多文化研=俳句のページ

【2018年11月15日〆多文化研俳句まとめ】

今年は暖冬との予報が出ていますが、さすがに立冬から2週間も経つと朝夕は冬の寒さを感じるようになりました。花屋の店先にはポインセチアやシクラメンなど暖かな赤色系の花々が並んでいます。15日までの投句を下記のようにまとめました。(以下、投句順)

秋祭り幼な子が魅入るお餅つき     川村千鶴子

餅つきは歳時記的には年末の生活行事として冬の季語になりますが、秋祭りのイベントとして実際に行われたわけですから、嘱目(しょくもく=目に触れたもの)の句としてこの季重なりはOKだと思います。「魅入る」は神や霊などが取り付くというイメージがありますので、普通に「見入る」あるいは「見る」で良いのではと思います。
参考句:秋祭り幼な子見入るお餅つき
        子ら囲む秋の祭りのお餅つき

冬立ちて寒さいまだし木に青葉    増田隆一
これでまあ冬が立ったかまだ夏日   増田隆一

今年は異常気象の年でした。秋の進行が遅いように思われます。11月7日は立冬でしたが間服(あいふく=合い服)で外出しました。落葉樹にまだたくさん葉が散り残っています。最高気温が25度以上になる日を気象用語で夏日と言いますが、テレビの気象予報を聞いて驚きました。上記二つの句は今年の立冬に感じた違和感が素直に詠まれていると思います。

嬶どのに傘を取られししぐれかな   増田隆一

嬶(かか)は妻を親しんで呼ぶ言葉ですが、今では落語の世界でしか聞く機会がなくなりました。これに「どの」という敬称を加えて可笑しみを出した上五がよく効いていると思います。「取られし」といっても傘を持たない妻に、持っていた自分が貸してあげたわけですから、妻への愛情をさりげなく句にした夫の照れくさい感じが出ていて強く共感します。

飼ひ猫に軟膏を塗る初時雨      芹澤健介

時雨は冬の通り雨。初時雨は冬の到来を肌で感じるわびしさを伴うものですが、猫に軟膏を塗るという優しさ、暖かさが、初時雨の寒さ、わびしさを相殺してくれます。初時雨という下五が軟膏を塗るというありふれた日常に品格のある詩情を与えています。

曇天に鎖の鷹と目の合へり        芹澤健介

鷹を使った狩り(鷹狩)が晩秋から冬に行われることが多いことを反映して鷹は冬の季語となっています。猛禽類としての鷹は目が鋭く、これと目を合わせるには人間の側にもそれなりの気迫と目力(めじから)を必要とします。止まり木に鎖でつながれ,全身に精気をみなぎらせる鷹の目は灰色の曇天を背景にらんらんと輝いている。そんな緊張感がしっかり伝わってきます。晴天の青より曇天の灰色を背景とすることで鷹の目はいっそう迫力を増します。「曇天に」という上五が素晴らしい効果を発揮して、誠に見事な句になっています。

車窓からいちょう黄葉探すわれ      原田壽子

「車窓からいちょう」からうっかり雷鳥(らいちょう)を考えてしまいました。ここは漢字で銀杏黄葉(いちょうもみじ)と書くことにしましょう。「われ」と言わなくとも、たいていの場合探しているのは本人なので、これも省略して良いかと思います。
参考句:車窓から銀杏黄葉を探しけり
     銀杏黄葉探し車窓に額(ひたい)寄す

晩秋や麦刈り終わり煙たつ       原田壽子

麦は稲作の裏作として5月から6月にかけて成熟期を迎えますので、麦刈りは夏の季語として扱われます。したがって晩秋に作業が終わるのは稲刈りということになりますが、なにか外国の麦刈りを詠まれたか、日本でも麦の専用畑で栽培され、秋に収穫される実景を嘱目されたのでしょうか?
参考句:麦刈りの後の畑や煙立つ

畔道に黄菊かたまり麦畑        原田壽子

「かたまり」はあまり詩的ではないので「群れ咲く」としました。菊(秋の季語)と麦(夏の季語)のバッティングを避けて、「畑野」にしました。
参考句:あぜ道に黄菊群れ咲く畑野かな

秋雨や街静かなりわれひとり      原田壽子

秋雨の降る街が静かであることは十分に想像できますので、「秋雨」と「静かなり」は実質的にダブります。静かであることはがやがやと複数の人間がおしゃべりをしていないことを前提しますので、「われひとり」も無くともよい言葉になります。
参考句:秋雨の街ゆく吾の靴の音
      秋雨の街黄昏るる(たそがるる)家路かな

無花果の実は人知れず雨に溶け         貫真英

無花果が熟れて、収穫されることもなく秋雨に溶け朽ちてゆく様を詠まれたものと思います。無花果は秋に実るので秋の季語となっています。したがって秋の季語として使う場合は「無花果の実」とする必要はありません。(良く知られた子規の俳句「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」も「柿の実を食えば」とはなっていないのと同様です)
参考句: 無花果や熟れては雨に溶けゆけり

毛布から別れたくない朝寒み       マハルザン ラビ

「朝寒み」(あささむみ)という季語を初めて知りました。「み」という語尾は「悲しみ」「凄み」「楽しみ」というように確かに名詞を作る機能を持ちますので、「朝寒し」の名詞形として「朝寒み」という言葉が成り立つのですね。勉強になりました。朝が寒いので、毛布を離したくないという季節になってきました。「朝寒み」は秋晴れの朝などに感じる寒さで秋の季語になります。(これに対し「寒き朝」は冬の季語)。「毛布」は冬の季語なので、このバッティング(季ちがい)を改善する必要があります。
参考句:毛布から離れたくない朝(あした)かな

秋霖に追い掛けられた辛い日々       マハルザン ラビ

秋霖(しゅうりん)は秋の長雨を指す言葉です。にわか雨のように急に降ってきた雨ではないので、「追い掛けられた」という中七の言葉が適当かどうかが気になります。一方で、「辛い日々」という下五は「日々」という時間的な継続を示す言葉が使われており、長雨でないと対応しません。何回も急な雨に降られて困った、ということであれば、
参考句:秋時雨(あきしぐれ)追い掛けられた辛い日々

雨に「追い掛けられた」のではなく、秋の長雨のなかで仕事の締め切りに追い掛けられて辛かった、というのであれば、
参考句:秋霖や締め切り迫る辛い日々

晩秋や木曽路の旅に出かけたし      貫隆夫

紅葉の散り残った晩秋の木曽路を歩いてみたいと願っています。

(文責:貫隆夫)

貫先生近影カトマンズ17.03.30 撮影高橋衛 P1010763 (3)

貫隆夫(撮影:高橋衛)

貫 隆夫(ぬき たかお)
1940年鹿児島市生まれ。慶應義塾大学大学院商学研究科博士課程単位取得。専攻は経営学。
武蔵大学教授、大東文化大学教授を経て、現在、武蔵大学名誉教授。俳句連中「まだん」会員。
多文化社会研究会顧問。

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20181015日〆多文化研俳句まとめ】

 秋は季節の移ろいが速いなかに空や風や花の風情に繊細な変化が表れているように思います。昨日、台湾から帰宅しましたが、高雄市から新幹線に乗るとき駅前の樹木から元気な蝉しぐれが聞えてきました。台湾にも俳句の会があると聞いていますが、10月に聞こえる台湾の蝉の声は日本の「秋の蝉」が持つ季節感とはまったく違うものとして聞こえてきました。(以下、投句順)

名月や抜け毛に見えし雲の糸             増田隆一

  名月と来て「雲の糸」となると、夜間に見える雲となりますね。ここでは名月に照らされた夜のすじ雲が抜け毛のように見えた、と理解しました。名月と抜け毛の組み合わせは俳句史上初めてのことかと思います。

願い多き友に祈りの芋煮炊く              増田隆一

 芋煮会はもともと山形の野外行事ですが、今は各地で行われるようになりました。ここでは芋煮会というより、個人的に芋を煮たということかと思います。「願い多き友」の意味、また「祈りの芋煮炊く」とは何かが良くわからい、という点が問題かなと思いますが、病勝ちで健康への願望が強い友が来訪したので、その友の健康を願って芋を煮たと解釈しました。芋煮の「煮」ると「炊く」が重複しているように見えるので、工夫の余地あり、かと思います。

 参考句:友来る健やかなれと芋煮かな

りーりーといとど迎える千鳥足             増田隆一

 「いとど」はカマドウマを指し、昔からコオロギと混同されて詠まれることが多いようです。カマドウマには発声器官がなく、鳴かないそうですが、増田さんの句は昔からの混同をあえて踏襲された句と理解し、酔っ払って千鳥足で自宅近くまで帰ってくるとコオロギが鳴いていた、と解釈しました。コオロギの鳴き声を「りーりー」と表現されたのは面白いと思います。秋の夜更けの男の生活場面として共感を覚えます。

栗剥きて無事や父母・友雨に風           増田隆一

 台風の影響で強い雨風がある中で栗を剥きながら郷里の父母や友を思っている、という情景かと思います。俳句では中黒(なかぐろ)の・は使わないのと、下五の「雨に風」がおさまりが悪いので、これを省略して下記の参考句を作りました。

 参考句:栗剥くや父母(ちちはは)のこと友のこと

秋晴れの防災訓練雲の中              川村千鶴子

 防災訓練のはしご車に乗られた体験を俳句にされたと伺いましたが、「雲の中」と言うと飛行機に乗って雲の中に入ったような状況を思わせますので、「雲近し」くらいにしてはどうでしょうか?

 参考句:秋晴れや防災訓練雲近し

秋高し防災訓練爽やかに               川村千鶴子

 秋高し、は今の季節にピッタリの季語ですね。「爽やか(さわやか)」ないし「爽やか(さやか)」は秋の澄んだ空気を表現する言葉として秋の季語になります。秋高しと季重なりになりますので下記の参考句を作ってみました。

 参考句:防災訓練はしご車伸びて秋高し

いわし雲夜明けの月の白さ映え           原田壽子

 いわし雲も月も秋の季語なので、いわゆる季重なりとなりますが、ここではいわし雲が出ている空に月がかかって、いわし雲の白と夜明けの月の白とが相乗効果となり、月の白がますます映えているという状況を詠んだものと解釈しましょう。白さが映えているというときの「映え」はやや状況説明的になりますので、次の参考句を作ってみました。

 参考句:夜の明けて月の白さや鰯雲

ロボティクス手足となりてわれ生きる        原田壽子

 ロボティクスとはロボットの設計・製作・運転などに関する研究を総称して、ロボット工学ないしロボット学と呼ばれるものなので、直ちに介護ロボットを指すものではないようです。介護ロボットが私を助けてくれるので私はこうして生きている、という句の意味はロボットを俳句に詠んだ先駆的な句として歴史的な意味を持つのではないでしょうか。ただ、この句には季語がないので(なくても構わないという立場もありますが)、ここでは季語を取り込む努力をしてみます。

 参考句:ロボットの介護優しき秋の暮れ 

    (高齢期すなわち人生の秋あるいは冬をロボットに助けられて生きてる私)

     介護ロボット吾を生かしむ秋日和

待ちていた中秋の月輝いて              原田壽子

 「待ちていた」は「待っていた」と言うほかはないと思います。花は咲くもの、月は輝くもの、とすれば「月輝いて」はくどい表現ということになります。詠んでいる情景は、「仲秋の月が明るく輝いている」という当たり前すぎる情景になりかねないので、仲秋の名月を見る主体の情景を詠むことにしてはどうでしょうか。私の好きなロマン俳句風に下記の参考句を作ってみました。

 参考句:名月や今夜の私は一人きり

道半ばモーテルの夜半虫の声              芹澤健介

 目的地までの行程の途中、夜遅くモーテルに泊まることになり、車を降りたとたんか、あるいは部屋に荷物を置いたところで、鳴き声繁き虫の声が聞えて来た、という情景が鮮明に伝わります。俳句では「景が見える」ということを重視します。この句は景が良く見えるという点で優れた句だと思います。ご年齢が分かりませんが、「道半ば」は行程の半ばであると同時に人生の道半ばということも含意して、志半ばの自分が人生の秋の夜更けにモーテルというやや半端な場所で感じる感慨を詩情を込めて詠まれたと理解することもできます。

 (上記コメントに対して頂いたメールにおいてアメリカ出張中に詠まれた俳句と伺いました。アメリカでも虫が鳴くんだなー、という思いに重点を置くとすれば、下記のような句にすることも可能かと思います。)

 参考句:モーテルで聞くアメリカの虫の声

 (あるいは、やや散文的になりますが)

 アメリカのモーテルで聞く虫の声 

 (モーテルは旅の途中で泊まるもの、というが考えを前提すれば、原句の「道半ば」という上5は「モーテル」に含意されているので省略可能)

 また、(虫は通例、夜に鳴くもの、という考えを前提すれば、原句中七の「夜半」は省略可能)

秋の夜窓を貫く月灯り            マハルザン・ラビ

 「窓を貫く」という中七はインパクトがありますね。秋は空気が澄み、電気を消した部屋の中に月の光が「窓を貫く」ように差し込んでくる、という情景がしっかり描かれていると思います。

 ㈰秋の夜、は秋。月も秋の季語なので、秋が重なるという批判もあり得ます。月は一年中空にありますが、俳句の世界では春の花(さくら)と秋の月が対比されます。秋から冬にかけて空が澄み渡り、月の存在感が際立つために、月を秋の季語とすることが受け入れられているのだと思います。しかし、ここでは「月」ではなく、「月灯り」なので季重なりではないという見方も可能と思います。

 ㈪月明り(つきあかり)という言葉はありますが、月灯り(つきともり)という言葉はないように思います。「灯し」ないし「灯り」は照明用に掲げられたともし火を意味しますので、月を空に掲げられた照明源とみて「月灯り」という表現も可能かもしれませんが、月明りという言葉があるのに月灯りとする必然性はないように思います。

 ㈫窓を貫くのは月の光すなわち月光(げっこう)とするのが自然ではないかと思います。貫いた月光が結果的に部屋を照らす灯り(あかり)になることはあり得ますが、窓を貫く段階では月光と捉えるべきだと思います。

 参考句:月光の窓を貫く秋の夜

     秋澄むや部屋にこもれる月明り

     夜更けては月を頼りの秋灯(あきともし)

眠る子の温もり膝に秋の旅         貫真英

 自分の膝にもたれて眠っている子の温もりがこちらに伝わってくる旅の様子が目に浮かびます。まったく安心しきって父親の膝で寝ている子供、それを慈しみの眼で見ている詠み手の幸福感に共感します。学齢前の子供については、「眠る子」を「眠る児」とした方が良いと思います。「秋の旅」とあるので移動中のバスか列車のなかの情景かと思いますが、実景に関わりなく「眠る児の温もり膝に」という素敵なフレーズを借用して、下記の句を作ってみました。

 参考句:眠る児の温もり膝に月見かな

 (縁側で月を待ってるうちに子供は眠ってしまった。その児の温もりを膝に感じながら、仲秋の名月を眺めている自分、という情景ですが、縁側という舞台は今や希少になりました。)

風倒のコスモス天に向き直る          貫隆夫

 台風で地に伏した庭のコスモスが倒れたところからほぼ直角に茎の向きを変え、上に伸びて花を咲かせている姿に健気さを感じました。

                                          (文責:貫隆夫)

貫先生近影カトマンズ17.03.30 撮影高橋衛 P1010763 (3)

貫隆夫(撮影:高橋衛)

貫 隆夫(ぬき たかお)
1940年鹿児島市生まれ。慶應義塾大学大学院商学研究科博士課程単位取得。専攻は経営学。
武蔵大学教授、大東文化大学教授を経て、現在、武蔵大学名誉教授。俳句連中「まだん」会員。
多文化社会研究会顧問。

防災訓練

川村理事長と防災訓練

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【2018年9月15日〆多文化研俳句まとめ】

9月前半の季節は夏が残っているところに秋が始まる微妙な季節、俳句を詠みにくい時期でもありますが、皆さん頑張って佳句をたくさん寄せて頂きました。今回から「まとめ」の方針として最初に送って頂いた句あるいは投句者自身で推敲された句を示し、私からの提案は参考句として示す、という形にしたいと思います。その方が後で振り返って投句者自身の進歩の軌跡がはっきりと表れるのではないかと考えた次第です。(以下、投句順)

しあわせを料理に託すひよこ豆               川村千鶴子
頂いた句によって「ひよこ豆」という名前を初めて知りましたが、ネットで写真を見ると見たことがある食材のように思います。もともと日本にはない豆を季語としてどう扱うかはどなたか権威のある人に決めてもらうしかありませんが、春から初夏にかけて白や菫色の花を咲かせ莢を付けると書いてありますので、実がなるのは夏と推定してここでは夏の季語を使った句として扱わせてもらいます。「しあわせを料理に託す」という語句は読み手にさまざまな想像をもたらします。料理する本人が幸せである、料理をふるまわれる人の幸せを願って、作る人食べる人双方の幸せを願ってのひよこ豆料理、「託す」とは今はまだしあわっせではないけれど将来の幸せを願って、あるいはすでに現状が幸せであり将来も幸せが続くことを願って、ということを意味するのか? さまざまな想像が出てくることは、意味不明の句とは違って、それだけ豊かなふくらみのある句だということになります。「しあわせ」という暖かな語感と「ひよこ豆」という可愛らしい語感とが対応しているので、リズムの良い五七五が読み手の胸に気持ちよく収まります。

虫の音や 茜に染まる 草原に                貫真英
夕焼けの草原に虫の声が聞こえる壮大な風景が浮かんできます。
「草原に虫の声が聞こえる」というのを「虫の声~草原に」と倒置するのは散文のようになってしまうのを避けるために有効だと思いますが、虫の声が聞こえる場所を説明しているという感じになってしまうリスクがあります。(俳句は説明を嫌います。説明すると読む側の想像のふくらみを奪ってしまうからです)。そこで以下の句を参考句として示します。
参考句:草原の虫の音繁き茜空

滴滴とすだち絞りぬ青魚           増田隆一
天高く夕空深き家路かな           同上
柿美味し父母の住むさと遠く         同上
「滴々」(てきてき)とは滴(しずく)がしたたり落ちるさまを意味し、「ぽたぽた」というオノマトペの方が我々にはなじんだ言葉です。言葉に対する敬意が深い俳句の世界では誰かが自分の知らない言葉を使うと、それだけで「今日は勉強させていただいた」という感謝の気持ちから点が入ることが多いのです。青魚(例えばサンマ)に滴々とすだちを絞りかけて食べるのは日本で秋を生きる幸せを感じさせます。
参考句:青魚すだちの香る夕餉かな
「天高く」の句。夕空も天なので、天ないし空が高く深いということになります。そこで、高いことと深いこととの関係が問題になりますが、天高きがゆえに、夕方になって少し暗くなってきた空が(暗さだけでなく)深さを感じさせる、ということであれば、この句はそのままでよいのではと思います。
「柿美味し」の句。故郷に残る年老いて来た両親を思う、という気持ちがしみじみと伝わってきます。ここで「さと」は漢字の「里」の方が一目でわかりやすいと思います。柿を食べて美味かったのでふるさとの父母を思い出したというより、柿の実が色づいた風景を見て故郷および故郷の父母を思い出していると方が納得的なので次の参考句を挙げてみます。
参考句:父母(ちちはは)の住む里遠し柿実る

夏空を一筋白く機はどこえ                  原田壽子
最大級雨風台風走り抜け                    同上
残暑は厳しく立秋は名ばかりぞ                 同上
まず、初めての俳句に挑戦されることに敬意を表します。初めてのことにチャレンジする気力は年齢に関係なく貴重です。
「夏空を」の句。「機はどこえ」という表現はやや口語的というか新聞の見出し的なので、以下のように参考句を示します。参考句:夏空や一筋白く機影なし
「最大級」の句。これもやや新聞見出し的なので、以下の参考句を示します。
参考句:最大級の台風過ぎし山野かな
(少し、言葉遊び的になりますが)参考句:台風の過ぎし山河の惨禍かな
「残暑は」の句。
参考句:立秋は名のみ厳しき残暑かな

雨や風秋の毎日涼しいな               マハルザン ラビ
秋の昼緑の池に白小鷺                マハルザン ラビ
白鷺の写真とともに投句有難うございました。台風の影響で雨や風があっても、秋になってすっかり涼しくなりました。最近は涼しいを通り越してやや寒いくらいです。
「涼しいな」という表現は子供っぽい感じになりますので、以下の参考句を作りました。(涼し、涼しい、は夏の季語。つまり、涼しいとは暑い夏の日に感じる感覚、秋になっての涼しさは「新涼」(しんりょう)と表現して区別をします。)
参考句:雨風(あめかぜ)の後の新涼昨日今日
「秋の昼」の句。白鷺は夏の季語となっていますので、秋の昼という上五と矛盾してしまいますが、白鷺は秋も見ることができますので、かまわないことにしましょう。木の緑を映した池に白い鷺がいる秋の昼、頂いた写真の通りの風景が、写真を見なくても想像されます。その意味で、この句はしっかりした写生句になっていると思います。
参考句:木の緑映る池面(いけも)や小白鷺

夕焼けや透けて輝くトンボかな            郭潔蓉
トンボの羽が夕焼けの色を透かしているという発想はとても詩情豊かで素晴らしいと思います。透けて輝く、という動詞を二つ重ねる表現は少しくどくなるかもしれないので次のような参考句を作ってみました。
参考句:夕焼けの茜(あかね)に透けるトンボかな

満月の影に重なる海月かな              貫隆夫
満月は秋、海月は夏の季語ですが、満月は年に12回ありますので、今回は季語の重なりを無視して、波の無い凪の海にぷかぷかと浮かぶ海月(くらげ)が満月の影に重なって文字通り海の月と化すイメージを俳句にしました。この場合、影とは海面に映っている月を意味します。
(以上)

ラビさん鷺写真

(撮影:マハルザン・ラビ)

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【2018年8月15日〆多文化研俳句まとめ】
蝉の鳴き声もひところと比べると少なめになり、例年にない猛暑の夏が過ぎようとしています。後悔の多い青春であっても、それが過ぎ去ることに一抹の寂しさを感じるように、夏の終わりは暑さから解放されてほっとすると同時に、季節の移ろいを惜しむ気持ちも感じてしまう不思議な時期でもあります。花火、かき氷など、さまざまに夏の季節を詠んだ句が寄せられました。(以下、投句順)

夏木立 安心の居場所に 医・職・住         川村千鶴子
この句を投句された思いを、川村さんは「炎暑の中、外国人労働者にとって、安心の居場所とは衣食住よりむしろ、医療のアクセスと職の安定、そして家族との住居、つまり医職住ではないかと思いました」と書かれています。この句の季語に「夏木立」を使われた理由として、「夏木立には弱っている人を守ってくれるような力強さを感じます」とも書いてあります。社会的なメッセージとしては、安心の居場所には医職住が必要なんだという主張が言えていればそれでよいので、この際季語はどうでもよいとも言えるのですが、社会性のある主張を詩情を添えて伝えることができれば、その方がずっと素敵です。「夏木立」という季語はその点で成功していると思います。
参考句:安心の居場所は涼し医・職・住

ベランダに あきつ止まりし ひぐれかな       増田隆一
「あきつ」はトンボの古名。都会のトンボにとってはベランダもまた一休みする場所なのですね。「あきつ」という古い言い方とベランダという現代的なものとの対比が決まっています。「止まりし」は形容詞よりも過去形のイメージが強くなるので、現在形の形で「ベランダに蜻蛉(とんぼ)の止まる日暮かな」と読み替えた方が解りやすいように思えます。

残暑厳し 毛皮脱ぐかや 猫昼寝           増田隆一
今年の猛暑は人間のみならず動物や植物にとってもつらかったのではないかと思われます。立秋を過ぎ残暑というべき昨今も暑さが厳しいので、この句を詠まれた増田さんの気持ちがよくわかります。毛皮は断熱効果があるので寒い季節に体温を逃がさない効果だけでなく、外からの熱を体内に取り込まない機能もありますので、猫にとっては暑い季節であっても毛皮は必要なものなのでしょう。そういう意味では、人間にとっての毛皮のコートと意味合いが異なりますので、擬人化にはかなりのリスクが伴います。
なお、残暑は秋の季語、昼寝は夏の季語となっています。イタリアやスペインのように四季を通じて昼寝が習慣化されている地域と違い、日本の夏はその他の季節にはなされない昼寝を必要とするほど疲労感を伴う厳しい季節と受け止められているのでしょう。猫が午後の暑さを避けているという情景を片蔭(かたかげ)という夏の季語を使って;
参考句:片蔭を猫歩みおる昼下がり

傘折りて 襟裏見せし 秋嵐        増田隆一
台風が襲来し、強い風で傘の骨が折れ、着ている衣服の襟(えり)が裏返ってしまう、という情景が良く表れており、特に襟裏を見せるという表現が風の強さを的確にとらえて見事だと思います。「見せし」というと通り過ぎた台風を詠んでいるようにもとられますが、「傘折りて襟裏見せて秋嵐」と現在形で畳みかけて詠んでもよいかもしれません。

パララララ夜空に咲いた花火かな      マハルザン ラビ
美しく華やかな花火の写真とともに投句有難うございました。花火は一瞬の輝きを見せてさっと消えていく点で、日本人にとって桜の花に感じるのと相通じるものがあります。 「パララララ」は花火が打ち上げられて広がるさまを詠まれたものと思いますが、花火についてこのようなオノマトペは初めて見るもので、とても新鮮です。
花火は夜に決まっている、という批判もあり得るでしょうから、明るさの後を詠んで;
参考句:パララララ 花火一瞬 元の闇(もとのやみ)

子供らが蟻を無邪気に殺しけり        貫 真英
子供達は自分の力の可能性を試すために、また好奇心からも、様々なことを行います。小さな虫を殺すこともその一環なのでしょう。自分も小さいころ蝶々の羽をむしったことを記憶しています。たとえ小さな昆虫であっても、それを「殺す」という行為を「無邪気」に行うことができるのは子供の特権かもしれません。大人も家の中でゴキブリを殺し、屠殺場では食用のために家畜を殺していますが、それは習慣化された行動であるために「殺生(せっしょう)」をしているという罪の意識を伴うものではありません。「殺す」という本来、俳句の風雅に合わない言葉を「子供の無邪気さ」に引き付けて俳句にしたところがこの句のポイントかと思います。

かき氷 暑さ吹き飛ぶ マンゴー味        郭 潔蓉
マンゴー味のかき氷、いかにもおいしそうですね。今度台湾に行ったら是非食べてみたいです。熱中症の日本でこの句を読むと、「暑さ吹き飛ぶ」という中七の言葉に惹かれます。
参考句:故郷(ふるさと)やマンゴー味のかき氷

かき氷 皆で食べると 美味しさ二倍       郭 潔蓉
分量がたくさんあるかき氷の山を皆でつつきながら食べるというのは美味しさだけでなく楽しさが伝わってきます。「皆で食べると美味しさ二倍」というと因果関係を説明している感じになるので、「かき氷みんなで食べて美味しさ二倍」としてはどうでしょうか。
「皆で食べ 美味しさ二倍 かき氷」でも良いかと思います。「かき氷 二人でつつき 美味しさ二倍」  も「二」と「二」が対応して面白いかもしれません。

フェラゴスト 終わらない飯 楽しめた    ダニエーレ
ダニエーレさんからの説明もありましたが、Ferragosto は夏の息抜きに日光浴や水遊び、食事を楽しむ祝日との由、日本の夏と違い湿度の低いさっぱりした気候のなかでの屋外での食事は楽しいでしょうね。
「楽しめた」というと俳句の世界で言う「報告句」の雰囲気になって詩情よりも報道性の方が高くなりますので、この点を工夫しましょう。
参考句:楽しさの続くランチやフェラゴスト
終わらない楽しいランチ フェラゴスト
終わらない料理とワイン フェラゴスト
イタリアの 夏楽しきはフェラゴスト

早天から蝉の鳴き声電車と競る        チョウチョウソー
早朝を意味する早天という言葉を使って作句されたこと、感心しました。競る、という動詞で終わっていることもインパクトを強めています。蝉の声と電車の音、都会では自然と人工の音が同時に聞こえてきます。この二つの同時性を「競る(せる)」と捉えて詠まれたことは作者の感性の表れと思います。
問題:競る(せる)がいいか、競う(きそう)がいいか? いずれにしても字余り。字余りにならない表現はないか? (ただし、リズムの関係で、中七(なかしち)の字余りはできるだけ避けるのが常道ですが、下五(しもご)についてはインパクトを強めるためにあえて字余りにすることも一つの選択です。)
参考句:早天や電車に勝る蝉の声
(早天から鳴く蝉を、たんに「朝の蝉」と言い換えて)
朝の蝉電車過ぎても鳴きやまず
作句された日はすでに立秋を過ぎ、蝉は「秋の蝉」となります。秋の蝉は季節的にあとが少ない寿命なので夏の蝉に比べて哀れを誘うと同時に、子孫を残そうとする必死さは夏の蝉以上であるとも解釈できます。そこで、「秋の蝉」という季語にして;
秋の蝉電車の音に鳴きやまず

向日葵(ひまわり)の向かう当てなく雨しとど   貫隆夫
太陽を追って向日葵の花が回るというのは俗説で、実際にはほとんど動かないと広辞苑にありますが、アジサイに雨が良く似合うのに対し、雨の日の向日葵はいかにも所在無げに見えます。「しとど」は「雨がしとしと降る」と同じく、雨にひどく濡れる様子を示す、一種のオノマトぺです。

(文責 貫隆夫)

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【2018年7月15日〆多文化研俳句まとめ】
今年の夏は猛暑です。春は青春、夏は朱夏と呼ばれるように、夏は命の炎が燃える季節なのですが、これだけ猛暑が続くと燃えるよりもぐったりして一日が過ぎてしまいます。暑さに負けずに戦っている方々から共感を誘う下記の俳句が投句されました。(以下、投句順)

時知るや蝉の声せず戻り梅雨      増田隆一
蝉と梅雨はどちらも夏の季語ですが、この句は蝉と梅雨の前後関係を問題にしているので、季重なりは必然で、梅雨が明けたはずなのにまた雨が降る「戻り梅雨」という季語にチャレンジされた句と受け止めました。「時知るや」という上五も生きていると思います。ただ、「時知るや」に「蝉の声せず」が続くと、「蝉が鳴くべき時期にまた梅雨に戻ってしまった」という意味になりますが、そうなると「時」を知らないのは鳴かない「蝉」なのか戻ってきた「梅雨」なのか、読む側は迷ってしまうかもしれません。「時知るや」の上五を割愛して、「蝉の声聞くこともなし戻り梅雨」もアリかと思います。
鮎焼きて茗荷を添えし夕餉かな     増田隆一
鮎も茗荷(の子)も夏の季語ですが、「添えし」という言葉があるので、ここでも季重なりを気にする必要はありません。鮎に茗荷が添えられる夕餉なんて季節感満点で羨ましい限りです。
ふたたびの憂いや山に梅雨やまず    増田隆一
今年も大雨による洪水や土砂崩れでたくさんの方が亡くなられました。この句が作られた時点では平成最大の被害が出るとはまだわかっておらず、被害の心配がなされている時期だったので「ふたたびの憂い」はぴったりの表現かと思います。梅雨期の豪雨による河川の氾濫については「出水(でみず)」あるいは「梅雨出水(つゆでみず)」という季語があるくらいに日本では常態化している災害で、この句で詠まれた「憂い」が「出水」として現実化し、200名を超える死者が出たことは本当に心痛むことでした。

笹の葉に祈りを込めて一安心      川村千鶴子
本来、陰暦の7月7日が七夕なので、天候的には牽牛星と織姫星が天の川を挟んで会うロマンを感じにくい梅雨空になることが多いようです。笹の葉に自分の願いを書いた短冊(たんざく)を結ぶことで、「これで大丈夫」と一安心できる川村先生は自分の願いが叶ってきたこれまでの幸福の実績がそうさせているのだと思います。この句を読む側もなんとなく幸せになれる自信が湧いてきます。頂いた句からいくつか俳句が触発されました。
笹の葉に祈りを込めし母のこと
   大願の祈りを込めて笹の葉に
   笹の葉に小さき願いを掛けにけり
   七夕に掛けた願いはひーみーつ
七夕に願い飛びかう俳句かな    川村千鶴子
七夕に願いを書いたことを俳句に詠んで、その俳句を皆で共有する。素敵なコミュニケーションだと思います。願いが祈りを伴うことで、人間を超えた存在が応援してくれているという励みと、祈ったからには自ら全力を尽くす責任があるという自覚が生まれるのだと思います。

笹の葉に掛けた願いが風に舞う     チョウチョウソー
作者は幕張駅前の七夕の笹竹に願いを書いた短冊を掛けられた由、リズム、季節感、詩情の三拍子が揃っていてとても素敵な俳句だと思います。どんな願いを書かれたのかわかりませんが、読む側は「その願いが叶いますように!」と一緒に祈る気持ちになります。

猛暑日や大汗をかく模擬授業      郭潔蓉
暑い中での模擬授業、大変ですね。「猛暑日や生きてるだけで合格点」と何もしないでいる自分と比べて現役の郭先生のご苦労がしのばれます。原句は、「炎天下 汗と格闘 模擬授業」でしたが、「炎天下」というと野外授業をやってる雰囲気になるので「猛暑日」に変えます。また、俳句には「三段切れ」を避けるという慣行があります。三段切れというのは上句、中句、下句がそれぞれ切れてしまうことを指します。そこで中句と下句を関連付けて、掲載句のようにしました。(猛暑と大汗はどちらも夏の季語ですが、ここでは重なって構わないと思います。)
風鈴を聞くや待たれる夏休み      郭潔蓉
早く夏休みにならないかなー、という気分にはまったく共感します。その気持ちを風鈴の音と結び付けて俳句にした着眼は素晴らしいと思います。原句は
「鈴の音や待ち遠しき夏休み」でしたが、「待ち遠しき夏休み」と「待ち遠し」を夏休みの形容詞とするのではなく、風鈴の音が聞こえると待ち遠しい、という詠み手の気分を表す言葉にして「風鈴の音(ね)に待ち遠し夏休み」あるいは「風鈴を聞くや待たれる夏休み」、「風鈴の音にも待たれる夏休み」(文語的には「風鈴の音にも待たるる夏休み」)としてはどうでしょうか?

夏の夜蒸し暑い部屋眠れない    ラビ・マハルザン
日本(東京)の夏は蒸し暑くて寝苦しいですね。高原の國ネパールの夏は日本で言えば避暑地のような気候ではないでしょうか? 初めて日本の夏を過ごされる奥さんは大変だろうなと同情いたします。
ラビさんの俳句から触発されて以下のような俳句を作りましたが、ラビさんの原句の方が蒸し暑い日本の夏で苦労されている情景がよく伝わってくるように思います。(「熱帯夜」は夜になっても摂氏25度を下回らない場合に使う気象用語ですが、最近夏の季語となっています。)
我が部屋の寝付くに難(かた)き暑さかな
    蒸し暑い夏夜(なつよ)に偲(しの)ぶ故郷かな
    ネパールの夏懐(なつか)しき熱帯夜
暑い日々体がだるいビール欲しい   ラビ・マハルザン
これも「暑い!ビール飲みたいなー」という気分が率直に伝わってきます。原句から以下のような句を思いつきましたが、これらは参考句として扱い、原句を掲載句と致します。「夏バテ」は夏の暑さで体がバテることを言います。
ビール欲し酷暑がつらい日であれば
    炎暑(えんしょ)の日ビール欲しがる我が身かな
    夏バテをビールに癒す(いやす)縄のれん

ゴキブリや元気に動く盛夏の夜     ダニエーレ
ゴキブリは暖房の発達した現代では一年中見られますが、夏の季語となっています。体全体が油を塗った様に光っていることから油虫(アブラムシ)とも言われます。確かに夜でも活発に動いていますね。夏バテ気味の人間と比べて「ゴキブリのやつ、元気に動いているなー」とその生命力に辟易しながら感心もしている気分がよく表れていると思います。原句は「盛夏の夜元気に動くゴキブリや」でしたが、「や」という感嘆詞は下5(「しもご」と読みます)に使うことはあまりしませんので、上のように語順を変えて掲載します。
油虫という言葉を使うと5音になるので、元の語順のまま次のようにしても良いと思います。
盛夏の夜元気に動く油虫
   また、少し軽めにして、
   不眠の夜ゴキブリ元気こんちくしょう!

黄帽子の並んでプール開きの日     貫隆夫
今日、小学校のそばを通るとプール開きをやっていました。私が小学生や中学生の頃は学校にプールがなかったので、プールサイドにいる子供たちを見ると戦後から今日までの日本の発展と平和の有難さを感じます。

(文責  貫隆夫)

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(7月14日/ラビ・マハルザン夫妻)

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2018年6月15日〆多文化研俳句まとめ】
梅雨の季節です。ときどきの晴れ間(梅雨晴間)には、これからやって来る盛夏への期待と怖れを同時に感じてしまいます。今回も素敵な俳句が寄せられました。(以下、投句順)

つかの間の晴れに干したる雨具かな   増田隆一
梅雨の季節の生活感がさりげなく表現されています。梅雨の間のつかの間の晴れを表す言葉として「梅雨晴れ間」(あるいは「梅雨晴間」)という季語があります。干す場所を具体的に示すことで情景がはっきりしますので、例えば、「梅雨晴れ間テラスに並ぶ雨具かな」としても良いかと思います。
傘の花あじさい添ゆる通学路      増田隆一
あじさいという花に加えて傘の花を持ってくる着眼は素晴らしいです。
あじさいの咲いてるそばを学童たちの傘が通り過ぎていく、という情景なので添うのは傘の花の方とするのが自然かと思います。例えば、「あじさいや傘の花添ふ通学路」。
ハロ見えて天も日傘の立夏なり     増田隆一
スケールの大きな見立てが大変効果的に使われています。「なり」はどちらかと言えば川柳的な言葉遣いになりますので、例えば、「ハロ見えて天に日傘の立夏かな」。

色づいて微笑みかけるトマトかな    川村千鶴子
少し熟れて来たトマトは成長しつつある少女の微笑みを思わせる、ということでしょうか。かわいいトマトにふさわしい俳句になっています。「微笑みかける」という擬人法は避けるべきという意見もありますが、色づいてきたトマトを中心に置くか、トマトが熟れて来たのを「微笑みかける」と受け止め、見る側の気持ちを中心に置くかは、詠む側ではなく読む側の自由ということになります

雨のなか優雅な散歩かたつむり     郭潔蓉
原句の「夕立も優雅にお散歩かたつむり」の句意は、「夕立の中、私をはじめ人間たちは慌てて急ぎ足で歩いているが、かたつむりは悠然と歩いているなあ」ということかと思います。雨に濡れるのを嫌って急ぎ足になる人間と、ゆっくりした移動のペースを変えないかたつむりとの対比が面白い着眼と思います。自然の生き物をみて自らを省みるという姿勢も素晴らしいです。

「夕立も」という言葉は「夕立が降っている中でも」という意味だと思いますが、「夕立も」とすると夕立が主語として散歩している、という違和感を与えるのと、「夕立」も「かたつむり」も夏の季語なので、季重なりを避けるために「夕立」を単に「雨」として、「雨の中」としました。また、リズム感のためには、中七(真ん中の七音」はできるだけ七音を守ることが望ましいと言われますので。「お散歩」の「お」を省きます。「優雅に」という表現は見る側の主観に過ぎないとして「客観写生」を重視する立場からは主観の入らない表現が求められる、ということもあり得ます。その批判に対応するとすれば、下記のような句も選択肢になります。「雨の中歩み変わらぬかたつむり」。
夕立のような激しい雨の中でもペースが変わらないことを言いたいのだ、というときは季重なりを気にせず、「夕立に歩み変わらぬかたつむり」あるいは「夕立に歩みを変えぬかたつむり」という句もありです。

ザーザー雨山の畑に虫がなく       ラビ・マハルジャン
原句の「ザーザー雨で濡れた畑に虫がなく」、すなわち、ザーザー雨=ザーザー雨が降っているのに虫が鳴いてるという情景はインパクトがありますね。私たちはザーザー降り、あるいは,ザザ降り、と言って、「ザーザー雨」ということはありませんが、それだけに「ザーザー雨」は新鮮な印象があります。雨が降っていると虫もひっそりしているというのが私の常識なので、ネパールには雨の中でも鳴く虫がいるんだ、どんな虫だろう?と興味をそそられます。「虫」はいちおう秋の季語になっていますが、夏でも鳴いているのでこのさい季語の問題は無視しましょう。ただ、雨が降ると畑が濡れるのは当然のことなので「濡れた」という言葉は省いてよいと思います。
ネパールの山間にある畑を「山の畑」(やまのはたけ、あるいは、やまのはた)としてより具体的なイメージが湧くようにしましょう。また、「で」という助詞があると因果関係を説明しているような感じになりますので(説明だと詩情が消える)、これも省きます。
日本では田植えの頃は水を張った田に蛙(かえる、あるいは、かわず)が鳴いています。(但し、「田植え」の季語は夏、「蛙」は春から夏にかけて賑やかに鳴きますが、季語としては「春」になっています)。そこで、「ザーザー雨山の田圃(たんぼ)に蛙なく」とすることも考えられますが、蛙ではなく虫が鳴いているのだということかと思いますので、「ザーザー雨」と「虫がなく」を活かして、最初に示した句を掲載句とさせていただきます。

六月に麦笛の音が聞こえない     ダニエーレ・レスタ
「六月なのに、故郷のように麦笛の音が聞こえてこないなあ」という思いを、ダニエーレさんは投句の「六月が麦笛の音聞こえない」という句に込められました。イタリアの六月は梅雨の日本とちがって天気が良く、南部イタリアでは海水浴も始まるとか。地球は(多文化だけでなく)多気候の惑星なのだということをダニエーレさんの俳句から改めて実感しました。近い将来、ダニエーレさんがイタリア版の歳時記を編纂されることを願っています。日本では草笛は夏の季語としてありますが、麦笛は季語としてありません。私も草笛は聞いたことがありますが、麦笛は聞いたことがありません。麦笛という概念を知っただけでもダニエーレさんの句に触れてよかったと思います。
句意は、「六月(である)が 麦笛の音が聞こえない」あるいは、「六月(なの)に 麦笛の音が聞こえない」ということなのですが、「六月が」とすると、どうしても「六月」が主語として受け取られるので、「六月に麦笛の音(ね)が聞こえない」あるいは「六月に麦笛の音(おと)聞こえない」としてはどうでしょうか。
麦笛の音は、(花が咲くのが当たり前のように)聞こえるのは当たり前なので、「麦笛の音が聞こえる」ではなく「麦笛が聞こえる」で充分意味が通じます。そこで、「音」を省略して、「六月に聞こえてこない麦の笛」(草笛が「草の笛」と置き換えられるように、麦笛は「麦の笛」と5音の言葉に置き換えることができます)。
「麦」は、日本の歳時記では夏の季語となっていますので、六月と麦笛は季重なりになりますが、ここでは六月というイタリアでは晴天の良い季節なのにここ日本では麦笛が聞こえてこない、という句意なので季重なりを気にする必要はありません。「聞こえない」という否定形ではなく、故郷では「聞こえる」というポジティヴな句にするために、次のような句もありではないかと思います。「今頃は故郷(ふるさと)の子ら麦の笛」あるいは「ふるさとの子ら吹き遊ぶ麦の笛」。

雨降るやあじさいの青さらに青       貫隆夫
あじさいは梅雨の季節に咲く花らしく、日の光の中よりも雨降る中の方が色鮮やかに感じられます。あじさいの花の色は青だけではありませんが、ここでは青によってあじさいの色を代表させています。
(文責 貫隆夫)

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【2018年5月15日〆多文化研俳句まとめ】

新緑さわやかな季節です。今回も多文化研らしくユニークで素敵、そして詩的な俳句が投句されました。

 

天国に母の日カード送りたい     川村千鶴子

ご自分が孫を持つ年代になっても、自分の母親はやはり特別な存在としての母であることに変わりはなく、母の日が近づいて母の日カードが郵便局で売られていたりすると、今は亡き母に愛と感謝を込めたカードを送りたくなる。母への思いがカードを送りたいという具体的な表現で明確に伝わってきます。

五月晴れ誕生日こそ若返る      川村千鶴子

一つ年を取るのではなく、一つ若返るくらいの気持ちで誕生日を迎えるという前向きな気持ちが素晴らしいです。

初夏の風父との旅や美麗島      郭潔蓉

美麗島は台湾の別称との由。「や」は「切れ字」の一つですが、「や」を使うことで、そこに詠嘆や喜びなどの感情が込められて俳句らしくなります。たとえば、「古池や蛙(かわず)飛び込む水の音」という松尾芭蕉の句は有名ですが、これが「古池に蛙飛び込む水の音」となると、たんに蛙が古池に飛び込んで水の音がしたという「報告句」ないし「説明句」となってしまい、音一つしない静寂な古池の雰囲気の中で、蛙が飛び込んで「ポチャン」という音がし、そのことでいっそう周りの静かさが強調される詩情は浮かんできません。「父との旅や」と表現することで、現在の旅を楽しむ気持ちとあと何度父と一緒に台湾を訪れる機会があるのだろうという、人生の限られた時間への感慨がともに伝わってきます。

妻憮然シチュー肴に冷し酒      増田隆一

増田さんの句は主として夏の酒である冷酒に煮込み料理であるシチューを合わせて飲むことに妻が呆れて見ている、という生活の情景がほほえましくイメージされて、あたたかな軽みのある俳句になっていると思います。「君の手作りなんだから肴はなんだっていいんだよ」という愛情が伝わってきます。

青嵐(あおあらし)負けずに進む和の心   ラビ・マハルジャン

ラビさんの前に進む気迫が伝わってきます。ここで「和の心」とは「平和を愛する心」とか「和気を尊ぶ心」とかいうものではなく、大和魂とか武士道や侍の心を指すものだと理解いたします。幕末の儒学者・志士である吉田松陰(よしだしょういん)の言葉に、「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂(やまとだましい)」という和歌があります。「こうすればこうなる(たとえば死んでしまう)ということがわかっていても、大義のためには損得を考えずに行動するのが大和魂なのだ」という意味です。ラビさんの俳句によって。日本の心=和の心、には、和やかさ(なごやかさ)を大切にする気持ちと、正しいと思ったことのためには損得を考えずに前に進む、という二つの意味があることに気づかされました。(青嵐は新緑の頃(青葉の頃)に吹くやや強い南風、のことを指します)。

花粉症喉ヒリヒリと寝付かれず      ダニエーレ・レスタ

花粉症で喉が荒れてなかなか眠れない夜が続いたとのこと、大変でしたね。

しかし、その苦しさのお陰で俳句が一つできたとプラス思考で受け止めてください。花粉症のつらさが分からない私は花粉症の句が作れません。

鯉のぼり空を賑わす子だくさん      貫隆夫

少子化が問題となるなか、近所の児童館の空にはためく鯉のぼりは子だくさんです。

(文責 貫隆夫)

母の日カーネーション2

(撮影:川村千鶴子)

皐月夕景

(撮影:ラビ・マハルジャン)

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【 2018年4月15日〆多文化研俳句まとめ 】

兼題として一応「桜」「夜桜」「花見」「花」(俳句で花と言えば桜を意味します)等を挙げましたが、季節に合った季語であれば構わない、季語がなくともOK、ということで4月15日を締め切りに投句して頂きました。投句募集がまだ周知されているわけではないので、今回は3月8日に清瀬市の拙宅に来ていただいた方々に投句をお願いしましたところ、幸い全員から期日までに俳句が送られてきました。3月から4月にかけては年度末・年度初めの最も多忙な時期なので、この時期に全員の方からの俳句が揃ったことはとても素晴らしいことだと思います。以下に、投句された順番に簡単なコメントを付して、まとめと致します。    (文責:貫隆夫)

 

つかのまの若さつかのま桜かな           貫隆夫

桜が愛されるのは桜の花の命の短さが根底にあり、そこに見る側の自分の命の短さ、儚さ(はかなさ)を重ね合わせるからだと思います。長寿命化している現在であっても大局的には命の儚さは変わりません、まして若さはもっと儚く、つかの間です。

夜桜に父母の思い出よみがえる           川村千鶴子

亡き御父母とご一緒に夜桜を見たことがあり、今年の夜桜を見てそのことが思い出された、ということが素直に伝ってきます。五七五の字数はリズムがよく、読みやすい。川村先生はパッとすぐ俳句が出てくる即興性が素晴らしいと思います。

朧月かさに夜桜舞いすがた             増田隆一

「朧月」と「夜桜」はともに春の季語なので、いわゆる「季重なり」となりますが、夜桜の美しい桜の木を朧月を傘にして舞う日本舞踊の名手(舞妓さん?)と見立てた壮大な句として受け止めましたので、この場合の季重なりは構わないと思います。(「朧月」で時間が夜であることは分かっているので、「朧月かさに桜の舞いすがた」で良い、とする意見はあり得ます)。

青空に雲が浮かんだ天桜              ラビ・マハルジャン

青空に浮かんだ雲が満開の桜の木(あるいは桜の花)のような形をしており、まさに「天の川」ならぬ「天の桜」「天桜(あまざくら)」のようであった、という句意と受け止めました。天桜という造語のセンスがすごいと思います。日本人にはちょっとできない発想です。

「青空に雲が浮かべる天桜」(あるいは「が」という濁音を避けて、「青空に雲の浮かべる天桜」とした方が解りやすいかも知れません。また、「天桜」という言葉は辞書に存在しないので、すでにある言葉の中でラビさんの句意を活かすとすれば、「青空に雲の綾なす桜かな」とすることもできそうです。

*「綾なす」には「きれいな形を作る」という意味があります。

新学期きりきり舞いの春の暮れ        ダニエーレ・レスタ

教員であれば誰しも身につまされる句だと思います。「きりきり舞いの」という表現が実にぴったりと状況に適合しており、イタリア人のダニエーレさんがよくこの言葉を御存じであり、かつ的確に使いこなせるものだと感心しました。

日本では「新学期」は4月からということで春の季語なので「春の暮れ」と季重なりになりますが、外国では春と限らないのでこのままでもよいかと思います。季重なりを避けたいということであれば下記のようにしてはどうでしょうか?

「新学期きりきり舞いに日暮れかな」

あるいは、「新学期きりきり舞いに日の暮れる」

(文語的には)「新学期きりきり舞ひに日の暮るる」

「きりきり舞いの」とすると日暮れだけがきりきり舞い、ということになりますが、ダニエーレさんの気持ちは、「今日は朝から一日中忙しくてあっという間に夕暮れになってしまったなー」というものだと思いますので、そうだとすると「に」とする方が「きりきり舞いしてるうちに日が暮れてしまった」という句意がより明確になります。

卒業の子らの涙に吾は微笑(え)む            郭潔蓉

卒業は友人たちとの別れの時でもあるので、別れのつらさに涙することはしばしばみられる光景かと思います。それは個人の成長のプロセスでもあるので、その涙を見ている教師は卒業していく彼らのこれからの人生の幸福を願いつつ、微笑みをもってそれを眺めている、という情景が目に浮かんできます。現象的には涙と微笑みが対になっていても、生徒(学生)と教師との信頼関係や教員の生徒への慈愛がしっかり読み取れます。

桜土田

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多文化研有志 清瀬句会     二〇一八年三月八日
清瀬市 貫隆夫宅

春炬燵羽毛布団の暖かさ      川村千鶴子
雨ひと日冬に追いつく人もなし   増田隆一
枯れ枝に滴る氷雨音も無し     増田隆一
春時雨傘にしたたる過ぐる冬    増田隆一
お赤飯カラオケ唄うひなまつり   ダニエーレ・レスタ
春うらら桜はいつぞ咲くのかな   郭潔蓉
足あとに辿ってくれた雨の音    ラビ・マハルジャン
歌俳句手料理おしゃべり春の宴   貫雅美
スマップを歌う郭さん春好日    貫隆夫
賑やかや五人持ち来る春の色    貫隆夫

【出席者】(敬称略)川村千鶴子、増田隆一、郭潔蓉、ダニエーレ・レスタ、ラビ・マハルジャン、貫雅美、貫隆夫 以上七人

東京のはずれ、典型的なトカイナカの清瀬に折からの春雨に少し濡れながら
集まっていただいた五人の高貴な賓客に、菜の花のお浸しでおもてなしをいたしました。その際の余興としてカラオケ一曲、さらに俳句をそれぞれ歌い、詠んでいただきました。

帰りの時間が迫った短い時間にもかかわらず皆さん素敵な俳句を作っていただき、木曜七時からのテレビ番組「プレバト」風に言うと全員「才能あり」、少し修行するとすぐに「特待生」に昇格される方ばかりと感心致しました。増田さんの「冬に追いつく人もなし」の句はどう読み取るか難しかったのですが、もう春が巡ってきたのだし、去っていく冬に後ろから追いついて歳月を取り返すことはできないのだから、後悔はあってもきっぱり前を向いてこれからの春を精一杯生きることにしましょう、という自らと皆に向けた激励のメッセージ、と解釈しました。他の方々の句についても、自分の解釈と作者の意図が合致するのかどうかを確かめる時間があればよかったのですが、今回は時間不足でした。

俳句は作品を出してしまえば、半分は作者のもの、もう半分は読み手のもの、と言われます。読み手の解釈が作者の意図と一致する必要はないのですが、作者の意図を確かめてみたい気持ちは起きてきます。また皆さんとゆっくりおしゃべりと俳句を楽しむ時間が持てることを願っています。

俳句については日本においてもいろんな考え方があり、季語は必要、五七五でなければならない、という立場もあれば、無季語で良い、五七五の語数にとらわれず自由律で良い、という考え方もあります。また俳句が国際化するにしたがい、日本のような季節感がない地域でも人生や自然を詠うHAIKUが普及してきています。

一つの俳句に季語が2つあるのを避ける(「季重なり(きがさなり)を避ける」のは俳句の一つのルールとしてありますが、これもその句のメッセージを伝えるために必要とあれば、季語が重なっても構わないということは広く認識されています。(一茶の句に「我が春も上々吉ぞ梅の花」というのがあります。春、梅の花と季語が2つあります)。

川村先生の句は「春炬燵羽毛布団の暖かさ」と詠まれていて、春炬燵=春、布団=冬、暖か=春、と季語が3つ出ていますが、句のメッセージは「春炬燵に入ってみたら羽毛布団にくるまった様に暖かかったなあ」というもので、それぞれの言葉が出てくる必然性があり、読んでいて何も違和感は感じません。俳句を作るに際して季重なりを避けようとするのは、五七五という17文字の制約の中でできるだけ不要な言葉を省く、ということから来ています。「春炬燵はあったかいに決まっているから、春炬燵をわざわざ暖かいという必要はない」という立場もあり得るでしょう。しかし、「春の炬燵って、やっぱり羽根布団のように暖かいなあ」と素直に感嘆する立場もあってよいのでは、と思います。

多文化研は日本語が母語ではない人も参加する組織です。俳句のルールは一応弁えたうえで、しかし、自由に自分が感じたこと、気が付いたことを、なるべくリズムよく(できれば五七五のリズムに合わせて)表現する、ということで良いのではないか、大切なことは日常の生活の中で自分の感性を働かせること、それを言葉として表現しようとする表現意欲を持つことだと思います。

(貫隆夫)