(第22回) 無国籍者
自らのルーツを求めて
<『都政新報』2020年9月29日008面より・都政新報社>
https://www.toseishimpo.co.jp/denshiban
(作家・女性史研究家 茅野礼子)
在日14年になるカディザ・ベコムさんは「私の国籍はバングラデシュです」と語り始めた10人兄弟の6番目の彼女。上の3人はミャンマーに生まれ、4人目からは迫害を逃れ、出生地主義をとるバングラデシュへ。国籍は得たものの、バングラデシュもロヒンギャにとって安住の地ではなかった。カディザさんは、ミャンマー西部のロヒンギャ人であることを隠し続けていたという。
カディザさんの夢は父と同じ医師になることだったが、受験のための書類からロヒンギャであることが分かり、家族に迷惑がかかることを恐れ断念した。
20歳の時に来日。母方の親戚にあたるムシャラフ・フセインさんと結婚した。

=写真家・新畑克也氏撮影
1988年、ミャンマーの軍事政権はラカイン州のロヒンギャの人たちを不法滞在者とし、移動の自由、進学、就職を厳しく制限した。ムシャラフさんは1995年ごろ、20キロの距離に江戸時代のような関所が五つあり、自分を証明する書類を出さなければ先に進めなかった。高校生の時、軍事政権を批判する書を書いた父の身代わりで捕らえられ、着ていたシャツで目隠しをされ、車で引き回され、ライトを顔に向けられ、鼻を殴られ、ガンで脅され、「殺す」と言われ、2日間刑務所に入れられた。
ムシャラフさんは2000年に来日。入国と同時に難民申請をし、2年半仮放免の末に難民申請が下りた。仮放免の間の生活は、働けない、保険証がないなどつらいものだった。
ミャンマー政府は1982年、「市民権法」でロヒンギャの人たちの国籍を剥奪した。ムシャラフさんは日本で難民認定されたものの、海外に出るのに必ず再入国許可書が必要になる。
ムシャラフさんは大塚で中古自動車販売の仕事をしたが、赤字続き。工場の仕事を始めたが、ストレスで眠れず心筋梗塞の発作が出たりして、今はユニクロ渋谷道玄坂店で働き、お客様に親しまれている。
カディザさんは日本に来てから日本語学校で勉強し、日本語能力試験で一番難しいレベルのN1を取得。青山学院大学総合文化政策部に入学し、1年の時にアヤン君が、2年後にヌラインさんが生まれた。大学では難民について学び、今はユニクロ池袋東武店に勤めている。
「私はよく考えるのです。私の存在のルーツはどこにあるのかって。私の国籍はバングラデシュ。両親はミャンマーのロヒンギャ。自分はミャンマーに一度も行ったことがありません。私のルーツはどこ」とカディザさんは話す。
大学生の時に生まれたアヤン君とヌラインさんは、 血統主義の日本では無国籍。母子手帳は交付されたので、大抵のことは困らなかったと言う。ただ、海外に旅行に行くと、パスポートの国籍欄は「無国籍」。必ず空港のイミグレーションで最後まで残されて、こんこんと説教され、「今度だけですよ」と言われ、解放される。
アウンサンスーチーさんが26年間の軟禁を解かれ、2010年に政権に復帰したら、1799年から続くミャンマー軍事政府のロヒンギャへの迫害は終止符が打たれると思われた。しかし、2012年の暴動ではラカイン州の若い女性が夫の目の前でレイプされ、ロヒンギャ人14万人がミャンマーを追われ、17年には73万人のロヒンギャの人が国外追放された。保護者のいない6千人の子どもたちは人身売買や児童婚、性的搾取のリスクが高い。ミャンマー政府は5月25日、ロヒンギャに対するジェノサイト(大量虐殺)を防止し、法令順守の報告書をオランダハーグ国際司法裁判所に提出した。しかし、守られるかは疑問だ。
カディザさんは異国で猛烈に勉強し、働きながら子どもを育てる一人の人間として、偏見や差別、民族の対立、無国籍に終止符を打つには、教育が大切だと静かな口調で語った。
(作家・女性史研究家 茅野礼子)