとが何人か集まる、懇親会の余興、また結婚式の披露宴などでもトンガの踊りが行われるときには、ファカパレが始まります。日本でも、路上イベントや大道芸人のさまざまな芸の披露に、観客から芸人や踊り手に対して「おひねり」を投げ入れることがあります。あるいなまた、逆さにした帽子に志を入れる行為を見かけます。
ファカパレは、ある面でそれらと共通する行為、それがトンガのファカパレであり、〈ふるまい〉の一例であると言えるのかも知れません。
本書の著者は、この行為を寄付の手法として説明しています。また、別の角度から〈ふるまい〉という行為を、著者には「同調性」という概念で捉えようとする側面が窺えます。大変ユニークな発想だと思います。
この考え方は、第6章と深く結びついて来ます。第6章のテーマは、「道化として〈ふるまう〉― 笑いの創出」です。そして第6章では、第5章で論じている寄付行事を一種の「道化」として捉え、「道化のふるまい」に言及しています。
第6章では、トンガの〈贈与〉、〈ふるまい〉という行為を単なるモノの移譲として完結させるのではなく、人びとがこうした行為の場に積極的に参加し、かつ〈ふるまう〉ことから得られる満足感ないしは達成感を互いに喜び、温かみとして共有しようとする行為だと解釈しているように考えられます。
3)第7章を読みながら、江戸っ子は「宵越しの銭は持たぬ」、と言われる故事を思い出しました。トンガ人には、多くの人が「手元にあるお金は使いきる」という習慣と言いますか風習あり、江戸っ子と共通しているように感じられるところがあります。それゆえ、トンガ人は主婦であっても、あればあるだけ消費しますし、他人からくれといわれるとあっさり「ふるまってしまう」ことが多いのです。比嘉は、本章において、トンガの人びとの「現金の即時的な消費と分配」として、この問題を取り上げています。
第8章は海外に移住した家族からの送金が、その家族だけでなくトンガ王国経済を支えている問題にも触れていいます。日本に在住するトンガ人はラグビーの選手が多いのですが、見方を変えれば彼らも出稼ぎ労働者であり、彼らの送金は彼らの家族だけでなく、トンガ経済の基盤を支えていると考えられます。
比嘉は、オーストラリアに長年在住した男性シオネ・アマトの生きざまを通して、海外移住者たちが一時帰国した際の土産物の分配の仕方から、トンガ社会の〈ふるまい〉や〈贈与〉の原理を民族誌的に解明する努力をしています。
4)第9章は、最終章であり、かつ本書全体に関する考察の「まとめと結論」に充てられたものとみなされます。トンガ研究に長いこと関心を持って来たわたくしですら驚かされたのは、村落生活の中で、「華々しく贈与が繰り広げられる機会は、伝統財が行き交う冠婚葬祭よりもむしろ、宗教贈与の場面、とくに定期的に開かれるメソジスト系教会の献金行事である」、と指摘して言及している比嘉のフィールドワークの確かさについてであります。
以上駆け足で、比嘉夏子著『贈与とふるまいの人類学 トンガ王国の〈経済〉実践』についてサーベイしたのですが、最近のトンガ研究として、本書は、今後、トンガ王国研究を進める多くの研究者たちの「道しるべ」となるでしょうし、この道を新たに究めようとする人びとに「先行研究」として不動の一冊になるのではないかと考える次第です。
(注)
1)「トンガ(tonga)」とは、「南方」を意味する言葉であると考えられている。それは、サモア諸島が「トンガの原卿」と云う説(太平洋学会編『太平洋諸島入門』・三省堂・1990、109頁)に立脚している。それゆえ、サモアの「南方」にある「島嶼」という意味で「トンガ」と呼ばれたのが、国名の語源とされている。因みに、トンガ語辞典で‘tonga’を引くと、「(adj/ n) south」とある(Richard H.Thompson, English-Tongan And Tongan-English Dictionary, 1996, Friendly Island Bookshop, P. O. Box 644, Nuku‘alofa, Kingdom of Tonga, South Pacific.)。
2)東裕・泉正南『太平洋諸国産業開発と伝統社会の変容 ―サモア・トンガ―』(第2部、『トンガの産業開発と伝統社会の容』)・社団法人日本・南太平洋経済交流協会、2000、pp.37-98.
おわりに
1)本稿を終わるに当たり、わたくしのトンガの人びととの付き合いから、以下では、わたくしの感じたまま、思いつくまま、人と文化について述べてみることにします。
わたくしのトンガの人びととの出会いといいますか付き合いは、かれこれ30数年にはなると思います。初めは、仕事柄「学生と教師」の関係が主だったのですが、辞令を受けてスポーツ関係の職務に就くことになりました。当時は「体育センター」と呼んでいましたが、その所長を兼務することになり、留学生として入学してきた彼らと日常の付き合いをする機会が段々増えました。
暫らくするうちに、ラグビー部監督の鏡保幸さんから、前任の部長中野敏雄先生が定年になられるので、後任を引き受けてくれないかと言われて、深く考えもせず引き受けてしまいました。後々になって、大変なことになったと悔やんだのですが、それこそ後の祭りでした。
その頃、わたくしが勤務していた職場(大東文化大学)のラグビー部は、トンガからの留学生シナリ・ラトゥやワテソニ・ナモアといった凄い選手が活躍して、第23回ラグビー大学選手権を制して、大学日本一の座につきましたから、大学の中でも箱根駅伝の陸上部と並んで花形クラブでした。それはそれでいいのですが、全く考えていない仕事が待っていました。
トンガ人留学生の生活の何から何まで、面倒ごとまで一切合切、鏡監督がお一人でこなされていましたから、その面での心配は全くありませんでした。前任の部長さんはもう亡くなられましたが、トンガ王国の王様(トゥポウ4世)をはじめ、教育省の大臣、次官など偉い方々との珠算を通しての付き合いといいますか、長いこと親交があり、トンガ王国では日本人といえば Nakano Senseiで通るくらいでしたので、留学してくる学生の身元引受人(身元保証人)も先生が一手に引き受けておられました。
中野先生が70歳で教授を定年退職されてから、引き継いだ後任者の職務もまた、同じくトン人留学生の身元引受人になることでした。それでもわたくしの場合は、鏡さんと二人で引き継ぎましたから、負担も半分で済みました。
ところで、いまと違って昔(20年以上前の話です)は、外国人学生の身元引受人(身元保証人)は、所得を証明する課税証明書とか、源泉徴収票、そして住民票なども必要だったと記憶しています。日本人学生の保証人を引き受けるのとは大違いでした。
留学生は、在学中にもビザ(査証)の更新を必要としましたから、その度に入管に出向いた記憶があります。また、留学のために日本に入国するのにも、本人はトンガにいますから、先ずは身元引受人が東京入国管理局に出向き、ビザの申請を必要としました。
いまは、そんな必要は全くないようです。受験する大学の受験票をもって自分の国にある日本大使館で短期滞在ビザを申請し、ビザが交付されたら来日し受験し、合格すれば書類を整えて留学ビザの申請が出来るようですから、日本人の身元保証人など必要としないと思います。
しかし、昔はそう簡単ではありませんでした。身元引受人(身元保証人)になった以上、それが一番大事な仕事だと、自覚していました。
ビザの更新に出かけた帰り道、彼らと一緒に食事をしながら、彼らからトンガの話を聴くのも楽しみでした。ものは考えようです。
2)わたくしも随分多くの留学生たちとの出会いがありました。シオネ・ラトゥ、ロペティ・オト、タカイ・パレイ、ナタニエラ・オト、フェレティリキ・マウ、ルアタンギ・バツベイ、ティモテ・マナコ、マヘ・トゥビ、そしてビリアミ・ファカトゥらの名が浮かびます。
彼らは、わたくしがラグビー部に関わった時代の留学生たちです。正月に泊まりに来てくれたことも何度となくありました。マヘとは一緒にトンガに行ったこともあります。バツベイの実家に立ち寄ったとき、祖母さんから、彼の父親がニュージーランドの病院に入院しているから、何かあったらすぐ帰して欲しいと懇願されたこと等々、いまではどれも懐かし想い出ばかりです。
わたくしのトンガおよびトンガ人との付き合い、交流、そしてトンガ研究は、こうしたいきさつ(経緯)で始まりました。わたくしは、少しばかりずる賢い考えを持ちまして、留学生の身元引受人だけで終わってはもったいない、そう思うようになりました。打算的な言い方をしますと、収支が合わせようと思ったのです。
そこで、彼らからトンガの話を聴き出しトンガを知ろう、トンガを勉強しよう、そう思うようになりました。それが、わたくしのトンガに関心をもったきっかけであり、またトンガ研究の始まりでした。
そんなわけ(理由)で、国内で開かれるトンガや南太平洋諸島に関係するイベント、講演会などの催しを調べては極力出かけるようにしましたし、トンガにも何度も出かけ、周りの南太平洋の島々にも足を伸ばし、その歴史やわたくしの専門と関連のある農業や経済の分野を中心に勉強することにしました。それからは、留学生の皆が、わたくしにとっての先生にかわりました。
丁度その頃でした。米国で学士号をとって、わたくしどもの大学院に入学して来たトンガ政府の職員やトンガで高校教員の経歴をもっていたマサソ・パウンガ君と出会いました。彼との出会いは、トンガ王国を知る上で、わたくしには大きな助けになりました。
3)また、多文化研での勉強の機会も、グローバル・アウエアネスを主宰され、一方で、トンガを中心に南太平洋の島々に深い関心を寄せて、広く活動しておられた川村千鶴子氏との出会いもありました。多文化研『30周年記念誌』の「はしがき」の中で述べたことの繰り返しなりますが、グローバル・アウエアネスの輪は、水面に広がる波紋のように、開催ごとに大きくなりました。
その集まりの中の一つに、トンガ人留学生などを交えてトンガ語の勉強会をしたり、トンガ社会の慣わしやしくみ(王族を頂点にした階級社会の特性、あるいは土地制度について)など、あるいは日がな一日かけて行う懇親会、差し詰め日本人だけなら、ホテルでの立食パーティーで終わるのでしょうが、この懇親会は違います。料理の準備から後片付けまで参加者が皆でするカイポーラ(kai・pola;食事会、カイは「食べる」を意味し、ポーラは「祝宴などで料理を準備したテーブル」の意味)です。
懇親会ですから宴がたけなわなりますと、日本人ばかりならそろそろお開きとなるのですが、トンガの人たちは、これからが本番と、ラカラカ(lakalaka:バレエ、動きの速いグループダンス)やタウオルンガ(tau’olunga:女性のしなやかなダンス)などの余興が続きます。タウオルンガが佳境に入りますと、周りの人びと(女性)が次々に、踊り手の身体にお札(紙幣)を貼り付けます。
4)この行為は、本稿第3章(2)でも触れましたように、トンガではファカパレ(fakapale’i:褒美、褒賞の意)と呼ばれている行為です。上手な踊り手に、褒美を「ふるまう」行為です。トンガ民族が生を受け継いでいく中で育んだ文化の一つではないかと思います。この会に参加する人の中には、民族衣装のタオヴァラ(ta’uovala)を着けて来る人もいたような記憶もあるのですが、うろ覚えです。自由な集まりでしたから、韓国の人もフィジーの人もおりました。その情景は、まさしく多文化交流を絵に描いた、お手本のような会だったと思います。わたくしは、この食事会を通じて、トンガの民族文化の一端に接することが出来ましたし、いまにして思えば、わたくしにとっては、トンガ研究の原点をなすものだったと思っております。
5)最後に、お一人お一人のお名前の掲載は省かせて頂きますが、これまでお相手を頂き、お世話下さった多くの皆様に、そして多文化研では、学びの場をご一緒させて頂いた皆様に心から感謝申し上げる次第です。
本当に、有難うございました。
-おわり-

(於:首都ヌクアロファの小学校1994)

(於:新宿区大久保地域センター)
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「多文化共生に向けた環境整備の重要性–トンガ人ラグビー選手の事例から」
『環境創造』13号、大東文化大学環境創造学会、2010年
小林真生
【※各種のデータや表記は2009年12月時点のもの】
1 はじめに
大東文化大学ラグビー部は全国大学選手権を1986年度 、1988年度、1994年度と三度制している。その際、1986年度と1988年度にはシナリ・ラトゥ (ナンバー8。名前の後の括弧内はポジション。敬称略。以下同)とワテソニ・ナモア (ウイング)、1994年度にはシオネ・ラトゥ (ナンバー8)とロペティ・オト (ウイングまたはセンター)が大きな役割を果たしたことに異論のある人はいないであろう。ただ、チームメイトは彼らをマスメディア等で見られていたように「助っ人 」としてではなく、様々な影響を与え合う仲間として捉えていた。
また、1980年に初めてのトンガからの留学生であるノフォムリ・タウモエフォラウ(ウイング)とホポイ・タイオネ(ナンバー8)を迎えて以来、ラグビー部には常にトンガ人選手がおり、日本代表やトンガ代表に選ばれた選手が複数在籍している年度は他にもあることを考えれば、単に「トンガ人留学生がいたから優勝した」といった見方は短絡的に過ぎよう。もちろん、チームの勝利に対する要素は複雑に入り組んだものであり、素人の筆者が一概に語ることはできないため、本稿ではトンガ人留学生のラグビー選手としての能力よりも、彼らがチームに与えた影響や、それをもたらした周囲の環境について検証していく。そして、本論文で主として扱うのはノフォムリとホポイの第1期生と、シナリ・ラトゥとナモアの第2期生とする。その選択理由としては、体育会組織への留学生受け入れが珍しかった時代に彼らが果たした役割に大きな特徴があったことや、彼ら以外の留学生は世界のラグビー界がプロ化してから卒業を迎えたという時代的相違があったためである。
そして、大学の体育会あるいは社会人チームという限られた空間であれ、日本人が大多数を占める組織の中に新たに外国人が同じ目的(部としての勝利)のために集まり、共同生活をしながら結果を残していくという姿勢は近年、様々な場面で頻繁に用いられている「多文化共生」に繋がるものである。多文化共生に関しては共通した定義がある訳ではないが、総務省によれば「国籍や民族などが異なる人々が、互いの文化的差異を認め合い、対等な関係を築こうとしながら、地域社会の構成員として共に生きていくこと 」とされる。しかし、地域社会に目を移せば、そのような言葉が一般に定着しつつも、同じ目的(会社の生産・売上の向上)を持っていた外国人労働者の多くが2008年秋に端を発した不況により真っ先に解雇され、各種統計を見ても、地域住民の意識は悪化傾向にある。つまり、大学選手権3度制覇という結果を残しただけでなく、1995年度にシオネ・ラトゥ、2009年度にレプハ・ラトゥイラ(ナンバー8)が主将を、2003年度から2008年度までシナリ・ラトゥが監督を務めたようにトンガ人留学生を受け入れた組織である大東文化大学ラグビー部等を通じて彼らの周囲への影響を見ていくことは日本社会に対して貴重な示唆を与えるものと筆者は考えている。
また、本論文の構成及び手法としては、まず、導入部として、日本の大学ラグビーの歴史や外国人選手受け入れの位置づけ、そして大東文化大学ラグビー部の設立以降の歴史を概観する。その上で、当時の関係者からの聞き取りや文献等により、彼らの影響やそれを生み出した背景を考察する。そして、第1期のトンガ人留学生以降、多くの卒業生が所属した三洋電機ラグビー部(現在の三洋電機ワイルドナイツ。彼らの入社当時の名称は東京三洋。以下、「三洋電機」と表記)での彼らの影響を考察すると共に、三洋電機ラグビー部が位置する群馬県大泉町は人口の16.6%(2009年4月)を外国人(主として日系ブラジル人)が占めることでも知られた地域であることから、トンガ人周辺とブラジル人周辺での相互認識の相違等を比較検討する。近年、日本における日系南米人に関しては多くの研究があるため、そこからラグビー部という一組織に止まらない日本社会全体への示唆を導き出す。
2 日本ラグビーの発展の中での大学の役割
1871年にロンドンでラグビー協会が発足し、ルールが明確になったことで同じく原始フットボールに起源を持つサッカーとラグビーは完全に分化した。そして、日本におけるラグビーは1899年、ケンブリッジ大学を卒業したイギリス人英語教師のエドワード・B・クラークと同級生の田中銀之助が慶應義塾大学の学生に伝えたことに始まる。その後、クラークが京都に生活の拠点を移すと、1910年に旧制第三高等学校(京都大学の前身の一つ)、翌年には同志社大学でラグビー部が誕生し、同志社中学(当時)の卒業生を中心に1918年早稲田大学でラグビー部が正式に発足するというように、大学と日本ラグビーの発展は密接に関係していた。
1920年代に入ると東京大学、明治大学、法政大学、立教大学などでもラグビー部が活動を開始し、その人気は関東の大学においても高まっていった。そこで採用された対戦形式は優勝校を決めるトーナメント方式や総当たり方式ではなく、各大学の定期戦が複数行われる方式であった。その対戦において、当初はルーツ校である慶應義塾大学が1908年にニュージーランドに学んで採用した7人フォワード・システムに基づいて強さを見せていた。しかし、早稲田大学が1927年のオーストラリア遠征以降バックスへの展開攻撃を主体とする「ゆさぶり」戦術を採るようになり、同年明治大学が上海へ遠征しイギリス流のフォワードを全面に押し出す戦術を得意とするようになると、各大学の成績が拮抗するようになっていった。また、京都大学や同志社大学はイギリス滞在経験のあった香山蕃(府立一中、及び東京大学ラグビー部創設者で、初代日本代表監督、日本ラグビー協会会長も務める)や、その教え子である星名秦の影響から、最新のラグビー理論を背景に強化を進めていった。つまり、各大学が海外の状況を踏まえ、自らが掲げる戦術の模索を続けていたのが戦前の日本ラグビー界の状況である。
戦後、大学間の対戦方式は度々変更が加えられることとなるが、最も大きい変化としては、1967年度に関東ラグビーフットボール協会に所属する強豪大学が前掲の伝統校(法政大学を除く)を中心とした定期戦形式の対戦方式を採る関東大学対抗戦グループと、新興校を中心に発足した関東大学ラグビーリーグ戦グループに分離したことが挙げられる。従来の伝統校は定期戦形式の試合方法を重視する一方、実力を持った新興校との対戦が図られない場合がしばしば発生したため、総当たり戦を主張するリーグ戦グループが生まれたのである。ただ、人気と実力を兼ね備えた対抗戦グループは、分裂後、全国大学選手権への関東からの出場校4枠分を決定する関東大学ラグビー交流試合(そのシーズンの両グループの上位4校が襷がけで対戦する形式)においても優勢を保っており、その形態になって以降、関東ラグビーフットボール協会所属の大学選手権優勝チームは1985年度まで対抗戦グループ勢によって占められていた。
その状況に1986年度に風穴を開けたのが大東文化大学ラグビー部であった。1963年に創部した大東文化大学ラグビー部は、リーグ戦グループには分離当初から所属していたものの、1978年度には2部リーグに降格するなど(1年で1部復帰)、満足な結果を残せずにいた。しかし、1980年にトンガから第1期の留学生を迎え、1981年度に元日本代表選手で同校OBの鏡保幸がコーチから監督に昇格するに至り、徐々に力を蓄え、交流試合でも対抗戦グループ校と接戦を繰り返していく。そして、1986年度、シナリ・ラトゥとナモアだけでなく、1989年に日本代表がホームユニオン と呼ばれる伝統国スコットランドXVに初めて勝利した試合に出場した青木忍(スタンドオフ)や、日本選抜に選出された飯島均(フランカー)などの戦力を有し、大東文化大学は全国制覇を果たす。その結果は、それまでの伝統校が海外からのラグビー理論を軸に強化を進めてきた のに対し、大東文化大学が海外からの戦力や文化を受け入れ、強化を行ったことを示している。
その後、2009年度までリーグ戦グループでは大東文化大学、法政大学、関東学院大学、対抗戦グループでは早稲田大学、明治大学、慶應義塾大学が大学選手権を制しているが三連覇を果たした大学は無く、各大学が鎬を削る状態にある。ただ、それらの優勝校には留学生が主力の一角を担う大学チームは大東文化大学の他に無く、現在までに多くの大学が留学生を受け入れていることを考えれば、大東文化大学は留学生受け入れの先駆者であると共に、最良の結果を残しているチームである。
3 日本ラグビー界における外国人選手
1970年代から1990年代初頭まで、日本におけるラグビー人気は非常に高く、1986年発売(1987年向け)の官製年賀状の切手のデザインにもラグビーが採用されるほどであった。また、1981年の早稲田大学と明治大学の定期戦(早明戦)は66,999人の観客を国立競技場に集め、その数は未だに国立競技場の観客席のみを使用したスポーツ・イベントの動員記録となっている。そのようなラグビー人気の中で大東文化大学のトンガ人留学生は世間的にも知られた存在であった。
また、第1期の留学生二人は共に日本代表に選出され、ノフォムリとシナリ・ラトゥは1987年に開催された第1回ラグビー・ワールドカップに日本代表として出場するなど、彼らの日本ラグビー界への貢献はラグビーファンの間で認知されていた。国籍を重視するオリンピック競技やサッカーとは異なり、ラグビーはそれぞれの国(あるいは地域。以下同)の国籍者によって代表選手が構成されるのではなく、①当該国で出生した、②両親、あるいは祖父母のいずれかが当該国で出生した、③36ヶ月継続して当該国に居住した、という3つの条件の内、何れかを満たせばその国の代表選手になることができる 。その基準となるのは、選手がどのラグビー協会に属してプレーしているのか、という点である。
つまり、ラグビーにはチームに対する帰属意識は求められるものの、国籍や文化的背景をそれほど重視しない気風があった。外国人ながら1999年のワールドカップで日本代表のキャプテンを務めたアンドリュー・マコーミック(センター)はある講演の中で「日本国内にはたくさんうまい13番(筆者註:アウトサイドセンターの背番号)がいました。もし私がいいプレーをしなかったら、彼らに大変失礼だと思います。そして、日本代表というのは日本で一番いいプレーをしないといけない。最高のプレーを見に来ているお客さんに失礼です。そして、外国人の僕を信頼して選んでくれた監督の思いに対しても応えなければいけない。そういう責任があるんです 」とその責任感と帰属意識を表現している。ただ、植民地であったことで日本語教育がなされていた戦前の朝鮮人・台湾人選手を除けば海外出身の日本代表選手はトンガ人選手が初めての存在であった。そして、彼らが先鞭をひらいた日本代表への道は多くの選手によって引き継がれていき、キャプテンを務める選手まで現れるようになったのである。
そのため、日本のラグビー界においては外国人選手に対する差別的な扱いは見られない。例えば、大東文化大学においてホポイをはじめとする多くの留学生はフォワード全体を見る要であるポジションのナンバー8を任されており、その後、他チームでも司令塔的ポジションを留学生や外国人選手が務めることも珍しくはなかった。それは日本のラグビーと同じく、大学を中心に広がったアメリカのアメリカン・フットボール界で1970年代までクォーター・バックのポジション、あるいは野球でもキャッチャーのような司令塔役のポジションは偏見に基づき白人によって多く占められることが多かった状況とは大きく異なっている 。ただ、そういった日本における認識を形成する上で、初の留学生であり、社会人チームで初めて引退までプレーした ノフォムリとホポイの残した印象は大きかったといえる。
4 大東文化大学ラグビー部においてトンガ人留学生が果たした役割
トンガから大東文化大学への留学生受け入れの契機となったのは1975年に中野敏雄ラグビー部部長(経済学部教授で簿記会計が専門)がトンガを訪れ、偶然にも日本のソロバンに関心の高かったツポウ4世との間で親交を深めたことに始まる。その後、トンガにおけるソロバン教員育成のため国王から日本への留学生派遣の申し出を受けた際に、当時ラグビー部部長と監督を兼ねていた中野は留学生のホームシックを防ぐこともあり留学生をラグビー部に入部させることを提案した。そして、候補者の中から、地元のクラブチームでラグビーをし、アメリカのオークランド大学医学部入学のライセンスを所有するホポイと、既に国代表同士のテストマッチにも出場していたノフォムリが選抜された。彼らは当時、ノフォムリが23歳、ホポイが22歳と、多くのラグビー部員が18歳で入学することを考えれば、彼らなりの人生経験を既に積んで来日した。ただ、トンガ人留学生は当時、先進国である日本でソロバンだけでなく経済学や経営学を学びたいという希望は持っていたものの、トンガで観ていた日本映画の影響もあって日本人に対して「今でも刀を持っている」との認識も持っており、十分な日本語能力を得るまで日常生活を送る上で強い不安を感じていた。一方、日本人ラグビー部員らはトンガに対して、ラグビーの強国であるとの情報はありつつも、「トンガでは電気が通っているのか」と聞くような認識の中で、日本人部員と留学生の関係は始まった。
ただ、その後は留学生の日本語習得や相互理解の促進もあって、留学生と日本人部員の間の関係は徐々に変化していき、トンガの文化が持つ要素がラグビー部内にも根付いていった。彼らの入部当初、部内では体育会独特の上下関係が見られることもあった。しかし、トンガでは先輩後輩の意識は強いものの、その表し方として先輩が率先して事に当たり、弱い存在である後輩を大事にするものとの意識があった。それは、入浴の順番に象徴される。日本においては、先輩が先に風呂に入り、その間下級生が諸々の準備を整え、一年生は雑用をこなした後で最後に風呂に入るという形式を採る場合が多い。一方、トンガにおいては一年生が最初にシャワーを浴び、最上級生は最後に入る、といった具合なのである。そういった弱い立場のものを大事にする留学生の意識は練習はもちろんのこと生活全般に及び、部内で旧態依然とした上下関係は解消していった。また、それは監督である鏡の「上級生も下級生も学年などは関係なく試合に勝つことを目標にしています。勝つための苦労なら大いにすべきですが、人間関係の苦労は徹底的に排除した方よい 」とする姿勢とも合致し、「明るく・楽しいラグビー 」や「奔放ラグビー 」等と称される大東文化大学ラグビー部の下地が形作られていったのである。
その下地の上に達成された1986年度と1989年度の優勝によりラグビー部は大きく知名度を上げ、卒業生は名門企業から声がかかるようになり、高校選手権出場者や高校日本代表経験者など実績のある高校生も入部する強化のサイクルが生まれていった。そして、その知名度の向上は大東文化大学全体にも広がり、受験者増や企業求人の著しい増加となって現れたのである 。当時のラグビー人気もあり、準決勝や決勝の舞台となる国立競技場にチームカラーであるモスグリーンの小旗を持って集まった学生の姿と、トンガ人留学生をはじめとするラグビー部全体が形成した自由闊達な雰囲気が全学的な印象として結びつけられた。換言すれば、ソロバン留学を機に始まったトンガ文化との出会いの影響がラグビー部の成績ばかりでなく、大学全体の評価へも波及していったと見ることができる。
5 留学生の円滑な受け入れを可能にした周囲の協力
上記のような変化が大東文化大学において起きた1980年代当時は、日本はもちろんのこと、留学生を多く受け入れて来た欧米諸国においても、留学生に対し「遅れた」送り出し国へ先進国が「恩恵を施す」という認識から、相互理解・相互協力といったパートナー意識へと位置づけが徐々に変化し始めた時期であった 。では、なぜ、トンガ人留学生の周辺に時代を先取りしたような状況が生まれたのであろうか。本節では、その背景を検討していく。
留学生の相談事例分析から、加賀美常美代(2002)は、彼らの抱える問題として①マクロレベルとして経済的問題や住居問題、②ミクロレベルとして日本語学習や健康心理、③メゾ(中位・中間)レベルとして情報提供や対人関係を挙げている 。また、相互に影響を与え合う存在である留学生と日本人学生との関係について、インタビューと自由記述式の質問紙調査を行った横田雅弘(1991)では、留学生側が感じる親密化阻害要因として「希薄な主張」、「言葉の障壁」、「日本の慣習」などが挙げられ、日本人学生が感じる親密化阻害要因としては、「漠然とした不安と遠慮」、「日本人集団への消極的アプローチ(飲み会やクラブ活動等)」、「言葉の障壁」などが挙げられた 。つまり、一般的に日本人学生や周囲の日本人と留学生の間には言葉や住居等の経済的要因、周囲の理解不足、サポート不足などから親密な関係を築くに至っていない場合が多いのである。
それらの親密化(その後に相互理解・相互協力の促進がある)を阻害する要因を改善していくには多様な援助者や援助が必要となる。そこで、トンガ人留学生の周辺の改善要因を概観してみたい。第一に挙げられるのがラグビー部内の人間関係である。彼らはラグビー部の寮に住み、日常的に日本人学生の中で過ごしていたため、相互理解が進み、日本語の会話能力向上の面でも好環境にあった。具体的には、監督である鏡は受け入れ当初よりラグビー部の寮に留学生を迎えることを中野と相談の上で決定し、生活上の細かい部分にも気を配っていた。また、1986年度の副将であった飯島均は寮でノフォムリと2年、シナリ・ラトゥと2年同室であり、その間にトンガ料理を学んだり、コミュニケーション向上のため英会話教材を自ら購入するなど部内での関係を円滑なものとしていた。そして、他の寮生も彼らを受け入れたことで、留学生は住居問題を心配することなく、孤立感も低減され自らの能力を十分に発揮できたのである。
第二に、大学の役割が挙げられる。まず、日本語の面では、彼らは学部の正規学生になる前に別科日本語研修課程で1年間700時間の授業を受講しており、先に挙げた会話としての日本語能力ばかりでなく、学習言語としての日本語能力を向上させていった。これは、相互の文化理解を向上させる効果はもちろんのこと、その後の三洋電機への就職に関しても有益なものであった。また、1986年度に大学選手権優勝を果たした後は、留学生の学費に関しても大学は奨学金等のシステムを整備した。
第三に、大学外の支援環境が挙げられる。まず、第1期の留学生を受け入れたのはソロバンが契機となっていたように、関係者のバックアップがあった。具体的には、東京珠算協会の国際珠算普及基金からの奨学金が拠出され、第1期、第2期の留学生は中野教授の実弟である中野享が主宰する中野珠算塾に週に数回通い、夏にはソロバン合宿を行うなど、珠算関係者は彼らのソロバン上達に大きく寄与した。また、塾の仲間は留学生と温泉旅行に行く等、彼らのホームシックをはじめとする不安を受け止める役割も果たしていた。1990年代に入り、ソロバンとトンガ人留学生との関係は徐々に離れていったが、それに代わって1994年に中本博皓経済学部教授をはじめとするトンガに強い関心のある日本人と大東文化大学・高崎経済大学のトンガ人関係者で「トゥイトゥイヴァオと桜の会」が結成された。同会は後に中本の指導を受け大東文化大学で博士号(経済学)を取得し、トンガへの帰国後大臣を務めたマサソ・パウンガ(ロック)を会長とし、2000年頃まで活動していた。同会の活動は留学生間の相互交流に大きく寄与することとなった。そして、同会の活動停止と時を同じくして日本においてトンガ人が徐々に人数を増やしていく中で、1999年にトンガ人教会が群馬県で設立された。その存在は、彼らの異文化に置かれた不安の低減や情報交換はもちろんのこと、宗教意識にも大きく貢献している。このような宗教施設は移民が移住先で定着する上でも欠かせないものであり、その意義は大きい。
これらの要素が複雑に入り組みつつ、トンガ人留学生の周辺では日本人との親密化を妨げる要因が大きく低減された。そして、もちろん、その下地を作った第1期生が国王からの選抜を受けた責任と覚悟、日本で経済等を学ぶことへの意欲等を背景にラグビーで結果を出し、周囲では埋めきれない異文化葛藤や孤独を感じつつも良好な人間関係を形成したことは、その後の留学生や他のラグビー選手の来日に大きく寄与したことも忘れてはなるまい。
6 トンガ人留学生の卒業後の状況
上記のような影響を部内や学内に残したノフォムリとホポイはソロバン教員の指導員としてトンガに戻るという使命はあったものの、離れ難い人間関係が築かれたこと、ラグビー選手としての将来、日本での企業経験を積みたいこと等の思いが強く、大学卒業後、群馬県大泉町の三洋電機へ就職し、同時に三洋電機ラグビー部に在籍することとなった。彼ら二人は日本人社員と同様の雇用契約を結び、会社の独身寮や妻帯者寮に住み、朝から夕方までは通常業務を行い、その後、ラグビー部員として練習を行う生活をしていた。この背景として、1988年3月に日本ラグビー協会が「外国人の社会人選手に対する規定」を発表し、自らのアマチュアリズム堅持の姿勢を明確にしたことがある。同規定は判断基準として以下の3点を挙げている。①入国目的が当該企業における勤務であって、それにかなう在留資格を有していること、②企業との間に相当期間にわたる安定した雇傭関係を有し、企業内での職種・地位等が明確であること、③労働条件、給与体系その他勤務に関しては、一般従業員と同一の就業規則その他の規則に服していること。つまり、社会人リーグに所属する選手は彼らの立場が元留学生であれ、海外出身者であれ、日本人であれ、一般社員と同じ対応が求められていたのである。これには、1995年のワールドカップ南アフリカ大会まで国際ラグビー協議会(IRB)がプロ化を認めず、ラグビーはそれを職業としないアマチュアリズムを基本理念としていたことが背景にあった。確かに、「企業アマチュア」と呼ばれる日本の制度には厳密にアマチュアであるか否かの疑問も持たれてはいたものの、トンガ人留学経験者が通常業務を行い日本のビジネス慣行を習得したことは、ホポイとナモアがラグビー選手引退後、国際的な業務に係わる会社を起業したことや、トンガで英語が公用語であったことを生かして多くのラグビー選手が海外営業を担当したこと、あるいはトンガからの留学生の多くが現在でも日本で就業し、中には日本へ帰化をしたものも現れたことに、その効果が見て取れる。
彼らに対する評価としても、仕事面では彼らの上司から「日本社会特有の手続きが彼らにとっては煩雑に感じられるようですけど、こちらが時間をかけてキチンと説明するとわかってくれるようです 」と就職2年目には捉えられており、その後はより会社や地域社会に適応していった。また、ラグビー選手としても彼らは大きな役割を果たす。1959年に関東進出を果たした三洋電機の社長井植歳男が社員の士気向上の目的をもって 、その翌年に創設した三洋電機ラグビー部は前掲の星名秦からラグビーの指導を受けた経験のある常務の後援や、リベラル派として知られる同志社大学の岡仁詩の監督初年度の薫陶を受けた卒業生の赴任によって産声をあげた。その後、ラグビー部は当初からの自由な雰囲気や、鍛え上げられたフォワードを軸に突進を繰り返す実直な戦法をもって強化を重ね、第1回ワールドカップで日本代表監督を務めた宮地克実を1988年度より監督に迎えた後は、毎年のように優勝候補に挙げられるようになった。そこに1991年度、シナリ・ラトゥとナモアが入部し、チームは一層の躍進を果たす。彼らとノフォムリのラグビーへの真摯な姿勢はチームに結束と、彼らへ続こうとする意識を生んでいった。中でも、シナリ・ラトゥは1991年及び1995年に行われたワールドカップに日本代表として出場する程の活躍を見せ、1994年度から1998年度まで外国人選手初の社会人チームの主将としてチームを牽引した。そして、1995年度には三洋電機ラグビー部創部以来初の全国社会人大会優勝を果たしたのである(大学との日本一を決める日本選手権には同点で優勝したサントリーがトライ数の差で出場)。それは創部当初の目標を結果として達成できたことでもあった。
7 日系ブラジル人とトンガ人選手との相違
三洋電機ラグビー部の拠点である群馬県大泉町や太田市は、日系ブラジル人の集住地としても広く知られている。同地には三洋電機だけでなく、富士重工業も大工場を有しており、それらの下請け工場が1980年代後半以降、人手不足に陥った際に、1989年に改正された「出入国管理及び難民認定法」により、本人及びその家族は三世まで「定住者」や「日本人の配偶者等」の在留資格が認められ、就労先に制限の無くなった日系ブラジル人に注目し、受け入れを進めていった。ただ、彼らと地域社会の関係は余り親密ではなく、しばしば彼らが日本人女性を乱暴したというような根拠の無い噂も流れるほど、地域社会の中では日本人との間には距離がある。その状況を同地出身の小内透(2001)は「日系ブラジル人は職場でも、地域でもホスト住民と強いつながりをもたず、ホスト住民と日系ブラジル人の関係はセグリゲート化されたものになっている 」と捉えている。また、彼らと雇用企業との関係は2008年秋の不況により広く知られることとなったが、派遣業者を通じてのものや、業務請負(雇用契約を結んだ労働者を、工場のラインの一部を請け負っている請負業者が特定部門へ送り出す形態)業者を通じてのものが多かった。そして、不況以降は雇用調整のため多くの日系ブラジル人が解雇され、統計の取り方で上下するが、日本経済新聞の予測に拠れば不況以後3万人以上のブラジル人が帰国したとされる 。大泉町を含む日系南米人が多く暮らす28の自治体(2009年11月現在)が参加している外国人集住都市会議では「多文化共生」が標榜されているものの 、周囲は彼らを社会のパートナーというよりも「雇用の調整弁」と見なしている状況が明らかとなった。これは大東文化大学出身のトンガ人ラグビー選手の周辺では見られなかったものである。
日系ブラジル人が上記のような状態を引き起こす雇用体系の中に接収されてしまったのには幾つかの要因がある。まず、日本側の事情として、第一に、製造業の単純作業分野で人手不足が深刻化したことが挙げられる。かつて日本においては若年層や冬季に就業できない第一次産業関係者が季節工として当該業種に就く傾向があった。しかし、地方都市を含めた日本全体の経済発展、第一次産業から第三次産業への就業状況の変化、高学歴化や少子高齢化による若年層の製造業離れ等により、地方の工業都市において労働力が不足していった。そして、バブル崩壊後、一定数の若年層が製造業界に戻ったことに伴い、日系ブラジル人は深夜業務等の製造業の中でも日本人が希望しない分野、あるいは他業種に就業することとなり、周囲の日本人との接点は一層薄れていった。第二に、製造業界が行っていた業務請負の形態を国が黙認していたことが挙げられる。元来、2004年まで製造業の現場への派遣業務は認められてはいなかったが、それ以前から人材派遣業者とほぼ同様の手法を用いる業務請負業者は日系ブラジル人の主な就業先であり、彼らは当初より雇用調整に便利な存在として位置づけられていた 。そして、製造業への人材派遣が公的に認められたことにより、その傾向は一層強まることとなったのである。
そして、日系ブラジル人側の事情としても、第一に、賃金の高い雇用先に短期間で移る傾向が挙げられる。ブラジルをはじめとした南米において日本への就労はdekasseguiとも呼ばれているように、一定期間就労した後は南米に戻るとの意識が強い。もちろん、近年は定住傾向も見られるのであるが、来日当初、あるいは一定期間居住していたとしても、いずれは母国への帰国を念頭に置いているため、短期でより高収入の企業(人材派遣業者や個別の企業)へ転職することが多いのである。第二に、日系ブラジル人の言語能力が挙げられる。確かに、日系人の二世であれば一世である両親もしくは父か母が喋る日本語を多少は理解することができる。しかし、彼らには日常の忙しさや就業シフトの違い等もあって、社内で昇進できるほどの日本語能力を身に付ける機会が余り無く、三世やその配偶者の場合、日常会話レベルの日本語も理解できない場合が多かった。そのため、彼らが日本語を身に付けるには偶然に日本語を教える教室やボランティアにめぐり会うか、自分で学習しなければ、流れ作業をこなし、スキルの身に付かない業種に止まらざるを得なかったのである。そして、日常生活でも地域社会や日本人社員との込み入った会話を行う際に困難を来すために、日系ブラジル人内でのコミュニケーションが一層密になり、日本人社会とのセグリゲート化が進んだのである。ただ、この背景には日本が国として、労働者として日系人を受け入れるだけで、日本語教育の環境を整備しなかった点も考慮しなければならない。
8 日本社会の外国人受け入れへの示唆
トンガ人留学生と周囲の日本人が形成した状況は、先述のように多文化共生と言い表すことができる。しかし、それを国内の留学生や外国人労働者の事例と比較すれば、大きな隔たりがある。多文化共生という言葉を行政内外で定着させた総務省の『多文化共生の推進に関する研究会報告書』によれば「外国人住民を取り巻く課題」として、言語の問題や、定住化の条件未整備、地域での孤立や摩擦などが指摘され 、多文化共生を推進するための方針として、①コミュニケーション支援(地域における情報の多言語化、日本語および日本社会に関する学習の支援)、②生活支援(居住、教育、労働環境、医療・封建・福祉、防災等)、③地域づくり(地域社会に対する意識啓発、外国人住民の自立と社会参画)、④施策推進体制の整備(地方自治体の体制整備、地域における各主体の役割分担と連携・協働、国・企業の役割の明確化)を挙げている。
これらの対策は一見すると充実して見え、トンガ人留学生の置かれた環境にも近い。ただ、それらは外国人を単に援助の対象と見なすような、以前の留学生への対応に見られた発想と極めて類似している。そうなった理由をトンガ人留学生の事例と照らし合わせてみれば、現在日本で生活する外国人の多くと日本人の間に相互理解・相互協力を実感できる機会や場所が設定されておらず、人間関係が個人的なものに至る工夫が見られない点にある。確かに、トンガ人留学生は日本代表選手レベルであるラグビーという分かり易い手だてを有していた。しかし、非日常的な交流イベントではなく、学内や地域における様々な場に外国人を受け入れていくことで個々人の持つ特性を発見することもできようし、中でもスポーツをはじめとする趣味の分野に注目することで、たとえトップレベルのものでなくとも、お互いにこれまで触れる機会のなかった情報や発想に接することに繋がる。そして、共通の趣味は個人的なコミュニケーションにも繋がりやすく、対等な関係も築きやすい。そういった視点も踏まえ、上記の体制を整えることで、異なる文化から得られた新たな視野や成果を周囲や社会に還元していくことができるのではないだろうか。
そのような整備された状況がもたらす一つの好例がある。1991年度に選手引退後、社業に専念していたノフォムリであったが、1997年に埼玉工業大学深谷高校(現在の正智深谷高校)が「ただ強くなるため、勝つためじゃない。人としても優れた留学生を加えることでチームを成長させたかった 」との当時の監督の方針でトンガからの留学生を受け入れようとした際に、現地で選抜を手伝ったことが縁で再びラグビーに係わるようになった。そして、彼は2001年度から当時、関東大学リーグ戦グループの3部に属していた埼玉工業大学のヘッドコーチを三洋電機からの出向という形で勤めるようになった。「トンガの子にとって留学の目的はラグビーではなく勉強。大学までの7年間を保証してほしかった 」との彼の方針を受けて高校卒業後、同大に入学したトンガ人留学生の力もあって徐々にリーグ戦の順位を上げたラグビー部は2009年度には2部で全勝優勝を果たした。そして、留学生は周囲の日本人学生に対してもラグビー選手としてだけではなく、日々の勤勉な姿勢も好影響を与えていると関係者は評価する。そのように安定した雇用、自らの留学経験、両国に有する人間関係や語学力などを背景に、ノフォムリはトンガから次世代の人材育成と周囲の親密化に向けての活動を続けている。
9 多文化共生実現のためのコスト意識の変革
本稿で見てきたように、トンガ人留学生は所属チームや大学、あるいは会社に対して様々な影響を与え、彼ら自身の人生においても、その経験を生かしている。ただ、その成果は彼らの努力ばかりでなく、受け入れの前提となる諸規定にはじまり、所属組織、監督、チームメイト、周囲の民間団体等の誠意や環境があった点も考慮する必要がある。単に、留学生として彼らが迎え入れられ、単にラグビーで実力を発揮したから、その成果がもたらされたのではない。
現在、日本社会は様々な面でコスト意識の徹底が叫ばれている。もちろん、無駄な経費等を削減することに対して、筆者は何も異論は無い。しかし、従来積極的に多文化共生の下地となる日本語教育を充実させてきた自治体や大学等で関連事業の縮小や廃止が行われたり、彼らの雇用に対して容易に解雇しやすい状態に置く場合が見られるようになってきた。これらの対応は確かに短期的なコストの軽減を実現することができるものの、本稿で挙げてきた多くの効果を発生させる基礎条件を危うくさせるものである。単にチーム強化のみに止まるのではなく、スポーツを通じた大学や企業の社会貢献や新たな価値観の醸成を検討するのであれば、海外出身者に対しても継続して組織に係わることのできる環境を整備し、地域あるいは日本文化に対する理解力を向上させることが、今後も多くの成果を生むと考えられる。
確かに、受け入れ側としては、自らの負担は少なく、異なる文化や言語能力を有する人々を広く受け入れて、彼らの自助努力によって「多文化共生」の果実を得ることができれば、それほど「おいしい」話はない。ただ、現実を見れば、周囲の様々な環境が整ってこそ、彼らに可能性が開け、周囲に好影響がもたらされるのである。以前のトンガ人留学生を取り囲む状況と全く同様のものを作ることは難しくとも、彼らの日本での生活を振り返ることは多くの示唆を与え、改めて受け入れ側である大学や会社、そして日本社会に対し、多文化共生への覚悟を再認識させている。
【参考文献】
江淵一公「在日留学生と異文化間教育」『異文化間教育』第5号、1991。
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加賀美常美代「留学生への相談支援体制―留学生の心とどう向き合うか―」『留学交流』第14巻第11号、2002。
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梶田孝道・丹野清人・樋口直人『顔の見えない定住化―日系ブラジル人の国家・市場・移民ネットワーク―』名古屋大学出版会、2005。
小林真生「対外国人意識改善に向けた行政施策の課題」『社会学評論』第58巻第2号、2007。
久保弘毅「トンガからの留学生プレーヤー草創期」『ラグビー魂』第5号、2008。
村上晃一編著『ラグビー愛好日記2 トークライブ集』ベースボール・マガジン社、2008。
村上晃一編著『ラグビー愛好日記3 トークライブ集』ベースボール・マガジン社、2009。
小内透・坂井恵真編『日系ブラジル人の定住化と地域社会―群馬県太田・大泉地区を事例として―』御茶の水書房、2001。
総務省『多文化共生の推進に関する研究会報告書―地域における多文化共生の推進に向けて―』2006。
横田雅弘「留学生と日本人学生の親密化に関する研究」『異文化間教育』第5号、1991。
大東文化大学とトンガのラグビープレイヤー関係史

1975年 | 偶然訪れたトンガ王国にて、大東文化大学ラグビー部長で、薄記会計の専門家でもあった中野敏雄大東文化大学教授がそろばんに関心の高かったトンガ国王トゥポウ4世と親交を持つ。 |
1980年 | 中野敏雄が窓口となり、ホポイ・タイオネとノフォムリ・タウモエフォラウが大東文化大学へ、そろばん留学生として来日。 |
1984年 | ホポイ・タイオネ日本代表として第9回アジア大会優勝。ホポイ・タイオネとノフォムリ・タウモエフォラウが卒業後、三洋電機へ。 |
1985年 | シナリ・ラトゥとワテソニ・ナモアが入学。 |
1986年 | シナリ・ラトゥとワテソニ・ナモアを有し、大東文化大学、大学リーグ戦全勝優勝。また同年度、早稲田大学を決勝で破り大学選手権初優勝。 |
1987年 | 第一回ラグビーワールドカップにノフォムリ・タウモエフォラウとシナリ・ラトゥが日本代表として出場。 |
1988年 | シナリ・ラトゥとワテソニ・ナモアを有し、大東文化大学2度目の大学選手権優勝。ホポイ・タイオネとノフォムリ・タウモエフォラウが日本代表として第11回アジア大会出場。 |
1989年 | シナリ・ラトゥとワテソニ・ナモアが卒業、三洋電機入社。日本代表が史上初めてラグビー伝統国であるスコットランドに勝利した一戦で、ノフォムリ・タウモエフォラウとシナリ・ラトゥが出場。 マサソ・パウンガ入部。 |
1990年 | 第二回ワールドカップ予選にて、日本代表とトンガ代表との試合にシナリ・ラトゥが日本代表として参加。シナリ・ラトゥ日本代表として第12回アジア大会出場。 |
1991年 | シオネ・ラトゥ、ロペティ・オト、タカイ・パレイが入学。大学院生でもあったマサソ・パウンガはオトとパレイの高校時代の恩師。同年度、大学リーグ戦を全勝優勝し、大学選手権は明治大学に敗れ準優勝。第二回ラグビーワールドカップにシナリ・ラトゥが日本代表として出場。 |
1992年 | シオネ・ラトゥ、ロペティ・オト日本代表として第13回アジア大会優勝。マサソ・パウンガが大学院経済学研究科経済学専攻博士課程入学。 |
1993年 | ワールドカップ・セブンズ(7人制)にシナリ・ラトゥが日本代表として出場。 |
1994年 | シオネ・ラトゥ、ロペティ・オトを有し、大東文化大学、リーグ戦優勝、及び3度目の大学選手権優勝。シナリ・ラトゥ、シオネ・ラトゥ日本代表として第14回アジア大会優勝。 |
1995年 | シオネ・ラトゥ留学生初の主将就任。シオネ・ラトゥ、ロペティ・オト、タカイ・パレイが卒業、卒業後はそれぞれ三洋電機、トヨタ自動車、横河電機へ入社。ロニ・マナコ入学。シナリ・ラトゥ、シオネ・ラトゥ、ロペティ・オトが日本代表として、第三回ワールドカップ出場。マナコ朗仁入学(以降、入学はしても日本語研修課程時には公式戦出場不可となり、翌年の正規課程入学を経て選手登録される)。 |
1996年 | マサソ・パウンガが大東大経済学博士号取得、同年4月に帰国後、国王によりトンガ王国産業・観光・労働大臣に任命。フェレティリキ・マウ入学。 |
1997年 | ルアタンギ・侍バツベイ入学。 |
1998年 | ナタニエラ・オト(ロペティ・オトの実弟)入学。 |
1999年 | ルアタンギ・侍バツベイ、フェレティリキ・マウ、ナタニエラ・オトを有し大学選手権準決勝、及び日本選手権進出。マナコ朗仁卒業、クボタ入社。 |
2000年 | フェレティリキ・マウ卒業、リコー入社。トゥヴィ・マヘ入学。 |
2001年 | ルアタンギ・侍バツベイ卒業、東芝府中入社。オサイアシ・フィリピーネ、ビリアミ・ファカトウ入学。 |
2002年 | シナリ・ラトゥ、大東文化大学ラグビー部監督に就任(~2008年度)。ナタニエラ・オト卒業、東芝府中入社。ピリオテ・ハフォカ入学。 |
2004年 | トゥヴィ・マヘ卒業、日本IBM入社。エモシ・カウヘンガ入学。 |
2005年 | オサイアシ・フィリピーネ、ビリアミ・ファカトウ卒業、卒業後はそれぞれ日本IBM、日本航空に入社。レプハ・ラトゥイラ入学。 |
2006年 | エモシ・カウヘンガ中退、リコー入社。シリベヌシ・ナウランギ、シオネ・テアウパ入学。 |
2007年 | 第五回ラグビーワールドカップにナタニエラ・オトとルアタンギ・侍バツベイが日本代表に選出(※彼らは共に帰化選手)。 |
2008年 | ビリオテ・ハフォカ卒業。 |
2009年 | レプハ・ラトゥイラ主将就任、ワールドカップ・セブンズに日本代表として出場。フィリペ・サーリ入学。 |
この中で、2005年のオサイアシ・フィリピーネとビリアミ・ファカトウは川村千鶴子ゼミナールのゼミ生。
その後のラグビーワールドカップでは大東文化大出身のトンガ出身選手は日本代表に選出されていないものの、トンガ人自体は主力であり続けている。
2011年大会 | バツベイ シオネ(※ルアタンギ・侍バツベイの弟)ホラニ 龍コリニアシ(※ノフォムリ・タウモエフォラウの甥で、大学時代ノフォムリのコーチを受けた)タウファ 統悦(※ノフォムリらと同じトゥポウ・カレッジ出身) | |
2015年大会 | ホラニ 龍コリニアシ(※弟のホラニ 龍シオアペラトゥーはバックアップ・メンバーに選出)アマナキ・レレイ・マフィ | |
2019年大会 | ヴァルアサエリ 愛(※大学時代ノフォムリのコーチを受けた)ヘル ウヴェ中島イシレリアマナキ・レレイ・マフィアタアタ・モエアキオラ ちなみに、同じく代表に選ばれたアタアタ・モエアキオラとレメキロマノラヴァの両親は共にトンガ人である。 |
作 成 :中本博皓、鏡保幸、小林真生