多読味読<46>:小林裕子 『司法通訳人のという仕事 知られざる現場』

【多読味読<46>:小林裕子 『司法通訳人のという仕事 知られざる現場』 (慶応義塾大学出版会 2019)】

荒井幸泰(多文化社会研究会理事)

観光客が多く訪れ、労働者不足によって海外から多く住むようになっている今の日本では、外国人が加害者、被害者としてかかわる事件が多くなっていくだろうことは予想される。

司法通訳という仕事を行ったことはないが、存在は知っている。役割、存在が大きくなってきていることも想像できる。特殊言語の通訳に登録した人も知り合いでおり、どの様なことをするのかも、少しは聞いたことがあるが、全体的な実情を聞くことはなかった。

本書の筆者は、司法通訳として長年仕事をしてきた方である。

司法通訳の役割と、必要とされる知識に関して広く知ってもらうために筆をとられたようである。章立てをざっと紹介すると以下のとおり:

I 司法通訳とはどんな仕事か?

IIプロフェッションとしての司法通訳

III来日外国人犯罪、刑事手続きの現状

IV司法通訳人に法律知識は必要ないのか?

Vイメージの違い、厳密な通訳に必要なこと

VIグローバル化する社会と司法、司法通訳の能力向上のために必要なもの

社会言語学あるいは世間一般では、「第一言語」はその人が一番得意とされる言語のことである。しかし、この書の中で出てくる「第一言語」はかなり特殊で、裁判所において、被疑者が日本語をうまく話せないものの場合、被疑者が裁判のプロセスで最大限意思疎通ができる言語だということのようだ。もちろん、第一言語と「母語」が一致するのが理想的であるが、そのようにならないケースも多くある。

来日する外国人は、様々な言語や文化を背景に持つ人々である。よって、それらの人々の言語に対応してすべて対応しきれないので、母語以外で被疑者と通じる言語を模索しなければならない。長く住んでいれば日本語での意思疎通ができるようになるだろうが、それ以外の言語の中であれば、一番可能性のあるのは英語ということになる。実際、筆者は英語の通訳者であるが、英語母語話者以外の様々な人を担当している。

ただ、本書にある2017年のデータ(53頁)によれば、被告人通訳事件で一番多いのは、中国語920件で、全体の4分の1を占めるようだ。ベトナム語(718件)、タガログ語(247件)、ポルトガル語(216件)に続いてようやく英語が5位(190件)に顔を出している。

なお、話すといっても、十全でないことは、かなりうまく話せるという日本人でされ、あらゆるジャンルを英語で自由に話せるとは限らないことからも想像がつく。ましてやラテン語、ギリシャ語等がちりばめられた、英語の専門用語に対応するのは難しい。さらに、聞き手にとっても、それらが適切な英語に訳されたとしても、被疑者の教養のレベルによっては、ネイティブと呼ばれる人々だとしてもちんぷんかんぷんなのだ。日本人が、法廷に立ち、そこで使われる日本語に苦労するぐらいである。

話すもの、そして聞くものの程度の差はあれど、仲介者としている通訳者は、話者の口と、聴者の耳の間をつなぐ管のようなものでなくてはならず、存在を限りなくゼロにすることを理想とする。この書のなかでも何度も強調されることである。そこに必要なものは何であろうか。

当然、法律的な手続きの進め方などに関する知識は必須となる、また、相手文化のことを知らねばならない。お互いの言葉に通じているというだけでは通訳はできない。法律に関する通訳であれば、当然、法律に関する専門的な知識が必要になるだろう。しかし、そのような知識を持つ人が法廷で通訳に立たない場合もあることを筆者は指摘している。さらに、稀ではあるが、通訳としての資質が疑われる人が通訳として法廷に立つ場合(例えば34~37頁にある事例)もあるとのこと。

また、法律や社会秩序に関する文化的違いは、同じ言葉を使っても違う理解をされてしまうことが強調される。もちろん先ほど挙げた教養の差もここにはかかわってくるだろう。評者が経験者として分かることは、そのまま訳しても相手が分からないと表情をすれば、それをかみ砕き説明してでもなんとか伝えようとすることである。だが、時として解釈のし過ぎなど、「善意」が暴走することもあることを、本書は挙げている(40~41頁)。こうなると、通訳はゼロの存在とは言えないかもしれない。

現状においても、通訳の不足が指摘されていることも付け加えておかなければならないだろう。

最終章VIで、以上のような現状から、日本弁護士連合会が2013年、『法廷通訳についての立法提案に関する意見書』が出され、そこでは数の確保、質の確保、そして報酬基準の設定などに重点が置かれていることを紹介した上で、特に質の問題に関して、アメリカとの比較において検討が加えられている。

評者は、通訳、翻訳論を授業として担当したことがある。司法通訳に関しては、思い浮かぶものを上げると、丁海玉 『法廷通訳人 裁判所で日本語と韓国語を行き来する』(港の人 2015)で韓国語、森田靖郎 『司法通訳だけが知っている日本の中国人社会』(祥伝社新書 2007)で中国語の事情をある程度把握したが、本書は、通訳としての経験以上に、大学で教鞭をとり、論文の中で述べられている日本やアメリカの司法通訳士の扱いなどが紹介され、より全体が把握できるものとなっている。

水野真木子・内藤稔 『コミュニティ通訳 多文化共生社会のコミュニケーション』(みすず書房 2015)のような、国家機関や公的な機関よりもより、民間に近いレベルでの通訳に関して述べられた本でも、ここで挙げたような問題があることが挙げられていて、司法通訳に関する新しい知見を得るとともに、社会全体に共有される問題があることを改めて知ることが出来た。

個人的に言えば、通訳は英語や中国語など、ある程度の需要がある言語を除くと、なかなか通訳が育たない。本書の最終章に上げられたものの、それほどきちんと検討されなかった報酬基準などはもう少し考えねばならない問題のように思える。

日本人にとって、水がタダであるのと同じで、コミュニケーションに必要な技術もほぼタダだと思われている節が多いように思える。

来年行われるオリンピックにおいても、通訳はボランティア任せにしている部分が多くあるように見受けられるが、それで質が確保できると考えているのだろうかというところに甘さを感じてしまう。異言語を修得するのには、血のにじむような努力を必要とすると、自分の経験から考えるのだが、その報酬としてはあまりに少ないことが多い。だからなり手が少なく、質も保てないという状況にあるということが、実は本書に述べられていないが、強調しておきたいところである。

なお、ここでは外国人に関することが強調されているが、手話通訳も非常に重要な役割を果たす人々である、実態に関して、研究書を手に取ったことはないが、小説として、丸山正樹 『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』(文藝春秋:文春文庫 2015)が面白いのでぜひ最後に紹介しておきたい(決して主人公が荒井という名前だから紹介しているわけでははない)

荒井幸泰