多読味読<34>:加藤聖文『「大日本帝国』崩壊 東アジアの1945年』

【多読味読<34>:加藤聖文 『「大日本帝国』崩壊 東アジアの1945年』(中公新書 2014)】
2019年2月28日

モンゴルと社会言語学の研究をしております荒井です。
現在、「日ソ戦争およびその後の引揚・抑留に関する総合的研究」というテーマの科研費の研究グループにモンゴル班として参加しております。
戦争が終わった時、今の日本以外の領域には多くの日本人がおり、どの様な形で帰還したかが研究テーマです。
こんなこともするのとお思いかもしれませんが、実は抑留者の調書1万人分をまとめたことが依然ありまして、縁あって参加しております。

つい最近も女性のシベリア抑留関係で、大阪大学の名誉教授の生田美智子先生が見つけたものとして、
「シベリア抑留、女性名簿 邦人121人、ロシアで発見」(中日新聞 2019年2月24日)
www.chunichi.co.jp/article/front/list/CK2019022402000064.html?fbclid=IwAR1vYZq8Ld2fyDj424Qef05sogOzDXbA1OSIz30LS_Iem63KablFoWvDvHA
こんな形で成果が出ていたりします。
シベリア抑留にどれだけの女性がいたのかなかなか決定的な資料が見つからなかったようですが名前が見つかることによって随分と研究が進むように思います。

さて、この科研費グループのメンバーでもある方なのですが、加藤聖文さんの『「大日本帝国」崩壊 東アジアの1945年』(中央公論社 2014)を紹介したいと思います。

というのも、2018年6月に秋山肇さんがトルーマンのことを発表されたと思いますが、序章がポツダム宣言の話題で、実は、トルーマン1人でシナリオを描いたもので、スターリンも、蒋介石もその場にいなかったが、「無理矢理」同意の上で発表されたものという話、結構驚きました。いろいろな人が協議したうえでまとめられたものだと思っていましたので。もしかしたら、金澤さんは、この事実をご存じなのかもしれませんが。
つづいて、東京(1章)、京城(2章)、台北(3章)、重慶・新京(4章)、南洋群島・樺太(5章)において、日本の敗戦がどう受け入れられて行ったのかをコンパクトにまとめ、諸地域の事情を踏まえた上で結論として、東アジアにおいて「1945年9月2日は連合国による大日本帝国解体のセレモニー以外の何ものでもなかったのであり、帝国崩壊の波をまともに被った東アジアや脱植民地化へ向かいはじめた東南アジアにとって大きな歴史的重要性も持たない。むしろ、1945年8月15日の前後に起きた歴史が、現在もなお影響を与えているといえよう」(231頁)と書かれておられます。
歴史的なインパクトというのはこうやって考えるものなんだなと、考えさせられました。
とともに、現代にも通じるかなと思うところとして、「大日本帝国憲法が発布された1889年の時点では、大日本帝国とは万世一系の天皇と臣下である日本人だけの小さな国家-「ミカドの国」でしかなかった。だが、対外戦争を重ねるなかで、植民地帝国へと変貌し、多民族国家となっていった。しかし、敗戦までほとんどの日本人はその現実に気づかなかった、否、気づこうともしなかった」(221ページ) という部分も紹介しておこうと思います。

経緯は違えど、多民族社会になっているという日本の現実に、気づこうとしてない(気づかせないようにしている?)人が多くいて対応がどんどん遅れているようにおもえる現在とそれほど変わらないのではと思えて仕方なかったので。

長文にて失礼いたしました。