(第10回) 中国帰国者
3世代にわたる移住での困難
<『都政新報』2020年8月14日006面より・都政新報社>
https://www.toseishimpo.co.jp/denshiban
(首都圏中国帰国者支援・交流センター 安場淳)
「中国帰国者」といえば新型コロナウイルス絡みの意味に変わってしまったが、いわゆる「中国帰国者」である中国残留孤児・残留婦人が都内各地に多数住んでいることを、帰国者援護担当以外の方もご存じだろうか。
中国東北部の旧「満洲」から戦後数十年を経てやっと祖国日本に帰りついた中国帰国者、その多くは戦前の国策であった開拓団として送り出され、敗戦で中国に残留を余儀なくされた人たちである。
実は東京都からも1万人を超える数の開拓団員が満洲に渡っている。中でも敗戦の1年前に送り出された荏原郷開拓団は千人余の団員のうち、ソ連軍の攻撃や集団自決、伝染病、栄養失調などで800人を超える犠牲者を出している。
戦後75周年を迎える今年、彼らは祖国に安住の地を見いだすことができたかというと、なかなか厳しいものがある。その困難の一つが、今や最高齢で90代、最年少でも70代半ばの帰国者とその配偶者の多くと日本社会との接点である介護の現場にある。介護現場は外国人介護職という異文化の受け入れがホットな話題であるが、こちらは介護利用者の持つ異文化との出会いである。この領域では在日コリアンが先輩格で、インドシナ難民、南米日系人が中国帰国者に続いて高齢期を迎えている。

帰国者の中には中国で就学経験の乏しい人が多く、中高年になってから日本語の学習を始めたことや、帰国後3K仕事に追われて学習時間が得られなかったこと、少しは話せていた人でも定年退職後の十数年の間に日本語との接触がなかったことなどから日本語での意思疎通が難しく、「暑い、寒い」といった単純な訴えすらできなくなっている人が少なくない。
また生活習慣も日本と大きく異なり、年をとっても食べたいのはやはりこってり中華料理で、和食の味付けは舌が受けつけなかったりする。介護サービス利用以前に、介護をプロの手に委ねること自体を親不孝とする価値観も根強くある。逆にヘルパーを家事手伝いと見なす異文化トラブルもある。
加えて若い介護職員も、「ザンリュウコジ?何それ?」ぐらい背景事情を知らないので、日本名なのに日本語のできないこの人は何だろうと不審がってしまう。他の利用者からの、帰国者や中国に対する無理解の目にもさらされる。帰国者の人たちがどういう経緯で今、日本で老後を送っているのかを知っていただけたらなぁ…といつも思う。
また、帰国者は20〜30年の短い間に三世代にわたる人たちが移住を果たしたことから、いわゆる移民とは異なる課題も抱えている。二世はその多くが一世の帰国に遅れること数年での成人以降の来日で、余裕のない生活の中、日本語のハンディは今も克服されていない。しかも人によってはもう70代、いわゆる老々介護の問題が自身の言語や文化未習得と相まって二重三重の困難をもたらしている。
逆に、来日時に幼少期であったり日本生まれだったりする三世、四世では、日本語の話し言葉は問題ないが、親や祖父母と中国語での意思疎通が難しく、家族内で言語や価値観の断絶に悩む。人格形成の過程でのこのような悩みから自らのルーツ否定に至る子もいる。
また、家庭の言語環境や家族戦略のあり方から、日本語を話すのは問題なくても学校で学ぶいわゆる学習言語の習得がままならない子ども(成人となっても)もいる。他のニューカマーの二世、三世と共通のこうした課題を帰国者の三世、四世も抱えているのである。
帰国者のこのような歴史と今を都民の皆さんに広く知っていただこうと、私の勤務先の首都圏中国帰国者支援・交流センターでは毎年、「中国残留邦人等への理解を深める集い」を首都圏各地で開催してきた。今年は9月5日に東京での開催を予定している(新型コロナウイルスの状況次第ではオンライン開催も)。当センターのサイトに詳細を掲げたので、ぜひご参照の上、お運びいただきたい。
(首都圏中国帰国者支援・交流センター 安場淳)